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 私はことごとく不遇である。
 私に与えられた境遇は、いつも恵まれていなかった。

 私の名前は江上杏子。

 父親は、まだ私が幼い頃に病死して、私は母と共に力をあわせて細やかに暮らしていました。
 その後、母は再婚したのですが、その再婚した父親がどうしようもない男だったのです。

 寂しがっていた母の心を刺激して、拠り所が欲しかった母はしばらくの後に結婚しましたが、酒癖が悪く、外で浮気もしている様でした。
 薄々感づいていた私は、母に話してみたものの、『そんなことないわよ。気のせいよ・・・。』と言って、信じませんでした。

 その後のある日、中学生の私はびっくりする体験をするのです。
 母が勤めに出ていた留守中、溜まっている台所の洗い物を片付けている時、義理の父親が私のお尻を触ってきたのである。
「キャッ!?、やめてっ。」
 そう言って手を払おうと抵抗した私に義理の父は驚いて、その場は収まったのですが。
 でも、その事を母には言えませんでした。
 およそ父を信用しているであろうと思い、また、あまり心配もかけたくないと思いました。

 慌てて家を飛び出した私でしたが、かと言って、他に行けるところがある訳でもなく、何時間か経った後、母が帰って来た時間を見計らって家に帰るのでした。
 私は怖くて、自分の部屋にずっと閉じこもっていました。
 家で、母にはいい人ぶっている義理の父でしたが、・・・やがてそれから地獄が始まるのでした。

 私が学校と家事とで、疲れて寝てしまっていたある時、足に何かを感じました。
 そして気がついて目が覚めると、父が私の太ももをまさぐっていたのです。
「わあっ!、な、やめてっ!、何するのっ!!ヤメテッ!?」
『チェッ、くそ・・・、もったいぶりやがって・・・。』
 と言って、父は外に出て行きました。

 お酒は家でもちょこちょこ飲んでいた父でしたが、少々気に入らない事があると、次第に母に暴力をふるう様になりました。
 そして、性根の不真面目さがだんだん表に出て来る様になると、今度はとうとう会社でもリストラ対象にされたのです。
 なげやりになった父は、お酒を飲んでは因縁をつけ、母や私に手をあげて、八つ当たりをして来ます。
そんな日々が続いたある日・・・・。
 試験前だった私が机に向かって勉強していた、まだ明るい夕方でした。
 母の不在中、静かに開けた戸のところに立っていた父の様子が変でした。じーっと何か考えている様な、数秒間の沈黙の後です。
「キャアッ、何するのっ、ヤメテッ! ヤメテ――ッ! いやあ゛――っっ!!」
 部屋に入ってきて、無理やり私を乱暴しようとしたのです。まだ中学生の私を。
 バタバタと激しく抵抗して、命いっぱいの力で振り解こうとしました。

 幸い、間一髪というところで私の悲鳴を聞きつけて、鍵の開いていたドアから駆け込んで来てくれた近所の人に見つかって、その場を逃れる事が出来ました。
 そして、母の知るところにもなり、結局、母は私を守ろうと、義理の父と離婚しました。
 こういう厄介な性分の男でしたから、後で揉めない様にと弁護士を間に立てて協議をし、僅かの慰謝料も望める運びとなったのです。
 外で浮気をしていた事は悟っていた様でしたが、母も、義理の父の浮気と暴力から逃れる事が出来たのです。

 でも・・・・。
 私の不遇はここから本番が始まるのだった。

 襲いかかられた恐怖感からなかなか開放されずに、夜ごと夢に出て来るのです。
「・・・ぃゃ、・・・やめて、・・・うぅ・・・」
 そんな日々がおよそ一ヶ月続いたある時。
 TVを見ていると、意外なニュースが流れて来ました。
 母と離婚した義理の父が、酔って駅のホームから転落して、電車にはねられて死んだのだった。
 リストラされて、やけになっていた父は、酒びたりの日々を過ごしていた様で、ホームをふらふらと歩いていたらしいのですが、方向感覚を無くして線路上に落ちてしまったのだと。
 母が再婚した義理の父には大した愛着も無く、内心「ざまぁみろ・・・」と思っていた私でしたが・・・。
 それが私の憎しみという感情の芽生えだったのです。
 PTSDと言うのでしょうか、中学生の頃のいやな思い出がトラウマになってしまったのか、その後、ずっとその暗い体験が尾を引いていきます。

 高校に上がった私は、三年生の時、進路などの事で色々と相談に乗ってくれたバイト先の先輩である大学生と恋に落ちました。
 小さい頃に病気で父を失い、義理の父には酷い目にあい、男の人にまともに優しくされた記憶に乏しかった私は、お兄ちゃんを思い浮かべる様な想いでした。
 しかし、そんな甘い想いはしばらくして崩れ去ったのです。
 彼は、私にとても優しかった。
 でも、私だけじゃなく、他の女の子にも優しかった。
 優しさと同時に、彼は女性に甘く、その甘さに酔わされて、一人また一人と彼の手に落ちていった。
 少しの間は気がつかなかった私でしたが、周りの友人には彼のタチの悪さを知っていた人もいて、私は友人の助言に驚かされたのでした。
 最初のうちは信じられませんでしたが、易々とは騙されない賢明さの持ち主だった友人に何度か話を聞くうちに、頭の中で彼の性質が浮気性だった義理の父とダブるのです。そして、徐々に許せない衝動に駆られていきました。
 結局、私は彼との付き合いをやめ、その後、月末でバイトも辞めました。
 更に驚いたのは、一緒にバイトしていた仲間の女の子二人とも付き合っていたらしく、一人は間もなくアルバイトを辞めていき、もう一人はなんと、彼の子供を妊娠した末に中絶させられたそうなのです。
「許せない・・・、許せない・・・、」
 私は深みに嵌る事はなく、自分に降りかかって来た訳ではないけれど、でも・・・
「ゆるせない・・・ゆるせない・・・、」
 一度は恋した人だけど、嫌いな気持ちが増幅していくのです。

「・・・ぅ、・・・ゆるせない・・・ゆるせない・・・」
 頭にこびりついた想いが、睡眠中をも占領し始めます。
 寝苦しさに魘(うな)されて、うとうとと浅い眠りの中で別れた彼の厚かましい顔が、浮かんでは消えていくのです。
「ナニヨッ、イイカゲンニシテヨッッ!?」
 と言った自分の寝言で目が覚めました。

 その一週間後・・・。

 新聞を読んでいた私は驚く記事を目にしました。
 その彼が、付き合ったうちの一人であろう女性に、ストーカー行為をされた挙句に刺殺されてしまったという記事が、隅に小さく載っていたのです。
「ぇえっ? うそ!まさか・・・。」
 いい気味だとまでは思わなかったものの、自業自得だろうと察したのです。

 しかし・・・・。

 その頃からか、私は度々夢に魘されて、熟睡出来ずに一日2〜3時間という睡眠時間が続くことも稀じゃなかった。

 大学受験を控えたある時期。
 どうせあまり眠れないのだからと一層奮起して受験勉強に励んでいた私は、平均2〜3時間という睡眠を毎日続けて、時には一睡もしない日もあった。
 高校もそろそろ卒業の時期を迎え、そして、大学受験に臨んだ。
 体調は決して良くありませんでした。眠気を引きずって、半分もうろうとしたまま試験会場に向かったのです。
 一時限目、二時限目と、頑張って耐えていましたが、初日3時限目。
 踏ん張っていましたが、眠気で気が飛んでしまって解答欄をきちんと埋められずに終了してしまった。
「うわ〜、なんてミスをしてしまったんだろう・・・。折角頑張って来たのに・・・。」
 案の定、その年の合格発表には私の名前は無く、一年浪人して、金銭的にも母に迷惑をかけないよう、何とか翌年、国公立大学の受験に辿り着け、無事に終えたのでした。
 しかし、不遇は更に追い討ちをかけて来ました。
 試験問題を解析するコンピュータに不具合が見つかり、採点ミスで合格していたはずの何人かの受験生が不合格になってしまったのです。
 そして、私もその不合格にされた受験生のうちの一人に入っていたのです。
 更にその後、大学側の予備校との癒着で、試験問題の漏洩が発覚し、問題作成に携わった教授数名が収賄の容疑で逮捕された。
「くそ〜、なんてことを・・・、ここまで我慢して頑張って来たのに・・・、く や し ぃ ・・・・」
 あまりにツイてない事をだんだんと自覚しながら、TV報道で見た捕まった大学教授の醜い顔が、それからしばらく私の脳裏に纏わり付くのです。
 ぐっすりと眠れない浅い睡眠の中で、TVで見たあの大学教授が薄ら笑いを浮かべるのでした。
 そんな矢先・・・。
『昨夜未明、拘置中のM大学の滝口教授が、首を吊って死んでいるのが発見されました。贈収賄事件を苦にしての自殺と見ています。』
 という報道をワイドショーで見た。
「うそ・・・?」
 罰が当たったのか、どうせ死を選んでしまうのなら初めから悪巧みなんかしなけりゃいいのにと思いましたが、私は結局大学受験を諦めて、就職したのだった。

 そんなこんなで、不運続きだったものの、就職して三年ほど経った頃のこと・・・。
同じ部所に二年先輩の朝倉さんがいた。
 仕事がバリバリ出来る優秀な社員として評価が高かったのだが、同僚の男性社員や上司が、私の控えめな態度や気配りに、少しずつ気を向けてくれて、徐々に仕事の量も任される様になってきた。
 当然、先輩の朝倉さんには及ばなかったのだが、人一倍負けず嫌いでプライドが高く、自惚れ屋だった朝倉さんにはその様子が気に入らなかった様で、次第に私は朝倉さんのいじめの対象になっていった。
 会議用書類の肝心なところのファイルを抜き取られて取引先との打ち合わせが台無しになったり、打ち込んだデータのフロッピーディスクが入れ替わっていたり。
 およそ誰の仕業かは分かっていたので、一度勇気を振り絞って朝倉さんにカマをかけてみようと尋ねてみた。
 でも、知らぬ存ぜぬで通された。
 白を切り通した朝倉さんだったが、その後も細かい意地悪を何度かされて、果てはありもしない不倫の噂を男性社員の間に流されたりした。
 完全に頭に来ていた私は、イライラと頭痛がここ数日、毎日おさまらなかった。
会社でのストレスが睡眠を更に妨げ、慢性化しつつあった不眠症のせいで、せいぜい2時間、早朝4時過ぎになってようやく眠りにつける様な状態だった。
 翌日、意を決めて私は、朝倉さんの日課であるデータ管理をしている書庫室に赴いて、朝倉さんに問いただしてみた。
 すると、『ハハハ、フンッ、今更・・・。でも、前から気付いてはいたんでしょう? あなた、意外と勘がいいものね。でもね、女が働いていくっていうのはある種こういうもんなのよ。いじめや攻撃なんて当たり前、自分の存在を邪魔しそうな人はどんどん打ち落とすのよ。人のことなんて考えてらんないわ。』
「でも私、別に朝倉さんを押しのけようとか、追い抜こうとか、そんなつもりは・・・」
『あなたにそのつもりがなくたって、関係ないのよ。部長の目が、周りの注目がどんどんあなたに注がれている。それが私には許せないだけよ。フ・・・、蹴落とすためなら何だってやるわ、ハハハ・・・』
 そう嘲り笑うと、朝倉さんはその場を去っていった。
 会社に行くのがイヤになって来た。睡眠不足で体調が崩れ、度々医者に通う様にもなってきた。
 顔色が悪く、目の下に隈をつくり、神経で体重が4kg減り、睡眠が満足に取れないものだから、昼間、会社で仕事中に眠くなってしまうのである。
 すると、今度は上司から、不真面目だと注意される様になってしまった。
『江上くん? 何やってるんだ、うっかり眠っていたじゃないか。真面目にやってくれなきゃ困るよ? どうしたんだね? 最近・・・。』
 そう注意されている私を横目に、朝倉さんは離れた自分のデスクでニヤッと笑っていた。
「く〜・・・、なぜ、なんで・・・」
 そう心の中で思っていた私でしたが、翌日、トドメを刺される様な嫌がらせを私は受けた。
 出社して、デスクにつき、パソコンの電源を入れてフロッピーを入れたその時・・・!
「痛っ!」
 ディスクの挿入口に分かりずらい様に剃刀の刃が貼り付けてあったのだ。
 中指を少し切ってしまい、血が滲み出てきた。
「・・・なんでこんなことを、ここまでするの・・・」
 そんな思いが誰に伝わるわけでもなく、朝倉さんがやったという証拠も無く、しかし、どんどん腹立たしさは募っていき、徐々に恨み始めるのだった。
 うとうとと、熟睡出来ない、眠りと目覚めの狭間の真夜中の浅い記憶の中で、朝倉さんの憎らしい顔に魘されます。
「・・・悔やしい・・・憎い・・・悔やしい・・・憎い・・・・・」

 しかし、その週末金曜日、やや体調が悪そうに朝倉さんが出社して来た。
 前夜、徹夜をして仕事をこなして報告書をまとめてきたらしく、眠い目をこすっての出社だった。それに、少々風邪気味の様だった。
 昼過ぎ、午後2:30。
 部長からの指示で朝倉さんは、外出して本社営業事務所へ荷物を届けに行くのだった。
『・・・う〜ん、眠い・・・。風邪薬飲んだからかしら・・・。』
 気をしっかりと運転していたつもりだった朝倉さんだったが、前方の景色がぼやけて来た・・・と思ったその時だった、
『あっ、わあっ!!』
 ガシャ―――ンン・・・・。
 事故の原因は朝倉さんの居眠り運転だった。
 享年二十五歳。早過ぎる一人の人間の死でした。
 お陰で私はすっかり会社に居易くなり、仕事はやり易くなり、ストレスの素がなくなったのですが、でも、数々のミスや失敗が目にあまり、私は配属を変えられてしまった。

 それにしても、おかしい・・・。
 気のせいだろうか。
 私が苦しくてプレッシャーを感じ、酷く嫌って夢で魘された人達が、みんな次第に死んでいくのだ。
 考え過ぎだろうか・・・。
 転落事故、殺人、自殺、交通事故・・・。
 そして、何だか朝倉さんが亡くなった後、私の不眠症が半分解消された様な、昼間つき纏っていた眠気が少し無くなって来た気がする。
 そう言えば、朝倉さん、事故を起こした日の朝、眠たがっていたわ・・・。
 まさか、朝倉さんに移っていたなんて・・・。サスペンスものの見過ぎよね・・・。

 でもこれで、私は重くのしかかっていたストレスから解放された・・・と思いきや。

 新たに配属された部所の課長が曲者で、女性の敵なんて噂もチラホラとしていた。
 そんなことはおよそ知る由もなく、私は何かにつけて親切に声をかけてくれる課長を「いい人だな・・・」なんて暢気に思っていた。
 でも、二週間、三週間・・・と経つにつれて、その本性が私に向けられた。

『頑張ってくれたまえよ』と声をかけてきた時に、肩を揉まれたのだが、愛嬌で肩を揉まれたのかとその時はまだ思っていたのです。
 それから数日後、給湯室で片付けものをしていた時に、課長は私のお尻を触ってきました。
「やっ!」っと驚いた私の顔を見て、悪戯をした後の子供の様な笑いを残して課長はその場を去っていった。
 そしてその翌々日、今度は朝の出勤時のエレベーターの中で、たまたま課長と居合わせたのである。
 嫌な予感がした。
 一番奥の私の隣に位置を取った課長は、そのエレベーターの混雑に紛れて私の腰に手を回してきた。
 ギクッと一瞬、ビックリしたのだが、ギュウ詰めのエレベーター内で私の腰を抑えて庇っているつもりにでもなっていたのだろうか、と、次の瞬間、課長の手が私のお尻に下がってきたのです。
 こんな混雑の中で、大声を上げるわけにもいかず、また大勢の前で課長を責める訳にもいかず、耐えるしかありませんでした。
『やぁ、江上君、おはよう。』とニヤけた笑顔で過ぎて行った課長の顔がとても腹立たしく、不愉快でたまりませんでした。
 その日の昼休み、女子社員の何人かに思い切って聞いてみました。すると、課長は前からセクハラ課長という評判があった様で、耐え兼ねた女子社員の何人かは辞めて行った人もいる様だった。
 この大変な不況時代に、少々のセクハラでは女子社員も離れてはいかないというのを分かっていて、また、その事実など証明出来ない死角を狙ってセクハラをしてくるのだった。
「なんでこの会社には、朝倉さんと言い、この課長と言い、おかしな人ばかりいるの・・・。なんで私の周りにはいつもおかしな事ばかり起きるの・・・。もういい加減にしてよ・・・。」
 不快感が募り、イライラが以前よりも増して、だんだんと私の人相も悪くなっていった。
 一日、二日、三日、一週間と過ぎたそんなある日、笑わなくなっていた私が在庫管理庫で残業をしていたら、そこに大した用も無いのに課長がやって来た。
『やぁ江上君、最近どうしたね? 随分疲れている様だが、顔色もすぐれないよ・・・?』
「・・・おまえのせいじゃないか・・・」と心で思っていた私を尻目に、課長は私の背後を取って更に続けた。
『君には期待しているんだよ。繊細で完璧な仕事のやり方を買ってるんだ。』
 そう言うと、私の肩をポンッと叩いた。そして次の瞬間、その手が下に下がって来て私の胸を掴んだのだ。
「やっ!? やめて下さいっ!!」
 と、思わずその手を振り解いた私は、溜まっていた鬱憤を課長にぶつけた。が、呆れたことに課長は、『君ね、あまり歯向かわない事だよ、やたらな抵抗は身の為にもならないよ? 今、女性の雇用も相当に厳しい。その中で、君の様に特別な専門能力も無い社員が、特に悪くない待遇で働けてるなんて、よそに行ったらまずあり得ないよ? 母一人子一人だろう? まぁ、やけな気は起こさない事だね・・・』
 そう言って課長は行ってしまった。
 怖くなった私は体の力が抜けて、その場にしゃがみ込んで泣いてしまった。
「なんで、なんで、ムカツク・・・、ムカツク・・・」
 帰りの電車の中、私の頭の中は憎らしい課長の姿がこびり付いてしまい、それこそ電車内にいる中年男性の全てが課長とダブっていやらしいセクハラオヤジに見えてさえ来るのだった。
「ゆるせない・・・ゆるせない・・・」
 家に帰った私は、なんとか耐えてた思いを母に打ち明けた。
『決して、無理矢理に会社にしがみつかなくてもいいよ・・・』
 と言ってくれた母だったが、だからと言って本当に、別の就職先の当てなどある訳でもなく、一度社会の基盤から漏れてしまったら、再就職など不可能と言ってよく、アルバイト程度では家を支える足しにならない事を私も知っていたから、簡単に辞めるわけにはいかなかった。

 慢性的だった不眠も半分解消されたものの、やはりまだ思う様に眠れず、ここ2〜3年、熟睡とは縁遠く、精神疲労も困憊で、真夜中の僅かな眠りの中で見る夢は、チンプンカンプンなものが連夜続いたかと思ったら、変な悪魔が現れる様になってきた。
 そしてその夜、課長が私の夢に現れたのだ。
「・・・ゃ、いや、やめて・・・、触らないで、イヤッ!・・・・・ハッ?」
 魘されて起きたら、午前5時半の夜明け前だった。確か、やっと寝付けたのは3時近くだったのを覚えている。
 それからもう一眠りは出来ず、二時間半の睡眠で、眠気を引き摺りながら今日も出社するのだった。
 その日、会社に着いてみると、一段落した企画のひとまずの成功を祝して、慰安親睦の為の飲み会のお知らせが掲示されていた。
 行きたい訳がない。課長も当然参加するのだから。女子社員の何人かは、二次会での課長の女子社員への無礼講を警戒して、出席するかどうかを決め兼ねていた。
 職場でのチームワークと交流を重んじて、宴会の後、参加しなかった者がいつも居心地の悪さを感ずる飲み会は、半ば強制的な空気を醸し出していた。
『江上君? 君も来るだろうねぇ、来週の宴会。断れないよねぇ、君が配属されて初めてなんだから。先輩社員も何人も来るんだから、君の仕事の実力もそこで一つ紹介したいんだ。来るよねぇ?』
 そう言うと、課長は私の制服のスカートに手を触れかけたが、ニヤリと笑ってそのまま去っていった。
「・・・くっ、はぁ・・・はぁ・・・」
 これではまるで、弱い者いじめそのものだった。
 最近は、少し動悸が激しい様な、胸に痛みも感じる様になった。

 その夜も寝苦しさに魘されて、課長の意地の悪そうな目つきが迫っては消えていき、迫っては消えていき、もう頭がパンクしそうな悪夢だった。
「頭に来る・・・・頭に来る・・・・ニクラシイ・・・・ニクラシイ・・・・」
「ゆるせない、ゆるせない、ゆるさない、ゆるさない、」

 宴会の当日。私は体調を崩して、風邪など引いていないのに、咳き込んで、原因不明の発熱をした。
 医者に行ったが特に悪いところは無さそうで、内服薬を処方されて、その日は会社を休んだ。
 お陰で親睦会には参加しないで済んだのだが。
 しかし、驚いたのは二日後、熱が下がり、会社に出社した時でした。
「あれ、今日、課長休みなんですか?珍しい。」
『何言ってんのよ、課長、亡くなったのよ?』
「ェエッ? 本当ですか? どうして・・・」
『やあねぇ、知らなかったの? おとといの飲み会あったでしょ? あれでたまたま変なもん食べちゃったみたいで、食中毒で死んだのよ。うちの会社の人じゃないけど、他のお客さんで食べた人もいて、何人か病院に運ばれた人もいたみたいよ?』
「何食べたんですか?」
『ぇえ? いや良くわかんないけど、魚か何かじゃない? 私たち魚全然食べなかったから良かったわよぉ。危うく私も死にかけてたかも知れないんだから。』
「・・・そうなんですかぁ。」
『体調もちょっと良くなかったみたいよ。朝出勤して来るなり前の日から体がおかしいとか言って、午前中休憩室で少し寝てたんだから。そのせいもあって、食べたものの毒が余計効いちゃったんじゃない・・・』
「・・・・・?」
『でも、まぁあなたも良かったでしょ? 内心。セクハラ課長の被害者だったんだから。課長なんて別の後釜がすぐに来るんだし、職場は困りはしないわよ。まぁ、常日頃のしっぺ返しね。でも死んじゃっちゃぁ元も子もないけどね。部長と支店長とでお焼香あげに行くらしいよ・・・』
「・・・・・」
 やっぱり私の眠気が嫌った人に少しずつ移っていったんじゃないだろうか・・・。
とうとう課長も死んでしまった。
 突然の事でかなり動揺したものの、悩みの種が無くなり、ポッカリと空いた穴に、久々の心地良い涼しい風が通り抜けた。
 と同時に、夢に魘される事も無くなり、随分久しぶりの熟睡が出来たのです。
そして、長い間の不眠症もどこかへ消えて、昼間つき纏っていたうっとうしい眠気もなくなりました。

 やっとまともな生活が出来る。
 そう思いました。
 が、悲劇は最後にやって来ました。

 酷い睡魔とさよなら出来た私でしたが、数日間、熟睡でエネルギーを回復した私は、厄介な眠気が襲って来ることは無いものの、今度は夜も昼も元気過ぎて、全く眠れなくなったのです。
 パワー全快で働いても、夜、全然眠くならないのです。
 一睡もしない日々が三日、四日となると、今度は不安になって焦ってくるのです。
「大丈夫なんだろうか。夜、なんとか根性で寝ようとしても眠れない・・・。寝なくても起きていられるし、仕事には行けているのだから、いいのだろうか・・・」
 と、自分の中でだんだん怖くなっていくのです。
 そして、それが一週間続いたある夜。
 帰宅した私はお風呂からあがると、一週間もしてさすがに眠気がやって来て、軽い目眩がして、そのままベッドにフラッと倒れかける様に眠りました。

 薄れていく意識の中で、ようやく一安心したのです。
「あぁ、・・・眠れる・・・。」

 zー、zー、・・・・・
 zz―、zz―、・・・・・
 ZZ――、ZZ――、・・・・・

 ―――・・・、―――・・・、
 ――――・・・・、、――――・・・・、、
 ―――――・・・・・、、―――――・・・・・。

 暗い、真っ暗闇。
 ギ―――・・・、
 母がドアを開けて私の部屋に入って来た。
「ん?どうしたんだろう・・・。」
 母はなぜかシクシクと泣いていた。

 私の周りの景色は真っ暗で、正面に四角く視界が開けているだけで、ドアから入って来た母の姿は少し遠く見えて、下から見上げている様な感じだった。
 泣いていた母は、涙を拭いながら、すぐに私の部屋から出て行ってしまった。
部屋の時計を見てみると、既にお昼過ぎ。
「ぇえっ!? わ、やだ、なんで起こしてくれなかったのよ・・・」
 と思って、取り敢えず会社に携帯から電話をかけてみたが何回呼び出しても繋がらず、慌てて会社に行った私だったが、自動改札を通る時に、定期を入れても扉が開いてくれなかったが、誰にも注意されずにそのまま空気の様に通ってしまった。
 車内では、電車に乗り込んで来た私の存在に、誰も気付いていない様な気がした。
 そして、降りた駅でも自動改札が開かずに、そのまま出てしまった。
「おかしいなぁ・・・、何だろう?」
 駅を降りて、もう一度電話をかけたがやっぱり繋がらない。
 そして、半分駆け足でやっと会社に着いたその時、
「えっ! 何これ?」
私の机の上がいっぱいの書類や荷物で溢れていて、花が供えてあるのです。
「何? どういうこと??」

 そう、私は死んだのである。
 会社に来た私はもうこの世にいるものではない。霊の姿になって、会社に来たのである。
 二度かけた電話も、死んだ私がありもしない電話をかけたって、会社にかかる訳が無いのだった。

 急性心不全だそうだ。
 なぜそうなったか、ハッキリした原因は不明・・・。
 私の周りの景色が真っ暗なのは、棺桶の中に入っているからであった。
 正面に四角く開けた視界は棺桶の顔の扉を開けられたからだった。
「そんな・・・・、そんなぁ・・・・、なんで死ななきゃいけないのよ、なんで私が死ぬのよぉ・・・。」
 霊体の私がカレンダーを確かめたら、眠ってから二日後だった。
 とうとう、母を一人にしてしまった。

 不遇に幾度となく見舞われて来た杏子だったが。
 不運な状況に何度も置かれて、取り囲む人間関係に何度も悩まされ、追い詰められた杏子だったがその度に、人を嫌い、酷く嫌い、人を憎み、許せずに、精神的に崩れていった杏子はいつしか被害者意識から、ストレスの素である人たちを呪うのであった。
 そして、その対象が一人一人、死んでいくのだった。
 先輩社員の朝倉と課長の松田に対しては、自分の眠気も移し入れてやった。
 しかし世の中は、自分と自分以外の人達で成り立っている。
 自分じゃない人の気質が自分と噛み合わない事があっても、それはごく当たり前の事である。
 だから、嫌いになったり怒りを覚えたり、時には憎む事があっても、それなりに自然な事であろう。
 だが、それも程度の問題なのかもしれない。
 仮に、やむを得ず会社を辞めてしまったとしても、母親も誰も杏子を叱責したりはしなかったはずだろう。どうにかすれば、他にも仕事や生きていく術はあったはずだ。
 清濁の矛盾が渦巻いている中で、過剰に嫌う感情と憎しむ心は、夢の中で相手にぶつけ続けているうちに、めぐり巡って自分に還って来てしまったのだ。
 杏子は自分の出し続けた毒で、結局自分の命も終えてしまった。
 ゆっくりとした睡眠をとった後で、あの世の中で、今度こそ頑張って生きていって欲しいと、切に願う・・・・。

 ギ―――・・・・、パタン。
 棺桶の顔の扉が閉じられた。

Copyright(c):Yutaka Araki 著作:新木 結太佳

◆「睡魔」の感想

*新木結太佳さんの作品集が 文華別館 に収録されています。《文華堂店主》


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