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「俺はめしを少々喰わなくても動けるが、自動車はガソリンを入れないと動かない。」とは、私が学生時代に言ったことばだ。それはそうだが、おかげで肺結核を患ってしまった。当時の写真をみてもぎょっとするほど痩せこけている。
 実際あまり飯を喰っていなかったので、今となっては笑い話だが、病名を聞いた時は顔面蒼白であった。喀血するに至るまではあまり自覚症状の無い病気なので、医師に対しても「先生、冗談きついですよ。」と言ってひどく怒られた記憶がある。なにしろ「即入院」であったから両親にも大変心配をかけた。私自身の不摂生が祟ったとはいえ、ある意味「貧乏病」である。
 時はちょうどバブル期の真っ最中で、夜の巷に赴けば結核とは正反対の痛風や肝臓疾患等々のいわゆる「贅沢病」予備軍がウヨウヨしていた。首の後ろのコレステロールをだぶつかせている羽振りの良さそうな中年男性が沢山いた。
 正反対であるという根拠は「入院中の食事」にある。結核の場合、栄養をじゅうぶんに取りゆっくり休息することがなによりの治療法である。何を喰ってもよい。だから見舞いに来てくれる方々はいろんなメニューを持参してくれた。ケーキからステーキにモツ煮込み、鹿の肉まで差し入れてもらった。
 一方の贅沢病の場合はその逆で、きちんと摂取カロリーを計算されたメニューを強いられ、それ以外は口に出来ないなんとも苦しい入院生活となる。無機質なプラスティックの食器のせいか、それともあのシチュエーションが災いするのか病院の食事はお世辞にも旨いと言えるモノではない(言い切っていいのだろうか?)。
 皮肉なものである。入院前と入院中、退院後の生活はコロッと入れ替わってしまう。贅沢病の人はあれほど好きなモノを喰っていたのに、一転いろいろ規制されるとさぞ苦しいであろう。
 残念なことに私自身は「贅沢病」を患ったことがない。なぜか手放しで喜べないことだが、いずれにせよ健康でいることがいちばんである。健康な人はそれなりに自然と自制しているのではないか。贅沢もせず貧乏でもなし。そこそこといったところか。
 それは何か人生そのもののような気がする。

「人の喜びや悲しみ、一生に流す涙の量は皆同じで、辻褄があうようになっているのだよ。」

 そんなことを誰かに聞いたことがある。勿論、「人生そのもの」というのは私個人の主観であるので異論は多々あるとは思うが、とにかくそんな気がするのである。
 ということは、随分前に「貧乏病」を患った私はこの先羽振りがよくなるのかもしれない。

 気付けば体重計の針が75を指している。久しぶりに会う友人に我が腹の主張を指摘される。さては予備軍か?

◆「贅沢病と貧乏病」の感想

*木村泰さんのエッセイ集が文華別館に収録されています。また、木村さんは「天神さん人形」友達リンク)というユニークなホームページを運営されています。《文華堂店主》


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