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彼らのふくらんだ夢が、ゴム風船のようにぱんぱんわれてゆくのを、今か今かと期待してみている僕らは、慈悲をわきまえないわけでないが、同類の多いのをよろこぶ意地悪さではなく、他人の欠落、不運だけをよりどころにし、支えをして生きのびねばならない、われも他人(ひと)もおなじ、生きるということの本質の、嘔吐につながる臭気にみちた化膿部の深さ、むなしさ、くらさであって、その共感のうえにこそ、人が人を憫み、愛情を感じ、手をさしのべる結縁が成立ち、ペンペン草の花のような、影よりもいじけてあわれな小花もつくというものである。
 金子光晴という名前を上げると、詩人をイメージされる方も多いだろう。絢爛(けんらん)で耽美的な詩集「こがね蟲」でデビューした金子光晴は、反戦詩人として名を馳せた。せっかくだから、金子光晴の代表作である「洗面器」を紹介しておこうか。

 洗面器のなかの
 さびしい音よ。

 くれてゆく岬(タンジョン)
 雨の碇泊(とまり)

 ゆれて、
 傾いて、
 疲れたこころに
 いつまでもはなれぬひびきよ。

 人の生のつづくかぎり
 耳よ。おぬしは聴くべし。

 洗面器のなかの
 音のさびしさを。


 わたしは意図的に、この詩の前文を記(しる)さなかった。もう一度、この詩を読んで、そのときの情況を思い描いてほしい。さびしい音の正体は、何だと思われますか?
 以下、この詩の作者の前文である。

(僕は長年のあひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思ってゐた。ところが、爪哇人たちは、それに羊(カンピン)や魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたへて、花咲く合歓木の木陰でお客を待つてゐるし、その洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ、しゃぼりしやぼりとさびしい音を立てて尿をする。)

 ちなみに爪哇人はジャワ人、合歓木はネムノキと読む。女性の尿(しと)する姿から、こんな美しい言葉を紡ぎ出す詩人の感性に、ただただ陶酔するしかない。
 しかし、今回は詩人の金子光晴ではなく、散文家の金子光晴を紹介するのが目的だ。対象となるのは、70歳を過ぎて書かれた自伝三部作「どくろ杯」「ねむれ巴里」「西ひがし」。夫人で作家の森三千代との5年にわたる“万国放浪”が克明に描かれている。まずはその背景を説明しておこうか。
 関東大震災後の窮乏から、「どくろ杯」はスタートしている。大正12年の7月、「こがね蟲」で詩人として華々しくデビューした金子光晴は、その二ヶ月足らず後の天変地異で、その文壇的な評価とともに、生活基盤を失ってしまう。金子は知人を頼って名古屋、大阪を放浪したのち帰京、生涯の伴侶となる森三千代と出合う。まだ女学生だった三千代は妊娠、退学して二人は所帯を持つ。
 確たる収入源のない金子家の生活はやがて逼迫、金子は子供を妻の実家に預けるために長崎に旅立つ。一ヶ月あまりのちに帰宅してみると、妻の姿が消えていた。アナリストの学生と恋仲になっていた。金子は、妻と恋人の仲を裂くために、パリ行きを計画する。しかし、旅費も足りず、生活費のあてもない無謀な計画だった。

才うすくして詩などにとり憑かれたことは、性のわるい女郎に入れあげて、尻の毛まで抜かれるのと、いずれが甲乙をきめがたい。

 これは、旅費を工面するために大阪に滞在していたときの金子の感慨である。瀬田弥太郎という詩人に対する言葉だが、人を語って自らを語る、自嘲めいた寂しい笑みが見えるようだ。「詩」という言葉を「文学」、あるいは「小説」に置き換えてみると、わたしも嘆息するばかり。
 金子夫妻は、いよいよ長崎から出航して上海に上陸する。しかし、そのときのふたりは、ほとんど無一文の状態だった。知己を頼り、エロ小説をガリ版印刷で販売したり、友人の画家と組んで絵を売ったりと、生きるための苦闘が始まった。ちなみに「どくろ杯」とは、人間のどくろを酒器にしたもので、その友人の画家が蒙古で手に入れたものだ。ふたりの地獄行のような旅路を暗示している。

地獄とはそんなに怖ろしいものではない。賽の目の逆にばかり出た人間や他人の非難の矢面にばかり立つ羽目になったいじけ者、裏側ばかり歩いてきたもの、こころがふれあうごとに傷しかのこらない人間にとっては、地獄とはそのまま、天国のことなのだ。

 自伝第二部である「ねむれ巴里」の始まりは、一足先にパリに送り出していた三千代を追って、金子がマレイ半島からシンガポール、そしてパリを目指す汽船の旅が綴られている。二人分の旅費を工面できずに、金子ひとりが残ったのだ。南方の珍しい風物や民族的な差異がシニカルな視線で描かれていて、紀行文学としても日本の最高峰にあるのではないかとわたしは思っている。
 そして、金子は、パリで三千代と再会する。その当時のフランスの世相を、金子自身の筆で紹介してもらおうか。

それは丁度、第一次世界大戦と、第二次世界大戦とのあいだの、あま皮がまだ固まらない、ひわひわした男の時代、女の世紀であった。カルメンの産褥の熱っぽさと、越南(ベトナム)のトンキン・デルタの泥の臭気とが、ヘルメット族の干枯びた古創から蒸れかえり、明日の望みの少ない、鎮圧できないヨーロッパの若者たちのいのちの血が、革命一つにつながって、むなしくたぎり立っていた奇妙な季節でもあった。その季節の裏返しとして、花のパリが存在していた。

パリの人たちは、いつになっても、コーヒーで黒いうんこをしながら、少し汚れのういた大きな鉢のなかの金魚のようにひらひら生きているふしぎな生き物である。長夜の夢からまださめきらないのだ。第一あのP音の多い、人を茶にしたとぼけたフランス語を使いながら、あらくれ女の尻から眼をはなさない男たちや、男の眼でくすぐられている自覚なしではいられない女たちが、ふわりふわりとただよっているこのフランスの都は、立止まって考えるといらいらする町だ。頭を冷やしてながめれば、この土地は、どっちをむいても、むごい計算ずくめなのだ。


 世界大恐慌のころで、外国人労働許可証を持たない金子に、まともな仕事があるはずもなかった。食いつめた金子は、中学時代の友人を頼ってリヨンへと向かう。
 
 そんなしめっぽい、こまかい霧で填(つま)ったくらやみに、生き身がそのまま変質する腐食の臭気で、じぶんがじぶんであることが耐えられなくなる、ヨーロッパではたまさかであう、そんな異様な夜を、殴りあいのようながたぴしした列車に揺られながら僕は存分に味わわせられていた。パリ発マルセイユ行の夜行の窗(まど)の外では、風景がいそがしくかくされ、裏返しにされて、駅のビュッフェの看板も、タベルンも、永久に廃墟となり、赤い火の反映ばかりが、じんと滲み出るがままに、血のような悲哀があっちこっち闇に涵(ひた)されていた。

 うらびれて、鬱屈した気持がじんじん伝わってくる描写ではないか。結局、そのリヨンの日本人は別人ということがわかり、帰りの旅費にも苦慮することになる。恥辱を蹴り散らかしてしぶとく生き延びてきたエゴイストも、自殺することを考える。
 金子のパリでの生活は、地獄のさらに“底”であった。その汚泥のなかでもがいた時間があればこそ、「洗面器」のような蓮の花が咲いたのではないだろうか。

 さて、最後になってしまったが、冒頭に掲げた一文について説明しておこうか。これは、「旅費をもってパリまで着けば、あとはなんとでもなると、じぶんたちの能力に一度もそろばんを置いてみたことなしに、がむしゃらにやって来ながら、アルバイト一つできない文学青年の夫婦一組」に対する金子の感慨である。
 人間の弱さ、矮小さをこれだけ的確に表現している文章を、わたしは他に知らない。汚辱は文学の良質な糧である。それを、40年以上の歳月をかけて、天才詩人の感性が芳醇に発酵させたのだ。まさに、“名文”である。

<書籍データ:中央公論社(現・中央公論新社)発行、図書コード ISBN-12-200399-7>


Copyright(c): Masahiro Akagawa 著作:赤川 仁洋


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