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 体の芯に響いてくる痛みが、手首から走ってきました。
 役目を終えたかみそりの刃は、冷酷にきらめきながら落ちて行きました。
 刃を入れた皮膚からは、量は少しですが、後から後から、血が溢れてきます。かみそりの刃を手放した手首は、だらりと洗い場に落ち、かみそりの刃を入れた手首は、緩々と湯船に沈んで行きました。
 赤い滴がこぼれでる白く細い手首が、水で一杯になった湯船で揺れました。赤い滴は水に溶け、その色は水の色に取り込まれていきます。
 浴槽の縁に体を預け、私はその水を眺めていました。
 この水が、どれだけ赤く染まれば、私はあの方の元へ逝けるのでしょうか。
 私は静かに目を閉じて、その時を待つ事にしました。
 閉じた目の中に、あの方の姿が浮かんでまいりました。
 愛しい、あの方の姿が。
 
 何故、このような事になってしまったのでしょう。
 いや。
 私はこうなる運命を、何処かで感じていたのかもしれません。
 私は人目を避けるように、ひっそりと暮らしておりました。
 それは、私の性格ゆえでもありました。
 ですがもう少し、深い意味も持っておりました。
 私は孤独を選んででも、穏やかに、静かに、暮らす事を望んでいたのです。
 ですが、人目を避ける、と、申しましても、普通に生きていくのに、完全に人目を逃れる事など出来ません。
 そして、私を他人の目に映さぬ事など出来ない様に、私の目に他人を映さぬ事など出来るはずもございません。
 私は、それを恐れていたのです。
 何故なら私には、他人には言えない秘密が有ったからなのです。
 しかし、恐れは甘い蜜を帯びて、現実となり、目の前に現れました。
 あの方の目に私が映り、私の目にあの方が映ったのです。
 水が高い所から低い所へ流れるように自然に、そして止めようも無いままに、二人して想いのまま、流されていったのでした。
 あの方は、逞しい体と、男らしい心とで、私を包んでくれました。
 二人出会えた偶然の巡り合わせに感謝しながら、まさしく蜜の様な時間を過ごしたのでした。これほどまでに肉体を持っているのが幸運であると思ったのは、私にとって初めての事でした。
 ですが。
 男らしさは時として、欲望への流され易さと、身勝手さを、人に与えます。
 私が、あの方に妻の有る事を知ったのは、親しくなって、数ヶ月が経った頃でした。
 ふいに現れた女性に、主人を返して、と、詰め寄られたのです。
 私にとっては、晴天の霹靂(へきれき)とも言える出来事でした。
 しかし、妻と名乗る女性は、そのようには思わなかった様でした。
 当然の権利を匂わせる口調で懇願し、憎悪、嫌悪を込めた瞳で私を見るのです。
 いけません、とてもいけません。
 心の中に封じている悪い部分が、鎌首をもたげていくのを、私は感じました。
 私には、他人の悪意を感じる事によって己を実感するという、忌むべき悪癖があるのです。
 あの方との柔らかな愛情深い日々よりも、蜜を帯び、高く香る時が、私の中に流れていきます。
 別れを迫る女性の声に、恍惚となっていく自分を止める術(すべ)は有りませんでした。
 懇願は憎悪に染まっていき、女性は私をなじり始めました。
 涙を流しながら、全ての責任を私に被せて、我を失っていく女性を眺めながら、唇に笑みが刻まれていくのを私は感じていました。

 女性のふいの訪問から、幾日が過ぎたでしょうか。
 あの方が、久方ぶりに私の元を訪れました。 
 高揚している私とは逆に、あの方はひどく思いつめた様子でした。
 そして、別れを切り出されたのです。
 もちろん、私にそのつもりは有りません。     
 その事をはっきりとあの方に伝えました。
 私があの方の言う通りに動く気が無い、という事実に、あの方は少しづつですが、興奮してまいりました。
 懇願だったものが、徐々に言葉の響きを変えて強制、あるいは脅しともとれるものに変化していきました。
 あの方が、私をどんな性質の人間であると受け止めても、あの方の自由です。
 私が、あの方をどんな性質の人間であると受け止めても自由なように。
 しかし、思い通りにならない私、と、いう存在を、あの方は認める事が出来無い様でした。 
 激しい言葉をぶつけるだけでは我慢できず、みずからの体をぶつけて来たのです。
 私とあの方は、もみ合いになりました。
 私の体があの方の体よりも一回り以上貧弱で弱々しいのは事実です。
 それでも。
 狭い部屋の中を、あちらへ、こちらへ、と、転がりながらも、どちらも引く気配は有りませんでした。そしてもみ合いは、徐々に激しさを増してきました。
 そんな時です。
 ごん、と、一際大きな音が響いたのは。
 私は、はっとして、動きを止めました。
 嫌な手応えに震え始めた手で、ぐったりしたあの方の体に触れました。
 打ち所が悪かったのでしょう。
 あの方の息は、既に有りませんでした。
 私は呆然と、遺体、へと、変化を遂げた、あの方を見つめていました。
 魂の抜けた体は、急速に熱を失っていきます。
 失われて行く熱と共に、私という存在そのものも、失われて行く様な気がしました。
 私はふらふらと立ち上がると、かみそりを片手に風呂場へと向かいました。
 もう中身が失われてしまったのだから、私自身も必要はないと思ったのです。
 私は自分自身の手首に、かみそりの刃を当てました。
 確かに、それは小さな傷です。
 ですが、水に浸けて傷口が塞がらないようにしていれば、死に至る程度の傷ではあったのです。
 しかし。
 なんという事でしょう。
 あの方の妻である女性が、様子を見に訪れたのです。
 そして。
 部屋に横たわる、亡骸となったあの方を見つけて。
 更に、浴室に居る私に気付いてしまったのです。
 ああ、なんという皮肉でしょう。
 こんな事なら、知らせるのでは無かった。
 私は、自分の浅はかな企みを悔やみました。
 小気味良いまでの悲鳴が、あの方の妻の口から上がりました。
 本当ならその悲鳴は、私の心に心地良さを与えてくれるはずだったのです。
 ですが、今となっては、その悲鳴は私の失敗の証明でしかないのです。
 私は、助かってしまいました。
 
 私は、あの方を殺した容疑で、裁判にかけられました。
 ここに至って、ようやく私は心の平安を取り戻しました。
 遺族の憎悪に満ちた眼差しが、傍聴人の好奇の目が、被告席に立つ私に対して注がれています。
 それは、私に心地良さを与えてくれます。
 私の存在に、理由を与えてくれるからです。
 裁判は、私を裁く事で、あの方の、憎しみ、悲しみ、口惜しさ、を、私に教えてくれるのです。
 それは、あの方を亡くした隙間を埋めるのに十分なものでした。
 私は、抜け殻ではなくなりました。
 あの方の憎しみで埋め尽くされた存在なのです。
 これ以上の幸せがあるでしょうか。
 あの方と、同じ種類の体を持つ私に。
 被告席に立つ、青白い優男の私が、遺族や他の方の目に、どう映るのか、私には分かりません。
 私の口元に浮かぶ笑みの理由が、他の誰にも分からないように。
 何気なく傍聴席に目をやると、あの方の妻と目が合いました。
 まるで絵に描いたような憔悴した姿の、その女と。
 なんということでしょう。
 私は、自分の動きが止まっていくのを感じました。
 何故なら。
 その女の目の底に、有ってはならないものを見たからです。
 その女を恨むとか、妬むとか。
 そんな感情は、もとより私の中にはありませんでした。
 どちらかと言えば、あの方の添え物。
 取るに足りない存在としか、捉えておりませんでした。
 それなのに。
 どうやら私は、その女に存在の理由を与えてしまったようです。
 しかも、質(たち)が悪い事に、私があの方と同じ種類の体を持つ事実は、あの女にとって苦痛であると同時に快楽のようなのです。
 いや、快楽でしか無いのかもしれない。
 憔悴を纏った女の目の底に爛々と輝いているのは、怨みでも憎しみでもなく、快楽。
 悪意をいくら抱いても責められない相手を得た快楽。
 悪意をいくら抱いても肯定して貰える、快楽。
 その女にとって取るに足りないのは、あの方の命。
 欲しいのは、立場。
 欲しいのは。
 私の背筋に冷たいものが走っていきました。
 私とあの女は、心の奥底にある、ドロついた澱みにある川で繋がりながら生きていくのです。
 これから先、ずっと。
 私でも幾分かの嫌悪感を持つ、そんな状態さえ、彼女にとっては快楽なのでしょう。
 ああ。
 なんという皮肉。
 私の忌むべき悪癖は、嫌悪しながらこの状況を楽しんでいるのです。
 嫌悪しながらも、この状況に頼って生きていくしか、私には道が無いのです。
 私の腹の底から、笑いが湧いてきました。
 酷く乾いて、ざらついた、不愉快な笑いです。
 ざわめく法廷の真ん中で、私は笑い転げました。
 異様な者を見る目が集まる中、あの女の目だけは違っていました。
 あの女の、口元に浮かんだ笑み。
 それに気付いているのは、誰よりも強い結びつきを得た、私だけでしょう。

Copyright(c): Reo 著作:れお

*れおさんの作品集が 文華別 館 に収録されています。
*タイトルバックに「DHD Phot Gallery」の素材を使用させていただきました。


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