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 呼び鈴(りん)の音が鳴り響く。
 何度も何度も、しつこく押され続ける呼び鈴。
 その主を察してはいたが、ドアを開ける気にはならなかった。

 私は、何を望んでいたのだろう。
 その答えは遠く、見えない。

 私は目の前にある豆腐を、口に運んだ。すでに生ぬるくなっている冷奴は、お世辞にも美味しいとは言えなかった。それでも別に構わないだろう。私が作ったのだから、お世辞をわざわざ言う必要も無い。第一、聞いてくれる人もここには居ない。
 家電のモーター音が、広いとは言えない部屋に響く。
 締め切った窓の外では、風鈴が揺れていた。乾いた音が微(かす)かに聞こえはするけれど、その音が涼を呼ぶ事は無かった。
 空は高く澄み渡り、その青さに入道雲が華を添えていた。
 窓を締め切った部屋は、迷惑なほど日当たりが良く、その所為(せい)で、いくら冷房を強くしても涼しくなる事はない。
 部屋が暑いと、食事は自然にあっさりとした冷たい物に偏(かたよ)ってしまう。
 それが私の場合は冷奴だった。
 昨日は冷奴にオカカをかけて。
 今日は冷奴にオカカとネギをかけて。
 明日は冷奴にネギだけでいいかな。
 夏場はそんな日が続いていく。
 自然と夏バテになる。
 それが分かっていても、暑い部屋に居ると、食欲なんて何処かへ溶けて無くなってしまうものだ。
 相変わらず、呼び鈴の音が鳴り響いていた。
 うるさい。本当にしつこい女だ。
 もう慣れてしまったのか、苛々する事は無い。
 ただ、あの女の図々しさに、呆れるばかりだ。
 あんな女に手を出した夫にも、呆れるばかりだ。
 私がその事を知ったのは何時の事だったか。
 随分前だったような気もするが、最近の事だったような気もする。
 その日も暑かった。
 丁度、今日のように。
 その頃は冷奴ではなく、そうめんが続いていた。
 そうめん、そうめん、そうめん。
 毎日、毎日、そうめんだった。
 だって、この部屋は暑いし。私はこの部屋に居なければならないし。
 相変わらず、しつこい呼び鈴の音が響いていた。
 時間は昼を少し回った所だが、膳の上には昨夜の夕食が乗ったままだった。
 食事は食い散らかされ、中途半端に干からびていた。
 良く冷えたビールは、すっかり生ぬるくなり、瓶に付いた水滴が、滴り落ちて膳を塗らしていた。放っておけば、その滴(しずく)も直に乾いて無くなるだろう。
 部屋はその位、暑かった。
 夕食時の喧騒は既に無く、静けさが部屋を埋めていた。
 しつこく鳴らされる呼び鈴の音が、殊更(ことさら)その静けさを私に感じさせた。
 私は一体、何を望んでいたのだろう。
 その答えはそこに転がっていなかったが、夫はそこに転がっていた。
 そこに転がる男は、私の夫、と、いう立場に居た。
 その事は、私の選択した事である。
 だから、誰にも文句は言えない。
 でも、その夫のしでかす事柄については別である。
 夫は、借金は作る、愛人は作る、そんなタイプの人だった。
 そして、その事をなじられると、暴力をふるうタイプの人だった。
 今となっては、何故、こんな人と一緒になったのか、自分でも分からない。
 愛して結婚したはずなのに。
 疑問に思った時点で、別れていたなら、私はこんなに苦しまなくても済んだのだろう。
 何故、私はこんな男と一緒に居たいのだろう。
 私は彼との関係に、何を望んでいるのだろう。
 疑問は私を追い詰めた。
 部屋は暑いし。
 愛人はうるさいし。
 それなのに、何故、私は此処から、夫から、離れないのだろう。
 玄関の呼び鈴はしつこく鳴らされ続ける。
 ああ、嫌だ。
 夫の愛人は、夫の何処がいいのか、私から無理やりにでも剥ぎ取って連れて行きたがった。
 私はといえば、こんな夫、のし付けてくれてやればいいものを、と、思いつつも、別れられず、そんな自分に戸惑うしかなかった。
 疑問を解くために、私は夫に毒を盛ってみた。
 死んで貰えば、答えが見えるかも、と、思ったからだ。
 夫はあっけなく死に至り、今、目の前に転がっている。
 だが、答えは見えない。
 そんな簡単なものでは無かったらしい。
 転がる夫を見つめてみるけれど、答えは何処にも見えない。
 愛ゆえに、とか、もっともらしい答えが見えるのか、とも思っていたが、全く答えは見えない。
 そこには、だらしない男が、だらしない死に様をさらしているだけだった。
 疑問は逆に膨らんでいくばかりで、答えは何処にも見えない。
 いや、見えている程度のモノしか、元々なかったのかも知れない。
 女の意地とか、惰性とか、共依存とか、そんな軽薄な感情が雑然と転がっている関係だったのかも知れない。
 呼び鈴は、相変わらず鳴らされている。呼び鈴だけでは足りないと思ったのか、声も上げ始めた。本当に恥知らずな女だ。愛人、なんていう後ろめたさなんて、欠片(かけら)も感じていない、図々しいがさつな声が響いてきた。あんな女の何処が、この男は良かったのだろう。それは今となっては死人に口なし、永遠の謎だ。
 呼び鈴と呼び声、と、いうより怒鳴り声に近いその声は、かなり騒がしかった。いくら昼間の事とはいえ、その内、隣の鈴木さんが怒鳴り込んで来る事だろう。
 ああ、嫌だ。
 私は転がっている夫の隣に寝そべってみた。
 まるで、添い寝でもするように。
 答えは何処にも見えないけれど、終りはあっけなくやってくる。
 人生なんて、そんなものなのかもしれない。
 夫の命を奪った毒は、冷奴に入っていた。
 私が食べたぬるい冷奴と同じものだ。
 日常を刻んだ、いやに暑い部屋で、私は静かに目を閉じた。

Copyright(c): Reo 著作:れお

◆「静かな部屋」の感想

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