ふわふわと、捉えどころ無く、心も、感覚も、思考も、まとまりなく、私は、ただ、部屋に広がっている。
例えるなら、眠りに落ちる、ほんの少し前の感じだろうか。
一つだけある大きな相違点といえば、私がこの状況に、安らぎを感じているかどうか、それがはっきりしない点だろう。
私は、自分の存在の有無すらあやふやなまま、そこに居た。
その状況に、苛立たない、と、言えば嘘になるだろう。
かといって、安らぎが欠片も無いかと言われれば、そうでもない、ような気がする。
あやふやなままそこに有る私の感覚は、本当にあやふやだった。
白い天井。白いベッド。窓があって、ドアがある。時々、うっすらと開くまぶたから覗いた景色を統合すると、その程度の物しか無いらしい。
開いた窓から入った風が、白いカーテンを揺らした。
まとまりのない私の感覚が、まとまり無いなりに、独特の匂いから、そこが病院と、伝えてくる。
おあつらえ向きに、手も、足も、頭も、私の支配に応えてくれない。
まさに私は、患者、なのだろう。
あやふやな私の存在は、その状況に関する感想もあやふやだった。患者である事が楽しいのか嫌なのかすら分からない。余りのあやふやさに、自分で笑ってしまいそうになる。
だが、事態は本当にその程度の深刻さなのだろうか。一抹の不安が、分かった所でどうにもならない事へと、私の思考を誘う。
何処が悪いのだろう。
怪我、だろうか。
病気、だろうか。
あるいは…。
疑問のままを、口にして言葉にしてみようと試みる。声は出たような、出ないような感じだった。
私の受け止める感覚の所為だろうか。
それとも発する側が本当に壊れているのだろうか。
あやふやな私の存在は、何一つ、答えを返してくれなかった。
私は諦めて、今一度、自分の置かれている状況を整理してみた。
ドアが一つ。ベッドが一つ。
と、いう事で、此処が本当に病院という事なのであれば、此処は個室という事になる。
個室という事であれば、私は本当に酷い状態にあるか、金持ちか、有名人か、と、いう事になるのだろうか。
特別に金持ちだとか、有名人だとかであった記憶は無い。だとすれば、やはり私自身の状況が、よほど酷いのだろう。
だとしたら、どういう具合に酷いのだろうか。
私の感覚がこれだけ散らばっているのだから、他人に危害を加える類いの酷い状況に陥っている訳では無いと思う。
自信は無いけれど。
だとしたら、私自身の怪我なり、病気なりが重い、と、いう事だろう。
怪我だとしたら、何処を怪我したのだろう。
手や足でも嫌だけど、顔はもっと嫌だな。
病気だとしたら、どんな種類の病気だろう。
他人に移るタイプの病気だと嫌だな。差別とかされそうだし。治療の方法が無いタイプだともっと嫌だな。まだ死にたくはない。
散らばっている感覚を、総動員しても、そんな程度の事しか解らない、自分がもどかしい。
目を開けていたい。
頭を動かしたい。
腕を動かしたい。
起き上がりたい。
歩きたい。
走りたい。
逃げたい。
…何から?
部屋一杯に散らばり、広がる感覚は、私が答えを導き出す事を、許してはくれない。
唯一、救いと言えるのは、痛みすら遠い事だろうか。
白い、包帯が見えた。
腕に。
足に。
どうやら頭部にも巻かれているらしい。
それだけ包帯に巻かれていれば、その下にある皮膚は、相当の痛みを伝えてくるはずであろう。
それが、今の私には、無い。
救い、で、あると同時に、それは、とてつもない苛立ちを私に与えた。
痛みを感じられない傷に、意味などあるだろうか。
だが、そこには歴然と白い包帯が有る。その下には必ず傷が有るはずだ。
その不条理が、漠然と散らばっていた私を奮い立たせた。
意味を見つけられなければ、怪我をしただけ、傷を付けられただけ、損なのだ。
漂う自分を楽しんでいる場合では無い。
働かない回らない頭が、もどかしい。
そもそも、何故、個室なのだろう。
高いだろうに。
単なる怪我であれば、個室にする意味も必要も無い筈だ。
生死を彷徨う集中治療室ならいざしらず、別段金持ちでも有名人でも無い筈の私が、個室に居る意味とはなんだろう。
浮き上がるだけ浮き上がっては、答えを貰えない疑問が、散らばる私の存在に、まとわり、絡まり付いていく。奮い立つだけでは、先に進まぬ時があるのもまた事実で。
まぶたが、重い。
腕が重い。
足が重い。
どこもかしこも、重い。
絡みついた疑問が、より、私を重くしていく。より、私を不快にしていく。
目を開けて。
口を開いて。
感覚を解き放ち。
答えを得たい。
願いは、とりとめもなく散らばるばかりで、叶えられる事は無かった。
それらが叶わないなら、深い眠りを私に下さい。
そうすれば、少しはマシな自分に戻れるだろう。
だが、その願いも叶わずに、私はただ漠然と部屋を漂うばかりだった。
一陣、強い風が、部屋を横切った。
微かに風を捉えたまぶたが、うっすらとだが、開いた。
定まらぬ視線の先に、ぼんやりとした影のようなモノが映った。
それは、おぼろにぼやけた人の姿らしかった。
もぞもぞと微動する私に気付いたのか、おぼろにぼやける人影は、こちらに視線を投げた。その人は、母のようだった。
私の、部屋中に散らばった感覚が、母の存在をはっきり捉えようとざわめき立った。もぞもぞと動き始めた感覚は、おぼろにぼやけた記憶の断片をも刺激した。はっきりとしない、薄ぼやけた記憶が、もぞもぞと部屋中に広がっていく。
これはいつの記憶だろうか。
もぞもぞと広がる記憶は、いやに熱かった。
酷く熱かった。燃えるほど熱かった。
燃える。
記憶がカツンと何かにあたった。
燃える。燃えたんだ…、何が?私が?
いや、違う。家だ。家が燃えたんだ。
燃えた家。燃え上がる屋内。燃え上がる。カーテンが。カーペットが。家具が。家族の思い出ごと燃え上がる。
燃える家は、熱かった。私の服にも火が燃え移って…。
燃えたのは、それだけ?
いや、違う。
人の形に燃え上がるモノを、私は見た。
あれは誰?
あの炎の形は誰?
ああ、あれは、父だ。
父が燃えたんだ。
私の目の前で。
私は逃げた。
燃え上がるモノ全てから逃げた。
でも炎は追ってきた。
私自身も燃えていたのだから当然だ。
逃げる私。
追ってくる火。
熱い。
とてつもなく熱くて、熱くて…。
あれ、でも、とても寒かった。
あれは燃えたショックで出た熱の所為だったのだろうか。
熱くて、とても寒かった。
私は逃げた。逃げて、逃げて。
ああ、それで私は、助かったのだ。
火から逃れて。
…火、から?
記憶が、糸の切れた真珠の様に散らばる。転がる。コロコロ転がって、そこに映り込むモノは何?
薄く開いた目に母の姿がぼやけて映る。
真珠球に映るように、歪んでぼやけて映る。
父は、どうなったのだろう。人の形に燃え上がった、アノ人は。
真珠球に映り込む記憶は、歪みぼやけて定かでなく。コロコロと転がって、何処かへ行ってしまった。
薄く開いた瞳に映る母が微笑む。
おぼろにぼやけて映るその人は、私に手を伸ばした。
私は何をして、何から逃げて、どうなったのだろう。
私に、母の手が伸びる。
伸びてきた懐かしいその手は、柔らかな温もりを持つその指は、私のまぶたを、優しく撫でて閉じさせた。
目が閉じられて行くのと同時に、私から思考が遠ざかって行く。
母の唇が、微かに言葉を刻んだ気がした。
私は静かに目を閉じた。
遠ざかっていく思考が最後に転がしていった言葉は、証人、だった。
私は、おぼろにぼやけて部屋中に広がっていく。遠くなる感覚は、まとまりを解かれてあやふやに転がっていた。
さっきまであれほど欲した、自分の中の真実から逃れる為に、必死とも言える程の勢いで、私は意識を手放した。
Copyright(c): Reo 著作:れお
*れおさんの作品集が 文華別
館 に収録されています。
*タイトルバックの画像に、「パンチヤマダ」の素材を使用させていただきました。
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