私は自分のホームページを運営している。
自作の詩や小説など文芸サイトなのだが、その中で最も人気があるコーナーが日記である。
この日記は誰に叱られても仕方が無いほどの毒舌ぶりなのだが、不思議と人気がある。
私は関西圏の人間であり、関東の異国とも思えるほどの風習の違いや社会、文化について毒舌で語っているのだが、関東の人々に倦厭(けんえん)されるかと思えば、むしろ楽しんでいるとファンレターをくれるのは関東在住の方が多い。
ホームページをスタートした頃、あまりの毒舌ぶりに心配していただいた方もいたのだが、それほどの批判も浴びずに、むしろ面
白いと言われるのだ。書いている本人は不思議で仕方ない。
ファンレターを頂いた方に訊いてみると、「言いたいことを代弁しているから面
白いのだよ」と笑ってくれるのだ。
私は関西圏で育ったが、今はわけあって関東の隅っこに在住している。
仮にI県としよう。ここで語りたいことは、怒涛のようにある。
しかしぐっとおさえて、ここで少し部落の話をさせてもらいたいと思う。
と言っても、部落の方が差別を受けているという話ではない。
私が現在住んでいる地域は部落“外”差別が多い。
『部落外差別』と聞いて、「何それ?」と思った人も多いだろう。
いやむしろ100%に近いと思う。
『部落外差別』とはその部落に属していないからという理由で受ける差別に、私が名付けた俗称である。ライターとして、人間として、こんな言葉を作りたくはないのだが。
私は自分の住んでいる県のことしかわからないが、人の話によるとこの差別
、結構受けている人が多いようなのだ。
かつて私が住んでいた地域には、部落差別というものがあった。
そのことについては、詳しく触れる必要もないだろう。皆さんご承知のとおりである。
早い話が、そのグループや土地に属しているからだけで、いわれのない差別
を受けることである。
それを部落差別というのだが、この『部落外差別』というのはまったく反対で、その土地にはじめてきた家族、その土地の風土に合わせない人を徹底的に差別
することを言う。今までほとんど語られることのなかった差別なのである。
私も今住んでいる県に来てはじめて知ったことであり、一番ショックを受けたことかもしれない。まあ、配達屋や近所の人が勝手に家に入ってくるのもびっくりしたが……。
私は同じI県の二つの都市を一年ごとに移り住んだ。
今住んでいるT市の話をしたいと思う。
市のHPで人口を調べようと思ったのだが、なぜか人口や市民の暮しのページが開けず、断念を余儀なくされてしまった。そうしたところも、しっかりしてほしいものである。
『江戸時代から商都として栄えてきたT市は、M市と並び県内トップの商業力をもち、商圏人口は50万人にのぼります。駅前再開発や、近隣・周辺商業地の整備により、魅力あふれる近代的商業都市に成長しつつあり、活気と賑わいに満ちています』
これが市の紹介文なのだが、実際は駅前ビル、駅前のホテルも閉鎖、潰れた商店が軒を連ねるなんともさびしい町である。
どこが『近代的商業都市に成長しつつ』なのか教えてほしいぐらいだ。
市の概要はこれぐらいにして、本題に入ろうか。
この都市(都市と呼ぶのも気が引けるほど小さな町だが、I県の中ではかなり大きい方らしい)
は、他県民の流出入がかなり高い都市で、2時間余りで東京にアクセスできるという利点から、東京のベッドタウンになっている。
東京で働き、この街に帰って眠る。そうした通勤圏のギリギリの区間ではないだろうか。
実際私の友達にも、何代にも渡って生粋(きっすい)のT市住民という人はいない。
そのT市、いやI県全体に言える事だが、やたらに仲間意識が強い……と言うか、異常なほど他県民を意識する。その中でももっともひどい地区の例をあげてみようか。
よく部落差別で悲劇が起きたと言う話を聞くが、私の友達(他県出身)は『部落外差別
』を受けている。
私の友達であるAさんはこの町に家を買って、他県から引っ越してきた一人である。
そのAさんは、ある日近所の人にこう言われたらしい。
「部落に入っていないから、ゴミを捨ててはいけない」
別に部落がゴミを収集しているわけではない。市の自治体が他県と同じように収集している。
かまわずにゴミを捨てると、中身を勝手に見られてしまう。
ゴミというのは生ゴミにしろ燃えないゴミにしろ、プライバシーの象徴である。
ゴミからその家庭の家族構成、年齢、趣味など多くのことがわかってしまうのだ。
下手をすると性生活まで予想がついてしまう。
そのゴミを、赤の他人が勝手に覗いてしまうのだ。
ストーカーに間違われても文句は言えない行為ではないか。
それも、ちゃんと分別して捨てているゴミ袋をわざわざ開いて調べている。
これは、人間として許せない行為だと思う。
ゴミだけの問題ではない。余所者(よそもの)だからという理由で挨拶も無視。
Aさんにしてみれば、ゴタゴタが嫌なので挨拶するのだが、無視されてしまう。
挨拶しなければしないで、陰口をたたかれてしまう。いったいどうしろというのだろう。
Aさんの近所のYさんは、Aさんの生活を全て知っている。
何時に電気が消えた。
何時に家人が帰ってきた。
どんな客人があったか。
あげくの果てには、速達の配達を勝手に玄関を開けて置いていく。
これがその地域の日常であり、Yさんが特別なわけではない。
この地域に来たお嫁さんはすべて逃げ出すと噂されるほど、まったくもって人権のない所なのだ。
部落は他から差別されてはいけない。
しかしその中に仕方なく住んでいる人々は、差別されてもいいのだろうか。
他県から来た人には、部落の人間は何をしてもいいのだろうか。
そして、これは同居している婚約者から聞いた話。
ある日のこと、駐車場に車を停めておいたら、持ち主からクレームの電話がかかってきた。その駐車場は、彼の勤務している会社が借りているのだが、「貸した覚えは無い」と言い張るのだ。もちろん契約した書類もあり、お金も口座から引き落とされている。
この会社は旋盤(機械で機械部品を削る)工場で、専務取締役の自宅の隣にある。この専務は、引退した社長(父親)の代わりに小さな工場を切盛りして、不景気でも盛業なやり手の方である。元々はT市の住民ではなく、ご両親の代に他県から移ってきたのだという。
専務は「こんな土地で、近所にごまをすって何の得があるんだ」と広言する方で、けっして近隣の人たちに頭を下げようとはしない。非は、地元住民の方にあるのだから。
だからこそ、差別の対象になるのだろう。人は自分よりも地位が高く自信に満ちて正しいことを言う人には、好意よりも敵意を持つことが多いものだ。
こういった話は他にもたくさんあるのだが、これぐらいにしておこうか。
あらためて断言するが、これはすべて真実であり、作り話ではない。
このような土地に好意を持てと言う方が無理ではないか。
これは紛れもなく、関東に分類される某県でのことである。
新しい土地で、見知らぬ人との触れあいがうまくできないという部分は、『文化の違い』で締めくくることができる。しかし、悪意を持った部落“外”差別
には、どう立ち向かえばいいのだろうか。もちろん、余所者を普通に受け入れてくれる部落も多いのだろうが……。
部落差別は、決して部落の外の人たちだけの問題ではないことを知ってほしい。そうした壁を作っているのは、決して外の人間だけではないのだ。何も知らずに移ってきた人たちを差別
して、うさを晴らすような人たちがいる限り、部落差別も無くならないのではないだろうか。
『部落外差別』に限らず、こうした余所者に対する差別意識は、I県だけではなく、城下町と言われた街に多いという。
「城下町は暮しにくいから」
夫の転勤で、地方を転々とされた主婦の言葉だ。城下町は武士が多く、そのプライドが今も根強く残っているのだろう。だから他県民を受け入れることをしない。
江戸時代の徳川の政策について、いろいろな意見があると思うが、私は感服する。300年以上昔なのに、未だ人々の血の中に、エリート心と差別
意識を持たせているのだから。
私が育ったのは、昔は流刑の土地であり、知らない者同士でもすぐに話ができる土地柄だった。そして、人の心の中に決して立ち入ることをしない。そういう気風の中で育ってきたので、よけいに今の土地に違和感があるのだろう。
徳川家康の政策は確かに名政治だったのだ。
人の心を操る政治としての手腕は、疑うべくもない。
人道的にはいかがかと思うが、政治を疎かにして内部抗争ばかりしている今の内閣よりはましなのかもしれない。
世間の人たちは、部落差別の根本にある問題を知らないから、「だめだ」「かわいそうだ」と言える。
しかし物事には原因があり、その原因を取り除かない限り何も解決しない。
そしてその根本はどちらの側にもあり、人間の心の闇に直結している。
関西と関東の文化の違い。それはそれで結構なことだろう。
同じ国に異なる文化があるのは、面白いことだ。
関西と関東の違いではなく、各地域の違いも特色があって楽しい。
だがそれは決して差別に発展してはならない。
同人種間での差別、『部落差別』『部落外差別』のようなものがあるのは、日本だけかもしれない。悪いとはわかっていても、直すことができないのが人間の悲しいサガであり、人間としての業なのだとしても、それは許されることではない。
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