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 私がコンピューターゲームと出会ってから、どれ位の月日が流れたであろうか。

 記憶を辿れば、最初の出会いは「カセットビジョンJr.」だったと思う。友達の家でプレイした「カセットビジョン」ソフトの「きこりの与作」に衝撃を受け、母親に強烈なおねだりプッシュ攻撃をかけて購入してもらった。これはカセットビジョンの下位 互換機として発売された、言わばカセットビジョン廉価版。そのため幾つかのカセットビジョンソフトが動かず、「友達から無理して借りてきたソフトが動かなかった」という辛酸を舐める事となった。おまけに親から「このテレビでやるならいくらやっても良い」という夢のようなお墨付きを得て支給されたテレビは、当時としてもかなり古い型で機能が半分腐敗しており、カラーテレビなのにカラーで表示できないというアンビバレンツマシンだったので白黒画面 でのプレイを常に余儀なくされていた。そのため重度に熱中したという記憶はない(思えばこれは親の恐るべき計算に裏打ちされた許可だったような気がする)。

 本格的にゲームにのめり込んでいった契機は、誰もが知っている国民機「ファミリーコンピューター」、いわゆる「ファミコン」との遭遇である。これもまた前述のような経緯で購入した一品で、現在に至るまで自分の傍らに居続ける、さながら旧来からの友人の様な存在である。とにかくドップリとはまった。遊びまくった。まくりあげた。
 最初に買ったソフトは「ドンキーコング3」。任天堂の名物キャラクター「ドンキーコング」が登場するファミコン黎明期に発売されたタイトルである。しかしながら当時既に発売されていた名作「ドンキーコング」および「ドンキーコングJr」とは似て非なるもので、植物園を襲撃するドンキーコングや芋虫等に対し、只ひたすら殺虫剤を噴きかけて(しかもコングには股間付近に噴霧)画面 上部に追い込むというストイックな作りであった。だがこれが妙に自身の好みとフィットし、来る日も来る日もシュッシュシュッシュと殺虫剤をバラ撒いていた。「ゴリラに殺虫剤」という方法論にさして疑念は抱かずに。
 なにはともあれ、このソフトが起爆剤になり、今後狂い咲きファミコンロードを激走する事となった。

 小学校高学年の時、私は時を同じくして大流行した「ビックリマンシール」を知人から大量 かつ無料で譲り受けた。理由は定かではないが「飽きた」という主旨だったと思う。そして私はこの受け継いだシールを高額で販売するという(といっても「『魔鐘ネロ』1枚500円」といった程度の小学生市場倫理価格で)ちょっとしたベンチャービジネスを手掛ける少年実業家へと華麗なる転身を遂げた。でもって儲けたお金は将来のために貯金を…という考えは起こさず、湯水のごとくファミコンソフト購入へ投下していった。これを前述した通 り「貯金する」とか「参考書を買う」とか「祇園で派手な遊びをする」とか「有望な芸術家のパトロンになる」とか「楽器屋のショーウィンドウを眺めながら佇む黒人の少年にトランペットを買ってあげる」とかだったら、また一味違った人生になっていたのかもしれない。ところがそんなことにまったく思いを馳せず、ただ闇雲にファミコンソフトを買っていった。
 しかし当時自分がプレイした全てのゲームを自分が所持していた訳ではない。いくら私が過去に「フォーブス」誌上の長者番付で上位 に食い込んだ少年実業家であったとしても(もういいか)出るソフト出るソフト全てを買うということは出来なかった。自分が持っていないソフトは友人宅で遊ぶ、もしくは借りる、複数のソフトと交換するといったことをしてプレイしていた。そこに子供なりのコミュニティーを形成し、一緒に攻略方法を探究、協力プレイでゲームをクリアー、また時には恐ろしく下らない理由で喧嘩等々の交遊が行われていた。今振り返ればこれもまたいい思い出になったと思う。

 中学校進学後は家庭用ゲームもさることながら、ゲームセンターへも足繁く通 うようになった。近所に1プレイが10円単位で出来るゲームセンターがあって、そこが主戦場。今みたいに綺麗に整備されたような場所ではなく、かつてPTAとかが声高に叫んでいた「不良の温床」というフレーズにピッタリな陰気で小汚く薄暗い空間であった。「小学生だった自分にサヨナラだぜ!もう一つ上のステージへ上るんだ!」という蒙古斑剥き出しの赤面 発想が原動力となり、金銭的に多少無理があっても遊んでいた。実際、蓋を開けてみれば、ゲーム中のキャラと一緒に「うりゃうりゃうりゃぁぁぁ!」とハミングしていたという、もう一つ上のステージへ上るどころか、むしろステージをドンドン下げていったような遊び方をしていたが…。
 しかしながら、確かにデンジャラスな場所でもあった。コインゲームのポーカーでバカ勝ちしていた友人が学校の怖い先輩方に勝ち取ったコイン全てを無理矢理没収されたなんて話もよく耳に入ってきていた。幸いにして自分はそういった場面 に出くわしたことが無かったので、ゲームセンター恐怖体験は無いのだが、事実として明らかに当時のゲームセンターは「ちょっと危険な香り漂う場所」であった。高校に進学したあたりから「アミューズメントスポット」というような呼称を与えられ、ゲームセンターは浄化されていったのだが、今でもあのどんよりとした雰囲気が懐かしく感じる。

 高校生の時も相変わらずのゲームライフで、この頃は学校帰りのゲームセンター通 いが完全に習慣化していた。友人と連れだって渋谷界隈を小銭握り締めてウロウロしていたものだ(今でも存在する渋谷センター街の「渋谷会館」は毎日の様に通 いつめていた)。例えば「エイリアンVSプレデター」といったアクションゲームでは、まず友人と二人で筐体(きょうたい)の前に鎮座し、両替してきたお金を互いに確認、そしておもむろにプレイ。ゲーム中の体力回復アイテムをどちらが取るかで口論しつつも徐々に攻略してゆく。全機死亡したのにお金が尽きてコンティニューできないと、すわ一大事。ゲームオーバーまでのカウントが無情にも進められる最中、周りで見ていた他の友人に対して「は、早くっ!銭、銭を出すんだ!」と、さながら情けない「ミナミの帝王」と化し無理矢理な請求(その友人も訳が分からない内に差し出している)。そうこうしている内に何だかんだのすったもんだでクリアー。帰宅。こんな事ばかりしていた。特に小銭が尽きた時の慌てぶりは凄まじいもので、今思えばホントにアホ極まりない動揺の仕方なのだが、あの場での自分にとっては宇宙規模の一大事であった。周りも一致団結しているところがまた麗しく、そして間抜けなところである。やはり持つべきものはコンティニュー時に何も言わずお金を貸してくれる友人。これだ(これか?)。

 ゲーム業界に一石どころか隕石を投じたソニー謹製「プレイステーション」が発売されて、私もいつの間にか大学生になっていた。「延々と流れる美麗CGとやらが見たくこのゲームを買った訳ではない!」とか「ゾンビを倒すのは快感だが操作システムはあまりにも未完成だ!」とか「このゲームにおける、その、例の、アレだ、つまり、いわゆる…とにかくつまらない!」といった大学生らしい、一聴すると論理的だがとどの詰まり単なる屁理屈みたいなものをぶつくさ言いながらも、結局ゲームをやっていたものだ。
 大学構内にある某クラブの部室にはファミコンがあった。ファミコン世代であるし、またソフトも充実していたのもあって、ゲーム好きが集まってはワイワイ遊んでいた。いい歳をした大学生が寄ってたかって「ファミリーボクシング」で大興奮。「ボンバーマン」全面 クリアで狂喜乱舞。その後ろでジャラジャラと4人が麻雀。またその横では「コロコロコミック」熟読中の先輩。転がる酒瓶とビールの空き缶 。間違いなく日本の将来が危ぶまれる光景だったと思う。

 そんなことしている内に大学を卒業。あれやこれやで今に至る訳だが、自分は飽きもせずピコピコとゲームをやっている。

 人間生きるためにはやらなくてはならない事は山のようにあるし、ゲーム以外にも楽しいことは、これまた山のようにある。自分だって映画も見れば音楽も聴く。旅行にだって行くし本だって読む。今までゲームばっかりやっていた訳ではない。

 ただこうも言える。

 振り返ってみて、ゲームを知らない人生というのも悪くは無いが、ゲームを知っている人生というのもいいもんだ、と。

 まあ、たまにはコントローラーを握る前に、一人でセンチ気取ってそんな事を思ったりする。


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