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 人間、不幸はどこに転がっているか分からない。
例えばおいらの場合、高校が男子校だった。
中学3年の時、どうしても行きたい高校があった。
特に何の根拠もないまま、自分は必ず志望校に合格すると決めていたので、すべり止めのことなど考えていなかった。
担任が最低一つは滑り止めも受験しろというので仕方なく受けた高校がたまたま男子校で、お決まりのパターンで志望校の受験に失敗して、滑り止めに通 うことになってしまったのだ。

 高校時代というのは15歳から18歳までの思春期を過ごす期間である。
その期間に「教育方針」によって同性だけのコミュニティの中で生活するというのは必ずや成人の後に異性との間に正常な関係構築を阻害する遠因を作る恐れがあるのではないだろうか?
やたら堅い文章になってしまったが早い話が、「男子校・女子高」というのは、「教科として国・数・英はありません。」というよりもさらに異常な状況下で青春を送れ、といっているようなものである。

 そんな時に洋楽の雑誌の文通コーナーでとある女の子と知り合った。
今の中高生は全く馴染みがないかもしれないが、携帯もインターネットも無かった昔は、「文通 」という文化が存在して、今のメル友よりも45%くらい薄暗い世界を構成していたのである。
純情な少年Aだったところのワタクシは、「カトリックで子供の頃から教会に通 っている」という清楚な彼女と手紙の交換を重ね、何度か電話で話すようにもなった。そして一緒に映画に行く約束をとりつけたのだが、映画に行く数日前に連絡が入り、「実は、子供の頃からお世話になっている教会の牧師さんが亡くなって、その日、映画は行けません。」という内容であった。
純情な少年Aだったところのワタクシは、彼女の悲しみを思い自分も悲しみに暮れたのであった。

 そんな清く美しい純情少年だったワタクシであるところのおいらも高校を卒業すると現代日本に絶大な影響力を持つ時代の仇花的文化「合コン」に出席するようになる。
合コンといってもおいらが行ったのは「紹介」クラスの4、5人のこぢんまりとしたものが殆どだったが、どちらにしてもあの空気に慣れるのはなかなか大変だった。
おいらの知り合いに一人、合コンを開催することだけを生きがいにしているような奴がいて数年前まではそいつに誘われて何度も「内輪合コン」に出席したことがある。

 合コンというのは「実は非常に不自然なことをごく自然な顔をしてやらなければいけない。」という暗黙の掟がある。
自分の知り合いか、もしくは初対面でもそれまでに何らかの交流があり、それなりに意志の疎通 というようなものが計れている者同士なら、その「集い」というものに、それぞれ自由に目的とか期待といったものを持つことができるが、合コンの場合、それがない。
目的及び期待は全員ただ一つ。
「いい男いネがぁ?」
「可愛い子いネがぁ?」
まるでナマハゲの集団である。

 しかも、そのような露骨な目的意識から成る集会でありながら、極力、涼しげ顔をして、「いやぁ、なんとなくこの場にきちゃったけど、これも付き合いだから・・ははは。まいったよ。でも、君みたいな子に出会えたのはラッキーだったなぁ」などという鳥肌の立つようなスタンスを堅持しなければならないのだ。

例えば、男3人、女3人という構成で合コンをやったとしよう。
合コンの待ち合わせ場所に行くとすでにそれとおぼしき女の子3人組がいるのである。
ここでさも、この日この時この場所で、6人が顔を合わせるのは前世から約束でした! といわんばかりの自然さを装って「さわやかに」軽く自己紹介をしなければならない。
間違っても「っていうか、誰やねん?」などと言ってはならないのである。
おいらにはこれが一番辛いのだ。

 話は多少それるが、大抵の家庭では「決して嘘をついてはいけません。」と繰り返し教えていると思うんだけど、これは結構危険な発言である。
「嘘をつかない」ということは確かに美徳だが、「嘘をつけない」というのは明かに欠点だからだ。
おいらの知り合いにも何故か思ったことをずばずば口にする奴がいて、これだけ聞くと一般 的には、「裏表のない豪快な性格」ということになるんだろうけど、「裏表がない」のはともかくとして、「豪快な性格」ではない。
何故なら、彼はマイナス思考のヒトだからだ。
マイナス思考のヒトというのは常に悪い方へ悪い方へと考える。これが自分自身に向いているうちは、ある意味謙虚で堅実。と言えなくも無いのだが、彼の場合は自分以外の他人に対しても、自らの「マイナス思考の製造ライン」に乗せて考えるのだ。
たとえば、日常会話はこんな感じである。

「オレ、今日合コンなんだけどさぁ、可愛い子いるといいなぁ。」
「いないと思うよ。」

「なんか最近胃腸の調子が悪いんだよなぁ・・・。」
「胃癌じゃないの? 最近若いうちでも安心できないからね。」

 ちびまる子ちゃんの「永沢くん」も真っ青である。
しかし、恐ろしいことに、彼は悪気があって言っているわけではないのだ。
そしておいら自身もそこまでではないにしても嘘が上手い方ではない、社交辞令程度でもあまりにも心にもないことを言おうとすると露骨に顔に出るタイプである。
そんなわけで、「合コン初対面の儀」でも、おいらは大抵の場合一見してそれと分かるひきつった笑顔を形成しているのである。

 さて、そのような苦渋の初対面を経て、大抵の場合居酒屋へGO! という事になる。
ここにも暗黙の掟が存在する。
基本的に居酒屋の座る位置で「担当」が決まってしまうからである。
みんな、なんとかして自分が気に入った相手の前に座ろうと思うので、「居酒屋着席の儀」では、目に見えないところでそれぞれの力関係や信念、そして妥協や悲哀といったものが妖しく絡み合っているのだが、これも表向き「自然に」行わなければならない。

 いくら自分の気にいった相手の前に座れなかったとしても、居酒屋の床に寝転んで泣き叫ぶなどはもってのほかだし、いくら女の子の内一人だけが可愛いかったといっても、男共がその場で彼女の前の席をめぐってオークションなんぞを始めてはならないのである。
これまたごく自然に先ほどからの笑顔をキープしつつ、相手のスタイルがどのよう形状をしていようが、また、顔の上の配置・構成にどんなに異議申立てを行いたいと思っても、ここは、ほがらかに着席しなければならない。

 勝負はほぼ居酒屋の2時間で決まる。
「居酒屋歓談の儀」はいかに男が女の子を楽しませられるか? にかかっている。

話題は浅く広くが基本で、間違っても己の悲しい出生の秘密などを話すべきではないし、またこのエッセイのようにくどくどと一人で喋りつづけてもいけないのである。
しかし、そこで歓談に興じる二人というのもよく考えて見ると非常に不自然な二人なのである。
よっぽど相手が気にいっていない限り(気にいっていたとしても)お互いにこの時点では相手に「手」は見せない。
この後、二人だけでデートを重ね付き合う事になったとしても、またその日だけで二度と会わないことになってもいいような状態をキープしなければならないのだ。
 つまり表面上「二人の世界」を構成してはいるが、これは「デート」であって「デート」はないのである。
この不自然さも慣れないとかなり辛いものがある。

 そしてその後、カラオケ等の「二次会の儀」を経て終演となるわけだが、最後の最後に「電話番号交換の儀」というビッグイベントが控えている。
(最近だとEメールもありかな?)
ここは意外とお互いの本心に近い行動が取れるので(まあ、男の場合聞かないというのは失礼にあたるが。)それほどこっぱずかしくはないんだけど、生まれついての電話嫌いのおいらはこれから始まるであろう電話戦線を思ってまたブルーになるのである。


 ところで、教会にいくと必ずいる「お寺でいうところの住職的立場の人」を牧師さんと言う場合と神父さんという場合があるでしょう。
あれはどう違うか分かりますか?
実はキリスト教の二大宗派、プロテスタント派の場合が牧師で、カトリックの場合は神父なのである。
キリスト教徒以外の人には雑学程度の知識だが、おいらにとってはなかなかに忘れることのできない豆知識なのである。

◆「合コンの作法」の感想メール


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