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 私は北海道で内向型・非組織型の為の無料相談業をしています。全国から相談にみえられます。相談に来る若い男女の中には「友人とうまく付き合えないし、親や兄弟姉妹とも疎遠なんです・・」という方が沢山おられます。

 人は青春の一時期、「自閉の檻」に自らを押し込むことがあり、そうなると他人はとても遠い存在となって、対話していても「遠い遠い人」としか映らないようになるのです。

 このような状況下では対人関係は不能になります。これは別に珍しいことではなくて、内向型の男女なら、そう3人にひとりぐらいの割合で体験する心的状況であるでしょう。

 あるいはこうした自閉気分ではなくても、価値観があまりにも違いすぎると、人は他人との間に交友関係を築けません。つまり、ある内向型の人が、「人生をいかに生きたらいいか・・」とそればかり考えているとしましょう。ところが彼または彼女の周辺にいる人々が、「人生をいかに楽しむか・・」を主な関心事とした場合は、両者は北極と南極に住む人間同士のように、実に遠い関係になるのです。このような場合も、うまく他人と付き合えなくなるでしょう。こうした心的状況は内向型の青年男女に普遍的に起こり得ることです。

 私は15歳から22歳ぐらいまでは、自閉気分の中に死にたい思いをこらえて生きていましたし、その後も「他人との価値観の差」による交流不能状態は実に長く続いてきました。このような状況下では、もちろん「自分はこれでも果たして人間と言えようか・・」とそう考えていたのです。

 しかし極論ですが、もし仮に私たちが無人島に流れ着いて、そこでたったひとりの生を営むことになったとして、それでも人間には変わりないでしょう。そう考えると「よし、私はこの人間世界を無人島のひとり住まいの人として生きよう」と決心したのです。あるいは、荒野を角を上げて走るサイのような姿を考えて、「孤独な人はサイのようにひとり歩めばよい」とそのようにも考えてみました。

 もちろん、人々との間に嬉しい交友、真の人間付き合いができるようになる日は、この私の上にもやがて訪れるだろうとは考えてはいました。自閉の檻を自ら出て、自縛の状況を自ら破れば、私もまた他人と付き合えるでしょうし、価値観の差は長く生きているうちには何とかなるに違いない、そう思っていたのです。しかし当面は、「サイになるないのだ」と思い、私は15歳から29歳ぐらいまでは、荒野のサイのようにひとりでひっそり生きてきました。そうはいっても父母はいたし、折々誘ってくれる有難い友人はいましたけれど、自分のほうから人を誘うことは考えられず、淡々と生き抜いたものです。

 そうして、そのような生活の果てに「人間はひとりでも生きられるものだ」ということを知ったわけです。

 よく、「ひとりで生きられる人間は地上にいない」と言われます。むろん、私たちは他人の作った米を食べ、他人の運転する地下鉄や電車には乗るでしょうから、いくら「荒野のサイ」を気取っても厳密にはひとりで生きて、生活の全てを自家製のものにしたわけではありません。あくまで、「他者との交友」に限ってのものです。

 そう、その方面に限ってのことなら、人はひとりでも生きられると思うのです。

 だから、今のあなたが「孤独の人」なら、それを恥じることなく、男女ともに荒野のサイのようにひとりで歩めばいいのです。ただし、首うなだれてソロソロと進むのではなく、形だけでも堂々と歩もうではありませんか。頭を上げて堂々と・・。

 そして、世間の同世代の人々の在り方や生き方を比較の対象にしてはなりません。うまくやっている他人との比較が「比較地獄」を生むのですから。「自分は自分なり」とそう考えて進めばよいのです。それは難しいことですが、決してできないことではないのですから・・。

◆「“生きづらさ系”人生相談」の感想


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