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 何を隠そう僕は「カンロ飴」が大嫌いだ。何故嫌いなのか、理由など今まで考えたこともなかったが、こないだある発見により思いがけずこの問題の底知れぬ深みに引きずり込まれることとなってしまった。
 とは言え簡単といえば簡単。答えはイングリディエンツの中にあった。とりあえず材料名を並べてみると、砂糖、水飴、醤油、調味料(アミノ酸)、………ちょっと待って。せ、せうゆを使うておられる。それに「調味料(アミノ酸)」って、あなた、これはいわゆる「ダシ」。アメに醤油(おまけにダシ)なんてゴハンにアンコぶっかけて喰うようなモンでしょ……イヤ、舘ひろしじゃないけど「おはぎ」は食べれます。ら抜き言葉もワザとらしいのですがその通りで、昔は嫌いでした。嫌いな区分としては「カンロ飴」と同じだったかなあ。
 考えてみれば日本の食にはこういった甘いものなのか辛いものなのか味覚のボーダー付近を不法侵犯するものが少なくない。単純に甘い、あるいは辛いというのを許さない伝統があるような。
 一つには塩分の投入などによるエッジング(edging)の効果と、加えてこの味覚の複雑さは油脂分が低くあっさりとして、ともすれば平板になりがちな日本の食にアクセントを付け、立体的な充足感を「味覚の振動」によって何とかして実現しようとした先人たちの知恵だったのかも知れないと思う。しかしながらそのような複雑で繊細な味は近年、脂肪分などによる強力で直接的な充足感に駆逐されつつある。もし最初に選択肢があるのなら僕も迷わず後者を選ぶだろう。恐らくこの高度な味を理解するためにはある種の味覚の鍛錬とも言うべき環境の中に身を置いて、そこで慣れ親しむことが必要なのではないだろうか。
 そういった意味では、この「甘露」という中国の故事から成る語を頂くこの飴は、世界的規模での統合が進む食文化に対し頑として己のスタンスを守り続ける正に味のインテレクチュアル。貴重な存在と言えるのかも知れません。そのコハク色の中に日本の食を封じ込めて。

 いつかカンロ飴を口に三十秒以上入れておけるようになったら、是非言ってみたいものだ。
 「あゝ 甘露、甘露」

Copyright(c): Taichi Tmura 著作:田村 太一

◆「あゝ 甘露、甘露」の感想


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