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 若い男など、ここでは珍しかった。仲間達は皆、最低でも五十は過ぎている。対して彼は二十代か、いっていたとしてもせいぜい三十くらいだろう。ここに来るには、少々早い。
 若さは女と似たような効果があるのだろうか。皆が皆、何かと彼のまわりに集まっては、ちやほやと、ものを分け与えようとした。食べる物、着る物、布団に、雨風をしのぐダンボール。どの辺りで寝れば一番快適かも教えてやり、あまつさえようやく順番がまわってきたその場所を、彼にはあっけなく譲ってやったりする。他人に手を差し伸べるような余裕などない筈なのに、みんな彼に親切だった。
 若さの他に、厚意が集まる理由があるとしたら、それは彼が「善良」だったからだろう。妬んだり羨ましがったりせず、疑う事も怒る事もしない。寡黙で笑みを絶やさず、人の話をよく聞いた。施されれば常に感謝を忘れなかったが、一方で、その感謝を捧げるのは施してくれた相手ではなく、どうやら「神」であったらしい。十字こそ切らないものの、時々「主」という言葉を口にしていたから。
 労せず食べ物や寝床を確保できるせいか「ここはまるで楽園ですね」などと言い、私達は笑ったものだ。悪臭と垢にまみれ、通 行人達からは軽蔑の眼差しを向けられる「楽園」。
 彼は「ダムさん」と呼ばれた。私が決めた名前を、仲間が仇名らしく呼び変えたのだ。
「生まれた時から、大人だったんです」
 気がついたら路上で寝ていた。過去の記憶が全くないと、ダムさんは不安げに語った。私達からすれば、それは羨ましい事だった。過去さえなければ、もっと気楽に生きられる。

 やけに冷える夜、同じダンボールで隣合って寝ていた時である。めくれあがったシャツの下、ダムさんの生白いわき腹に、出来物のようなものを見つけた。そこだけ少しピンクがかって、皮膚が盛り上がっている。赤子の掌くらいの大きさのそれは、人の横顔みたいに見えた。まるで乳を吸うかのように、唇を尖らせている事さえわかる。眼に当たる部分には、真っ黒いほくろがあった。
 起きてからそれについて尋ねると、「どんどん大きくなっているんです」とダムさんは眉根を寄せた。
 最初はただの水疱だった。丁度ほくろのところに水がたまって、その様が眼球のようで気味悪く、指で潰した。しばらくしたら、まわりの皮膚が盛り上がってこんな形になったのだそうだ。ばい菌でも入ったのだろう。「そのうち治るよ」と、その時は安請け合いした。

 そのうちダムさんは、時折、頭を抱えてぶつぶつと独り言を言うようになった。
「頭でも痛いんか?」
 周囲がそう気遣うと、彼は首を振り、「頭の中で、声が誘うのです」と答えた。どんな声が何を誘うのかは、口にしようとしない。ただその独り言は、誰もが一度は耳にしていた。
「食わない、食わない。言いつけは守らなきゃ」
 勿論、意味はわからない。

 夏に近づくにつれ、上半身裸で過ごす事が多くなると、ダムさんの出来物は皆が知るところとなった。横顔は、初めて見た時よりずっと大きくなっている。顔だけでなく、細い首筋から肩、豊かな胸、張った腰、足先までもが現れていた。それが泳ぐような格好で、ダムさんの肋骨にそって背中まで続いているのだ。眼に相当するほくろも、一回り大きく、黒々と光沢を放つようになっていた。
 その出来物がなんとも気味悪く、また頻繁になった独り言のせいもあるだろう、あれだけいたダムさんの取り巻きは、一人、また一人と減っていった。私にしても同様である。だから死んだ時、彼は独りだった。

 ダムさんの死体が発見されたのは、蝉の声が聞こえなくなる頃の事だ。
 それはひどい有様だった。胸を大きく引き裂かれ、肋骨がまるまる一本なくなっていた。その上、頭蓋骨が割られており、中身を空っぽにされていたのだ。もっとも、直接目にしたわけではない。拾った新聞にそう書いてあったのである。
 葬式代わりの酒盛りで、「遺体には情交の痕跡が認められ…」と声に出して読み上げると、みんな揃って目を伏せた。あの出来物はどう見ても女だったし、消えた肋骨は女がいた場所だった。「抜け出したのか」と誰もが同じ事を想像し、けれど口には出せずにいた。
 脳味噌は、実際に見た仲間が言うには「なくなっていた」と言うより「食い散らかされていた」のだそうだ。
「野良犬だろう。畜生はむごい真似しやがる」
 別の仲間が吐き捨てるように言うと、そいつはぼそりと呟いた。
「犬じゃねぇ。ありゃあ、人間の歯型だった」

 あの出来物はなんだったのか、何故脳味噌が食い散らかされていたのか。頭の中に鳴り響いたという「誘惑の声」との関係は? わからぬ 事だらけだったが、なんとか落ち着きどころを探し当てるべく、ぐるぐると考え続ける。
 さんざん思い悩み、ようやく思い至ったのは、聖書の一節、俗に言う「失楽園」のくだりだった。
「楽園の男女は、食べてはならぬと言われた禁断の果実を、蛇の誘惑に負けて口にした。神の言いつけを守らなかった二人は、その罪で楽園から追放された」
 脳は知恵の象徴だ。しかしその姿は、見ようによっては、複雑にとぐろを巻いた蛇にも見えないだろうか。
 「私を食べて」と蛇に誘惑され、ダムさんはそれに耐えた。だが、ダムさんの「肋骨から生まれた女」は誘惑に負け、禁断の果 実、即ち「知恵の実」を口にしたのだ。
 過去がなく、気がついたら路上で寝ていた男。記憶喪失の彼に、「閃くように」自我を与えられた最初の人間「アダム」の名を与えた事を、私は思い出していた。

 「楽園」を追放された「イブ」は、その後、どこへ向かったのだろう。そんな事を考えながら、私はダンボールの中に身を横たえた。

Copyright(c): Daiansitsu 著作:大暗室

◆「禁断」の感想

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*「文華」でイラストレーター登録(No.41)されている大暗室さんは、「大暗室 」 という個人サイトを運営されています。タイトルバックのイラストも、大暗室さんに描いていただきました。

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