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 終点東京が近いことを告げるアナウンスが入った。窓側に座っていたわたしは、隣席の商用らしき男性にぶつけないように注意しながら、網棚から荷物を下ろした。新橋を過ぎ、銀座のプランタンが目に入る。「東京には空がない」と誰かが言ったようだ。でもわたしは建物の間から見える四角く切り取られたような空を、ときおり見上げながら育ったのだ。

 そう、わたしは校舎の上に広がる空を見上げていた。わたがしを伸ばしたような雲が幾つか浮かんでいる。二学期が始まって、そろそろ一月になる。スピーカーから下校時刻を告げる“アヴェ・マリア”のメロディーが流れてきた。わたしたちは、砂場いっぱいにつくり上げた水路を踏みつぶした。そしてランドセルを取ってくると、校門から高円寺駅方面と青梅街道方面とに分かれて帰路に就いた。まだ月曜日に“哀愁”など覚えることのなかった、わたし。

 翌日わたしが学校から戻ると、玄関ではじめくんが母に何か言われていた。はじめくんは三つ年下の弟で、今年から武蔵野にある私立小学校に通っている。床に置かれた籠にわたしは見入った。濃いめの灰色をした鳩がうずくまっていた。
「はじめちゃん、どうしてこんなもの持ってきたの。」
 母は籠から二、三歩後ずさっている。動物が、嫌いなのだ。はじめくんは白いピケ帽を手にもじもじしている。
「誰が面倒みるの。ママはいやですよ。」
「ぼく、するよ。怪我して雑木林に落ちてたの。先生が誰か世話できる人って聞いて、手挙げたの。うち金魚もいるし。」
 はじめくんとしては精一杯の弁明だった。先生、と聞いて母はしぶしぶ許した。鳩は翼が傷ついていた。じっとして、喉(のど)だけが微かに動いている。

 水曜日。朝起きてくると、はじめくんはもう食卓についていた。母がわたしのパンをトースターに入れてくれる。はじめくんが小学校へ上がる前の冬、起きてくると部屋はときどき暗くて寒かった。わたしはガスストーブを点けて前にしゃがみこみ、あたたまった。父が起きてきてパンを焼いてくれた。でも今では私より早く家を出るはじめくんのために、母は欠かさず準備をしている。きっと今年の冬は明るくあたたかい部屋に起きてこられる。
 その日は午後から父兄会があるため、授業は午前中で終わった。わたしと小田光代、オダミは新宿に住む田中由布子、ターコのうちへ遊びに行った。都バスに乗って青梅街道を上り、鳴子坂下で降りる。ターコの家は昔風な木造建築だったが、ターコには独立した部屋があった。おそらく納戸(なんど)のような小部屋だったのだろうが、窓があって採光は良く子供用のベッドが置かれていた。この頃はターコもオダミもひとりっこだった。このあとしばらくしてターコには年の離れた妹ができたのだけれど。
 木の床と壁はローラのうちみたいだ、と思った。そのころわたしたちが本やテレビを熱心に見ていた「大草原の小さな家」のローラだ。わたしたちは中央公園へ行って「大草原の小さな家」ごっこをした。小柄なオダミがキャリー、主人公のローラはターコでわたしはメアリー、散歩中の犬を勝手にジャックと名付けて近寄ったりする。そしてわたしとオダミは、できて間もない高層ビルを見上げた。昨年完成した住友ビル、通称“三角ビル”と三井ビルだった。夕方父兄会から戻ったターコのお母さんが迎えにきてくれた。
「何か冷たいものでも飲んでいきましょうよ。」
 わたしたちは京王プラザホテル一階の喫茶コーナーに入った。
「何でも好きなもの言ってね。」
「わたしおなか空いちゃったから、スパゲティ・ミートソース。」ターコは慣れた感じでメニューを見て、言った。
「わたしクリーム・ソーダ。」わたしが言うと、オダミが
「あ、わたしも。」
 飲み物を頂いてから、オダミとトイレに行った。
「わたしもほんとはスパゲティ食べたかったな。」
「わたしもぉ。でも何か遠慮しちゃうよね。」
 その日は家へ帰ってから、再び青梅街道を上ることになった。鍋屋横町に住むはじめくんのお友達のところへ、父の運転する車で鳩を入れる籠を借りに向かったのだ。いま鳩はほとんど身動きできない大きさの籠に入っていた。あまり動けないようではあったが動物病院で簡単な治療は受けさせた。その子の家は通りに面した金物屋だった。黄色味を帯びた光の下でお父さんに呼ばれると、店と棟続きの奥の部屋から釣り鐘型の鳥籠を下げて目の小さな子が出てきた。

 翌日、日が暮れかけたころわたしは友達のうちから自転車で戻った。家の前ではじめくんがひとりで補助付き自転車を漕いでいた。
「はじめくん、後ろに乗ってみる?」
 はじめくんはゆっくりわたしのほうを見ると、小さくうなづき自分の自転車を降りた。そしてわたしの背後の荷台にまたがった。わたしは既に子ども用ではなく、今で言う“ママちゃり”に乗っていた。長く乗れるようにと両親が選んでくれたのだ。
「じゃ、いくよ。」
 ペダルを踏み込むと、はじめくんは予想以上に重かった。スピードにのれずにふらつき、自転車ごと横倒しになった。左足で踏ん張ろうとしたが、自転車とはじめくんの重さを支えきれるものではない。ほとんど同時に母が玄関から出てきた。おそらくはじめくんの様子か、わたしがそろそろ帰ってくるかと見にきたところだったろう。
 わたしはアスファルトに左手のひらを強く突き、膝を擦りむいた。振り返るとはじめくんが荷台から放り出され、何が起きたかわからないように泣いていた。頭を打ったんじゃないだろうか。わたしより早く母がはじめくんに寄って、抱き起こした。
「はじめちゃん、どこ打ったの。ここ、こっち?」
 はじめくんの頭をあちこちさすっている。
「あ、ここも擦りむけてる。あれ、ここも。」
 はじめくんもとっさに手を突こうとしたのだろう、左手や足を擦りむいていた。
「びっくりしたねぇ。立てる?」
 母はまだひくひくしているはじめくんを支えて、そっと立ち上がらせようとしている。
「はじめくん、ごめんね。あの・・・」
「あなたはあっち行ってなさい。」
 思ったより重かったから、と言おうとしたが、母にさえぎられ、わたしは黙った。母はまるではじめくんに悪さをしたよその子を見返すように、わたしを見た。わたしはすうっと、背中が冷たくなった。そのあとはほとんど怒られることすらなかった。ただ母に守られているはじめくんに近づいてはいけないような気がしていた。

 金曜日に学校から戻って、わたしは鳩を大きな籠に移す作業にとりかかった。はじめくんに声をかけると、ついてきた。昨日怪我をさせたことについては、彼は何も言わなかった。わたしたちは、ガレージの車の脇に鳩の入った籠を持ってきた。その横におととい借りてきた大きな籠を置いた。鳩は、トウモロコシの粒なんかが混じったえさを少しずつついばむようになっていた。
「おねえちゃんがこっちの籠から鳩を取るから、そいでこっちにこう入れるから、そしたらはじめくんはこうやってふた閉めてね。」
 わたしは、横に切ってふたつに分けたように開いている釣り鐘型の籠のふたを、かぶせるようにして閉める動作をした。
「うん。」
 はじめくんは、わたしの手元をじっと見ている。わたしはしゃがんで、鳩をのぞきこんだ。のどを動かして規則正しく呼吸をしながら身動きはしない。わたしはふたを開け、上から両手ですばやく同時にややおそるおそる鳩をつかんだ。怪我をしているのだから、あまりぎゅうと持つわけにはいかない。持ち上げると鳩は、勢いよく羽をばたつかせ、その脚先はわたしの手のひらをかいた。わたしの手は否応なしに開いてしまった。鳩はガレージの鉄柵など眼に入らぬかのように越え、琥珀(こはく)色になりかけた空へとはばたいていった。
「あぁ。」
 見上げるわたしとはじめくんの口から、微(かす)かに声が洩れた。
 父が帰ってくると、わたしとはじめくんは鳩が飛んでいってしまったことを話した。
「怪我が治っていたっていうことなんだから、まぁ、良かったじゃないか。」と父は言った。
 その夜ベッドに入ってから、わたしは昨年拾った子すずめのことを思い返した。朝バス停に行く途中に、道路脇の街路樹の下にすずめの雛が落ちているのを見つけた。もう親のような色の毛が生えつつあるくらいには、育っていた。
 わたしはファスナーの付いた手さげ鞄の中身をすべて、ランドセルと布製鞄に移した。そして、底にちり紙を敷き、しゃがんで雛を手のひらにとった。冷えはじめていた空気の中で、子すずめは小さなあたたかさで、ゆっくり嘴(くちばし)を開いたり閉じたりした。わたしは、鞄の中に子すずめを置き、ファスナーを全部は閉めずにおいた。
 学校で給食のとき、パンを少し教室に持って上がった。給食は全校生徒が地下の給食室で食べていた。机の脇に掛けてある鞄をのぞくと、子すずめは閉じていた眼を開いて、また閉じた。わたしはパンを小さくちぎって、その横に散らして置いた。うちへ帰って鞄を開くと子すずめは死んでいた、ちょっとだけ糞をして。
 親すずめと引き離し、あちらこちらへ連れ持ったわたしが殺してしまったのだ。でも、まだわたしはそうは考えられなかった。“はじめくんの鳩は、怪我が治って高いところへ飛んでいった。わたしが拾った子すずめは細い脚を固くして死んじゃって、庭の隅の土の中に埋まってる。”蛍光灯のスモールランプだけが点けられたうすぐらさの中で、わたしは目を見開いて天井のしみを凝視した。

 土曜日は給食がない。わたしは遊ばないで、うちに帰った。お昼を食べると、自転車で南のほうへ漕ぎ出した。お茶屋さん、角のたばこ屋さんを過ぎて、立正通りを渡る。そしてゆるやかな坂を下っていくと善福寺川に出る。川沿いの遊歩道は自転車を降りて引き、木陰に留めた。
 手摺りにもたれて川面をのぞくと、汗がひくようだった。夏場に減った水かさが先週の台風で、ほぼ元に戻っていた。絶えず流れているはずなのに水は、ずっと同じところにあるかのように見える。背後のベンチに腰かけようとして見ると、左側に擦り切れたジーンズを履いてくしゃっとした長髪に眼鏡をかけた男の人が座って、煙草を吸っていた。その顔を見て、あれっと思った。
「お兄さん、阿佐ヶ谷の金魚屋さんにいるでしょ。」
 わたしと同じ様に川面をながめていた男の人は、はっとしたように顔をわたしのほうへ向けた。
「う、うん・・・。」
「ときどき金魚のえさとか買いに行くから、みんなでピーターパンに行った帰りとか。」
 わたしは、彼の右側の空いたところに腰をおろした。「ピーターパン」は阿佐ヶ谷の商店街にあるパン屋さんで二階で洋食が食べられるようになっていた。男の人は吸っていた煙草を靴底で消して立ち上がり、吸い殻を数メートル先の手摺りにくくりつけられた空き缶に捨てにいった。そして、戻ってきた。
「わかっていると思うけど、金魚だけじゃなくて他にもいろんなものがあるんだよ。小鳥、インコとか、もっと大きな鳥もいるよ、鸚鵡(おうむ)や九官鳥。小鳥がいちばん多いかなぁ。植木も置いている、盆栽とか。ぼくは動物が好きだから、あの店でアルバイトしているんだ。」
「ふぅーん。」
 日が西に傾き始めていた。
「きみ、ひとりでどうしたの。」
「あ、おつかい、たのまれて。」
 わたしはとっさに、うそを言った。自分でも、どうしてここに来たのか、よくわかっていなかった。
「あの、何だかわたしばっかり、へんになっちゃう・・・みたい。」
「ぼくもだ。」
「えっ。」
 わたしは彼の顔を見た。彼の視線は水の上にただよっている。
「あそこでアルバイトしてるのも、自分の生活費ぐらい何とかしなくちゃと思ったからだよ。ぼく大学の四年なんだけど、卒業できそうもないんだ。留年するか、もうこのまま中退しちゃおうかな、なんて・・・あ、途中で辞めちゃうっていうこと。」
 彼は弱々しい表情をわたしに向けた。
「うん。」
「大学にもあんまり行ってないんだ。親に学費出してもらってるのに。」
 彼はため息をついた。
「最近おやじともしゃべってない。」
 彼はうつむいた。
「どうして学校に行かないの。先生には何も言われないの。」
「行けば、革マルの連中に何かされそうだし。」もごもごと言った。
「角、まる、何それ。」
「つるまなきゃ、何もできないやつらだよ。」
 彼はにわかに、頭を振り上げた。
「ぼくが大学に入った年の秋に、同級生がやつらにリンチされて死んだんだ。大勢でひとりの人間を、スパイだとかなんとか言って、うんといじめたんだ。なぐったり・・・。」
 わたしが眼を見開いておびえた表情を見せたので、口をつぐんだ。
「ひどいね。かわいそう。」
「ぼくは、そいつらに立ち向かった。みんな、クラスのみんなも一緒になって、仲間が大勢いて、・・・毎日ビラ作ったり、集会したり、革マルの代表者と話し合ってみたこともある。でも、平行線だったけど、・・どっちも言いたいことを言い合って、どうにもならなかったんだ。」
「ふぅーん。」
 わたしは、彼を凝視し続けてはわるいような気がして、川のほうを向いていた。
「そんなことやってるうちに仲間が一人、二人と教室に戻り始めた。いくらビラ配って動き回っても、何もよくならない。もういい加減にして、ちゃんと授業に出ようってさ。でも、ぼくは教室に戻る気になれなかったんだ。そのうちにぼくらはほんの何人かの集まりになっちゃったよ。」
 彼は視線を落として右手でジーンズのポケットをまさぐり、はっとしたようにやめた。
「あ、煙草吸ってもいいんだよ。うちでもパパ吸ってるし。」
 わたしも落ち着きなく、右足を前後にゆすり動かした。
「いいんだよ。」
 彼が初めてすこしほほえみ、銀縁の眼鏡の中で目の両端に小じわが寄った。
「今ではその何人かの仲間うちでもけんかしたりして、何やってんだろうな。あの頃教室へ戻っていった友だちはもうだいぶん就職も決まってて、もうじき卒業していっちゃうよ。今ぼくは考えてるよ、社会ってゆうか世の中の流れみたいなものに、何でぼくはのっていけないんだろうって。ぼくには、まわりの人たちが持っている何か重要なものが、足りないんじゃないかってさ。」
 そして、彼は黙った。急に川の流れる音が、耳に入ってきた。わたしは、はじめくんを自転車から振り落としてしまったことや、はじめくんの鳩は怪我が治って飛び立っていったのにわたしの拾った子すずめは死んでいたことを話してみた。
「荷台に乗せてはしったらおもしろいし、はじめくんも楽しいように思ったの。すずめも餌をあげたりしていれば、だんだん良くなるかと、・・どうして、あんなになっちゃったんだろう。」
 わたしの声はふるえ始めた。彼がわたしのほうへ向き直った気配すら感じとることができなかった。自分が固まってゆくような気がした。
「あ、あのぅね、ぼくにはきみをなぐさめるような言葉はないよ。きみもぼくも何かが欠けているのかもしれない。他の人たちがまあるい満月だとしたら、三日月みたいに。それは自分がどこかにぶつかって、あるいは何かがぶつかってきて欠けてしまったのかもしれない。そんなことですらなくって、自分にはどうすることもできない、意識することすらできない遠いところで何かが失われてしまったのかもしれない。ぼくはみんなと同じようにまるくなれたら楽かなぁって、ここのところ、その欠けた何かを探し回ってたような気がする。でも今きみとこうして話していて思いついたんだけど、ぼくもきみもこのままの形でなんとかやっていく方法があるんじゃないかなぁ。」
 彼はふうっと半分気が抜けたように息をついた。わたしには彼の言っていることが三分の一くらいしか理解できなかった。ただ三日月でもいいじゃないかと思った。理科の宿題で観察した細く欠けていく月が、どこかの物語に出ていたようで楽しげに映ったからだ。すると、彼も言った。
「かなり都合のいい解釈かもしれないけど、何かが欠けているということはその分、まわりとは違う自分としてここにいるっていうことでもあるよね。もちろん人はみんなそうであるはずだけど、とくに、さ。だったら失われたものをあたふたと探し回っているより、このままの形でやっていってみようとおもわない?」
 彼はやや背を丸めるようにして、不安を混じらせた色の瞳でわたしを見下ろした。
「あ、あの、お兄さんの言ってることが、よくわからないの。」
 わたしは情けないような、申しわけないような表情をしていたと思う。小さな犬を散歩させる年配の男性が、わたしたちの前を通り過ぎた。
 彼はのびやかに立ち上がって、背中から手摺りにもたれた。
「そうだよなぁ。」
 彼がほほえみかけてくれたので、つられてわたしも考えなくほほえんだ。
「きみにここで会えて、話したりできてよかったよ。・・・いつか、きみにもそう思ってもらえたらいいんだけどな。」

 後に、わたしは何回か、そう思った。

 その夜、わたしは夢の中でまた、青白い光につつまれ白っぽい着物をまとった、能面のきつねをつけたような男に遭遇した。遠くで阿波踊りの笛や鳴り物の音がする。家族とはぐれてしまったに違いないのだ、こんな薄暗い人気のない路地に入り込んでしまって。
 その頃わたしは、ときおり夢の中でこのきつね面をつけたような男に追われて、明け方に目覚めてしまうともう、おそろしくて再び目が閉じられないようなことがあった。・・・わたしは早足で逃げたが、肩越しにちらと後ろへ目をやると角を曲がってきつね面の男がこちらへ向かってくる。わたしが十字路を左へ曲がってみると先の角から男の姿がのぞいていた。わたしはくるりと向きを変えて、もときた道を走りだした。後ろから男が追ってきて、距離が縮まってくるのを感じる。
 目覚めるべき瞬間だった。しかしそれより前にわたしは立ち止まった。背を向ければ、どこまでも追ってくるに違いないのだ。わたしはふり返った。数メートルのところに青白い人影があった。体中の毛穴が開き、毛が逆立ったような気がした。
「うわぁー。」
 わたしは両腕を振りまわし視線をふらつかせてなるべく前方を直視しないようにしながら、その影へむかって駆けた。ぎゅっと目をつぶってぶつかっていったつもりが何の抵抗もなく擦り抜けてしまった。祭囃子(まつりばやし)が耳に戻ってきた。その路地には人影がなくなっていたけれど、わたしにはどの道を戻ればよいかがわかっていた。歩を進めると、じきに大通りへ出た。
 通りいっぱいに阿波踊りの行列が続いている。高円寺商店街の人たちだ。見物客も道路脇に二重三重に連なっていた。その人波をすり抜けると最前列ではじめくんを肩車した父と、母が踊りを眺めていた。わたしはすうっとその横に立った。

 翌日曜日の午前中、わたしはバスで祖母のところへ行った。母の作った小あじの南蛮漬けを届けるようにことづかっていた。
 青梅街道沿いの「蚕糸(さんし)試験場」の停留所で降りると、じきに祖母の住まいだった。祖母は伯父家族の住む家の隣の建物の二階に、間借りしていた。辿り着くと、祖母は玄関前のわずかな土にこれからの花の苗を植えていた、秋桜、三色スミレ・・・。わたしの足音に顔を上げた。
「あ、聡ちゃん。」
 二階へ上がると窓が大きく開け放たれ、二間の部屋は風通しがよいのでまだ残るむし暑さをあまり感じないで済んだ。磨き込まれた四角いちゃぶ台の上に、漆器に入った鳩の形の落雁(らくがん)とビスケット「マリー」が出された。ひとつふたつ、つまんでみる。祖母が三ツ矢サイダーを開けてくれる。
「聡ちゃん、お昼何かとってあげるから好きなの見て。」
 祖母は近くの蕎麦屋や中華料理屋の品書きを持ってきて、並べた。
「おばあちゃん、やきそば。」
 わたしは中華料理屋、というよりラーメン屋に近かったが、そこのソースやきそばが気に入っていた。
 やきそばを食べながらわたしは、祖母にもはじめくんの鳩の話をした。
「はぁー、怪我が治っていたんだねぇ。はじめちゃんはよく気が付いて、助けてあげたねぇ。」
 祖母はもぐもぐと炒飯(ちゃーはん)を食べる手を休めて、感じ入ったように言う。確かにそうだな、そのときわたしも初めてそう思えた。傷ついた鳩ははじめくんたちに見つけ出されることがなければ、欅(けやき)の森で息絶えていただろう。
 でも傷を治し、今もどこかを飛んでいる。公園かお寺の境内でえさをついばみ、クゥクゥと喉を鳴らしているかもしれない。胸の奥から何かがほわほわと湧いてきて、わたしの四肢をのびのびと広げていくような気がした。
 わたしが帰り支度をしていると、祖母は小さな引き出しの中を探り始めた。わたしはじっと見ていてはまずいような気がして部屋のあちこちに視点を移していった。
「聡ちゃん、少しだけど。」
 四つ折りにした紙幣をちり紙にくるんで、握らせてくれる。
「ママには言わなくていいから。」
 彼女は母方の祖母であった。
「いつもいいよ、おばあちゃん。」
「まぁ、いいから。」
 和室を出た炊事場兼踊り場のようなところで、わたしはさよならを言った。祖母が急な階段をのぼり降りしなくて済むように、ここを訪れる者は皆そうしていた。通りに出て数歩歩いてから振り替えると祖母が窓から身を乗り出している。
「気をつけて。」
 祖母が声を張り上げているらしいのが、耳に届く。わたしは半ば無意識に手を振った。

 あのとき川で会った青年は、見上げるような時計台のある大学を辞めた。そして動物のお医者さんになるために北の国にある大学へ入り直したと、ペットショップの店長さんらしき人に、いつだか聞いた。
 そうしてわたしが今住んでいる坂の多いこの地では、夕日が西の山々の向こう側へ沈んでいくのを見ることができる。

Copyright(c): Yuuko Mori 著作:森 優子

◆「三日月」の感想


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