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漆黒の闇だ――。

そんな最後の記憶から俺を少しずつ引きずり出したのは、母の声だった。
「雅彦、起きなさい。」
だんだんと見えてくる自分の手の輪郭を陽光にかき消されぬよう、俺は何度も瞬きをした。
「父さんは車で待っているからって。
慌てる事はないのにと言ったのだけれどね。」
母は困ったように俺を見た。
「あぁ、もうすぐに行くよ。ところで母さん、飯は?」
迎えに来た母にそう言いかけて苦笑し、車中で待つ父のもとへと急いだ。

今日は父の生家に出かける事になっていた。
去年の八月、お盆に訪ねた時は交通渋滞に巻き込まれ、県境の山村にある家に辿(たど)り着くのにほぼ半日がかりとなった。
「やあ、雅彦。」助手席から父が声をかけてきた。
「ずいぶんと早いお迎えなんで、驚いたよ。」
皮肉を込めた俺の言葉を遮って
「さぁ早速出かけようか。道路が混むといけないからね。」
と応え、ばつが悪そうに目をそらした。

貫禄のある体格には似合わずせっかちな父。対照的にのんびりやの母。
何もかもが一年前と同じだ。
ただ朝寝坊の俺を起こし、寝不足で不機嫌な顔を可笑(おか)しそうに覗き込んだ瑠璃子がいない事を除いては。

「突然押しかけたのでは、お義兄さん達だって驚くでしょうよ。」
「いいじゃないか、毎年行っているんだからむこうだってわかっているよ。」

父の生家は父の兄、つまり俺の伯父が祖父のあとを継いでおり、老夫婦だけで葡萄(ぶどう)園を営んで、細々と暮らしていた。
「この夏は暑かったようだから、葡萄もさぞ甘かろう。」
「美味しいですからねぇ、お義兄さんの葡萄は。」
車中にこんな他愛のない会話を跳ね返す小さな空間があった。
ひとつ空いたシート。
今年もここに座るはずだった瑠璃子がいない。
三人が瑠璃子の事を同様に考えていながら、誰ひとり口にするものはなかった。
瑠璃子は俺の妻だった。
結婚してわずか二年で、もう二度と会えない存在になるとは思いも寄らなかった。

思いのほかスムーズに都会を抜けることができた。しかし久しぶりの長距離運転に、疲労感が押し寄せていた。
高層ビルの風景が山並みに取って代わると、目的地は目前だ。
父は生家に近づくと懐かしさを隠し切れず、子どものように車窓に顔をこすり付けて外を眺めだす。
「父さん、相変わらずだな。」
「峠の蕎麦(そば)屋に行きたいな。今年もあそこで食べよう。」
「お父さん、まずはお義兄さんのところへ寄って、ひと休みしてからにしましょう。
 この前は道が混んだ上にお蕎麦屋さんなんぞに行ったりしたから、おうちに向かうのがすっかり遅くなってしまったんですよ。第一あそこは遠回りですよ。」
「うん、おじさんの家は峠の手前なんだからさ。
 通り過ぎて暫く登らなきゃならないし、九十九折(つづらおり)が結構きついよ。」
「・・・そうだったな。
 去年は喰っていたら日が暮れかかってしまって慌てたんだっけ・・・。」
父は渋々蕎麦を諦めた。

伯父の家の広い敷地内に車を滑り込ませるとすぐに俺達は下車し、田舎の澄んだ空気の中を奥の静かな佇(たたず)まいの母屋へと向かった。
玄関には鍵がかかっていた。
引き戸は少し歪んでいて風を通す隙間があった。閉まっている事を知りながら、それでも引こうとすると戸はカタカタと音を立てた。
「おじさん。」俺は声をかけてみた。
後ろから父が、「庭へ回わってみるか」と言った。

庭には、老夫婦には手入れしきれないとみえて少々荒れてはいたが、鮮やかな夏の花が彩りを添えていた。
縁側を覆う雨戸は引いておらず、座敷との境はガラス戸なので中の様子が良く見えた。
あいにく伯父夫婦は留守のようだった。
俺達は縁側に腰をおろした。
「やっぱり突然じゃ悪かったんじゃないの?」母は疲れた様子だ。
俺は縁側に上がって、部屋の奥を覗いた。十畳間の奥に、六畳の居間がある。
「誰かお客さんが来ていたようだね。湯飲みが三つテーブルに置いてあるよ。」
「じゃ、そのお客さんを駅まで送って行ったんだろう。夕方までには時間がある。
 峠まで行ってみんかね。蕎麦は喰わんでも景色を眺めるのも良かろう。」
父に促され、俺達は再び車に乗り込んだ。

ヘアピンカーブをいくつもかわしながら、俺は峠を目指した。
(瑠璃子はよく車酔いをしたっけ)
俺はまた瑠璃子の事を考えていた。いや、この一年、彼女を忘れた事など一度も無かった。
去年は蕎麦屋に着くと安心して涙さえ浮かべた。
しかし、
「よかったわ。これ以上乗ったら、気持ちが悪くてせっかくのお蕎麦を食べ損なっちゃうところだった。」
そう言ってすぐに笑顔になった。
俺の好きなひまわりの花のような瑠璃子の明るい笑顔に、俺達はどれ程癒されたことだろう。
瑠璃子は優しい女だった。
瑠璃ちゃんが来てから無愛想なお父さんが良く笑うようになったわと、母は目を細めて語ったものだ。

峠のあたりはかなりガスっていた。
去年は盛況だった蕎麦屋が今年はひっそりと静まり返っていた。
どうも閉店してしまったらしい。
暖簾(のれん)や幟(のぼり)のない建物は、靄(もや)の中で眠る山小屋のようだった。

「なんだか淋しいですね。」
「そうだな。まぁ、この村も過疎ってことか。」

そういえば蕎麦屋の駐車場だと思って車を止めたところは単なる空地で、夏草が無造作に生い茂っている。
風景を楽しむ心の余裕が無くなったのか、母が悲しげに言った。
「若い人が少ないっていうのは心細いものよね。お義兄さんたちも子どもがいないから淋しいでしょうよ。
 笑い声が・・・聞きたいですね・・・瑠璃ちゃんの。」
俺も父も、同じ思いだった。しかし、頷くこともなく父は「戻るか。」と言った。

去年は日が落ちる前にと急いだ下り坂も、今日はゆっくりと噛み締めるように降りる。
山肌の茶色い帯をこんなに息苦しく意識したことは今まで無かったことだ。
だんだんと、俺は不思議な感覚に陥っていた。
茶色い帯の流れはいつしか俺が下る速度を超え、遥かに速く追い越していった。
そしてそれはやがて映写機のフィルムとなり、風景が、父や母の顔が、そればかりではない――日常の全てのシーンがひとコマずつに分断され、リールに無抵抗に巻き取られていく。
軽い眩暈(めまい)に目を閉じかけた時、低く、父の声が響いた。

「あぁ・・・雅彦、そこだ、次のカーブだよ・・・そのカーブを、お前は、曲がりきれなかったんだ――」

そうだった。去年のあの日、そのカーブを曲がろうとして、俺はハンドル操作を誤ったのだ。

一瞬の出来事だった。
巻き取られる寸前の最後のひとコマは去年の記憶の画像だった。
蘇ったその画像を凝視した時、俺の視界に、突き破ったガードレールといっしょにオレンジ色の服を着た女の姿が飛び込んできた。

瑠璃子? 瑠璃子なのか――うつむいていたその女は静かに顔を上げ、潤んだ大きな瞳でこちらをじっと見据えた。瑠璃子に間違いない! 俺はたまらず大声をあげた。

るりこ――!

しかし、空へと移ったその美しい視線の後を追ったのを最後に、俺の意識は滲むように夏の大気に同化していった。

俺達はまた散々になってしまった。もう父と母の意識を感じる事はできない。
ひとり瑠璃子の瞳を追って暫(しば)し彷徨(さまよ)い、再びそのカーブへと戻った俺は、今度は俯瞰(ふかん)で、伯父夫婦と瑠璃子の姿を捉えた。

「瑠璃子ちゃん、そろそろ汽車の時間じゃから、行くでね。」
「はい、連れてきていただいてありがとうございました。」
「いやぁ、ここに来たんでは辛かろうと思ったが・・・。」
「いえ・・・この場所へ来るためにもこちらへお邪魔したのですから。
 一年経って私もやっとここへ来る勇気が出ました。」
「あれからもう一年も経ったなんて、信じられないわねぇ。」
「あんたも大怪我して、ひとりになってしもうて・・・。
 そんでも、またわしらんところを訪ねてくれて、嬉しかったよ。
 しかしなぁ。ここんカーブは確かにきついが、なんだってこんな所で・・・。」
「おじさま、もう、そのことは・・・。」
「あぁそうさな、悪かったな、瑠璃子ちゃん。」
 
瑠璃子はすっかり補修されたガードレールを白い指先で辿り、その下に、ひまわりの花束を置いた。
そして、決して振り返ることなく、先方に停めた伯父の車へと足を早めた。

見送る俺は、彼女の髪に触れたい衝動に駆られ、そっと風を起こした。
顔にかかった髪を掻きあげた瑠璃子の指の隙間から、夏の花の香りがした。


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◆「夏の花」の感想

*正田理加さんは、「Welcome to Q's Bar」(友達リンク)という個人サイトを運営されています。
*タイトルバックに、ゆん Photo Gallery の素材を使用させていただきました。


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