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1

 秋も終わりに近い。風は私にほんのりとした冷気を伝えると、その役目を終えて通り過ぎていった。十一月頃に冬眠に入るシマリス達も、みんなそろそろ冬支度を始めるのだろう。けど、中には長い冬を乗り切れず眠ったまま死んでいく者もいるという。
 私は後ろ手を組みながらゆっくりと並木道を歩いていた。点々と並ぶ木々の下。積もり積もった落ち葉がいつか土へと還るその日をただひたすら待っている。私の通う大学はもう直ぐそこ。

「サトコ」
 ――このペンシルケース、だいぶ古ぼけてきたな。元は透明色だったのにすっかり汚れて薄っすら曇っちゃってる。しかもなんだかよく判らない小さな傷もいっぱい。私は頬杖をつき、くるくるとシャーペンを手のひらの上で回しながら考えていた。私の視線はペンシルケースの中の辛うじて透けて見える安っぽい消しゴム。頭がまん丸で青くて四角い服を着たそれは、どこまでも普通。
「サトコってば」
「へっ?」
 声のするほうに首を回すと由香里の顔があった。シャーペンがどこかへ飛んでいく。カタタン、と静かな構内に硬い音が響き、高いところから、低いところから、たくさんの視線が私に集まる。――あひゃひゃ‥、やっちゃった。私は首をすくめた。由香里はそっぽを向いている。

 私の弁当の中の〈ただ一点〉を由香里の両目が凝視している。‥凝視しながら器用に自分の弁当も食べている。私はなるべくその〈ただ一点〉を避けるようにして理不尽な思いでごはんを食べていた。どうにもこらえ切れない、私は言った。
「欲しいの?」
「うんっ」
 即行で返ってきたその返事。でも、その両目を見るとやっぱり〈ただ一点〉を凝視している。私は「しょうがないなぁ」と言いながらキンピラゴボウを箸で掴もうとした。その途端「サト‥?」という声が聞こえ、はっと由香里の両目を見ると、今度は〈ただ一点〉ではなく私の両目を凝視していた。キンピラゴボウは私の嫌いなもの。由香里も好きではない。少しの間、長い沈黙が訪れた。私達はじっと見つめあい、目でじゃんけんを続ける。なんとなく私が折れ、仕方なく〈鶏のから揚げ〉を由香里に差し出した。
「さっすがサトコ、太っ腹だよねん」などと言いながらさっそく由香里は〈鶏のから揚げ〉を美味しそうにほお張る。よだれが垂れてくるのでは‥と彼女の口元を観察したが、垂れてこなかった。
「太っ腹って言われても、あんまり嬉しくないんですけど」
 それからは二人とも黙々と残りのごはんや惣菜を平らげることに時間を費やした。私よりも少しだけ食べるのが早い由香里は、自分の弁当を平らげ終えると、さっさとそれを片付けてすっと立ち上がり一言だけ残す。
「サトっ、うまく言えんけどね、アタシはあんたの味方だからっ。じゃあね」
 あと少し、あと少しで平らげられる。私はクライマックスの為に温存しておいた偽者のタコを食しながらまだ弁当の端っこを突付いていた。由香里の去ってゆく足音が聞こえる。――どこを見て言ったのかな、由香里は。私かな? 空かな? それともどこか別の遠く?


2

 もう逢えないなんて思わなかった――あのときは。あのとき普通に別れて、それきり二度と逢うことがないなんて、そんなことは全く考えなかった。軽く手を上げて、はにかむ笑顔を見せて、じゃ、と言った晃。その晃が毎日続くのだと、いつまでも続くのだと、勝手に思っていた。だけど次の日の晃は、手を上げることも、はにかみ笑うことも、じゃ、と言ってくれることもなかった。ただただ、晃は居ないだけだった。

 大学の帰り道。私はぷらぷらとバッグを振り回しておもちゃにしながら家路を辿っていた。――おかしいなぁ、今日は休むなんて一言も言ってなかったのに。あいつ私をすっぽかすなんて明日なんて言ってやろう、別に約束してたわけじゃないけどさ……何やら頬がふくふくとするのは何でかな。
 玄関の扉を開けると、父が立っていた。父は物書きなので家に居るのはいつものことだが、いきなり出迎えられたのはこれが始めてかもしれない。だけどそのときの父の様相は、出迎えるといったものからは全く掛け離れていた。
「里子。‥晃君が、死んだ」
 父は私の目とその向こう、なんにもない私の後ろの空気を見つめてそう言った。

 晃は交通事故で死んだ。詳しくないけど、交通事故で死ぬ人はかなり多いのだという。晃もその内の一人となったのだ。激しく車の飛び交う大きな国道車線。信号待ちをしていた晃はそこに突然飛び出し、当たり前のように乗用車に轢かれた。晃はなぜ突然、車道に飛び出したのか。‥単に講義に遅れそうで通りを見誤っただけらしい。ただ、ただそれだけの理由で、晃は逝ってしまった――。
 事前には知ることはなかったが葬儀の参列には由香里も混じっていた。私は晃の死顔を見ても晃が死んだのだという実感が湧かなかったが、由香里はその大きな両目からぽろぽろと涙を流して絶えず嗚咽を繰り返していた。その姿をいくら眺めていても私の目からは何一つ流れてこなかった。ただ、由香里を見たり、晃の遺影を見たり、周りを見たりしていた。そして私の感情には何の起伏も無いままいつのまにか葬儀は終わった。家に帰宅した私は、なんとなく携帯から晃のメモリーを削除し、そして直ぐ布団にもぐって、寝た。翌朝目覚めると、まくらがぐっしょり濡れていた。変な格好でおねしょでもしたのかと、ぼんやりとした頭で困惑したが、鏡に映る自分の顔を見て私の涙に依るものなのだとやっと悟った。それから今まで泣いた記憶は一切ない。

3

 晃は男友達。ボーイフレンドと言ったらちょっと語弊がありそう。あいつは魅力的なやつだけど、それは男性的な魅力なのか、と聞かれたら誰もがノーと答える。誰もがいいヤツだと言う。だけどモテナイ。そんなやつ。私もあいつが好きだった。ヒトとして。

 高校三年の夏休み。私は涼みついでに勉強をするために学校近くの大きな図書館へと足を運んだ。この図書館は広々とした構内にテーブルや椅子が余裕を持って配置され、あらゆる参考書や資料が細かなジャンル毎にしっかりと整理されている。たくさんの学生や一般衆に利用されている割に本棚の秩序が保たれているのは管理が行き届いているせいだろう。もちろん私の学校の生徒はこの図書館をよく利用するし、隣町の学生がやって来ることも珍しくない。時間帯によっては座れないほど混むこともあるけど、その日はお昼時に近いということもあって人の姿はまばらだった。
「よう、サト公」
 歴史関係の本棚を物色していると後ろのほうから晃の声がした。声の距離から考えると、たぶんいつものようにテーブルで本を読んでるんだ。私はその声をしばらく無視して物色を続ける。
「サト公はやめてね」
 そう言いながら私は資料を机に乗せ、晃の隣りに座る。晃は「うん」と本を見ながら言ったが、それが空返事であることは判っている。つまり無意味なことを私は知っていた。もうこれが何回目なのか数え疲れたから‥。
 私達はあまり〈男女〉という意識は無かった。いつも隣りに居る、いつも隣りに行く。とくに一緒に行動したり遊んだりするわけでもなく、ただいつのまにかお互い隣りに居るのだった。でも友達という表現は当てはまらないように思う。‥くされ縁が一番近いけど、やっぱりそれも違う気がする。互いの間には神聖な何かがあり、くされなどという言葉は不相応なのだ。とは言うものの、神聖な何かが何なのかはちょっとよく判らない。
 晃はノートというものをほとんど広げないやつだった。授業中は広げはするが何も書き込まない。じゃあどうやって勉強しているのかと言うと、片腕で頬杖をつき、もう一方の手で教科書を漫画のように広げてペラペラとめくっているのだった。例によって今日も、ただそうしていた。たまに教科書ではなく、ほんとに漫画が手に乗っていることもある。ちゃんと確認しないと勉強しているのか休憩しているのか判らないのだが、今日のところはしっかり教科書を手にしているようだ。よしよし。ちなみに図書館の資料はあまり利用しない。これで私の成績と大差ないのだから羨ましい‥‥。
 十五分くらいだろうか。私達は黙って、私はカキカキ、晃はペラペラという自分なりの方法で勉学を続けていた。そのとき、静かな図書館に似つかわしくない、何やら粗野な声が入り口のほうから聞こえてきた。
「むっかつくよな、絶対あの台インチキ仕込んでるぜっ」
「でも次、金どうするよ。もう俺あてがないぜ」
「そんなん‥」
 不自然に声が止んだ、と思ったら私達の隣りのテーブルに誰かが腰掛けてきた。ちらっと目の端に見えた学生服のズボン。あの色は隣町の高校のものだったかな‥。冷やかしてくるのかと思ったが、何も言ってこない。じっとこっちを観察している様子。ふつふつと冷や汗が滲み出る感じがした。――晃はどうしてるだろう。晃の方が私よりあいつらに近い位置にいる。首を動かさないように、目だけ動かして晃の様子を窺う。晃は別段さっきと何も変わらない様子で教科書をめくっている。五分くらい――いやそんなには経ってないだろう。しびれを切らしたのか、突然あいつらが何か喋り出してきた。
「でっさぁー。ペリーってほら、何だっけ? ペリー」
「‥ああ、ペリーね。古いシールって剥がすとき大変だろ。ぺりぺりって」
 あいつらは二人だけで爆笑。そして晃が動いた。私のほうを向き、一言。
「出ようか」
「あっ、うん」
 唐突な晃の言葉に、慌てて私は本棚から持ち出していた資料を元に戻そうとする。椅子も引かずに立ち上がろうとし、テーブルの裏に太ももをぶつけた。資料を閉じるとき、ばしっと自分の手を挟んでしまった。椅子をテーブルの下に押し戻すときも資料を本棚に入れるときも、私はよほど変な動きをしていたのかもしれない。あいつらの一人が「あの女、ビョーキか?」と言い、もう一人がまたケタケタと大笑いしていた。晃はその間テーブルの傍に立っていて私が資料を片付け終えるのをじっと待っているみたいだった。そしてその場をさっさと後にする私達にあいつらの声が追いかけてくる。
「いちゃいちゃしてる暇あんのか、てめーら」
 その声には苛立ちがはっきりと表れていた。あいつら自身は追いかけては来ない。
 何も言わず、しごく自然に私の前をゆく晃の背中が少し大きく見えて、なぜか少し晃に男を感じた。十年ほど晃を見てきたが、それは初めてのことだった。二度目は無かったけど――。


4

 冬が始まろうとしている。平日の午後。大学を休んだ私は自室の机で何気なく教科書やノートを広げ、頬杖をついていた。私の視線は難解極まる数学の問題――ではなく、部屋の暖気でぼんやりと曇った窓に向けられていた。家の脇道を数人の子供達がお互いの体をぶつけ合い、体を弾ませながらにぎやかに帰路に着いている。体に似合わない大きなランドセルを肩に揺らし、体に似合わない大きさのマフラーを首に巻いている。――そういえば、あの頃すっごく体の小さかった晃も、ばかでかく見えるグリーンのマフラーを巻いてたな。なんだかそれが気になって、そのマフラーで首を締めてやったこともあったっけ。ふいに可笑しくなり、次いで、ふいに寂しくなった。昨年の冬も、一昨年の冬も、その前の冬も、ずっと晃は私に冬を乗り切る力を与えてくれていたんだ‥。晃の灯す火は、ずっと私を暖め続けていてくれたんだ‥。これからは晃の居ない冬が始まる。毎年毎年やってくる。私はそれを乗り切っていけるのだろうか。
「里子」
 ドアの奥から母の声がした。
「なあに?」
「これ、晃君のお母さんが」
 晃……。
 ドアを開け、母の手元を見ると、アルミ製のペンシルケースがあった。
「里子に貰って欲しいんですって。晃君、大事にしてたらしくて‥」
 そういうと母は私にそれを手渡し、階段を降りていった。
 晃のペンシルケース? アルミ製の‥。そういえば晃のペンシルケースといえばこれしか見たことがない。一体いつから使っているんだろう? うろ覚えだけど、小学生の晃の机にもこれがあったような気がする‥‥。この汚れ方、傷つき方は私のペンシルケースの比じゃない。
 私はドアを閉めてベッドに腰掛けると、少しずつ少しずつ力を入れ、ペンシルケースを開いてみた。なんだろう、胸が熱くなる気がした。ヴァレンタインチョコを貰った男の子って、きっとこんな気持ちなんだろうな。パカッという音がした一瞬、私の脳裏に〈宝物〉という言葉が浮かんだ。中は区分けされておらず、安物のシャーペンやボールペンが雑然と収められている。その片隅にピンクのような色をした小さな塊を発見した。ところどころ黒ずんではいるが間違いなくピンク色のようだ。手にとってみると、それはウサギの形をした消しゴムだということが判った。いつだったか‥確か小学生の頃、私が晃にあげたものだ。お小遣いを貯めて買った十二匹のウサギ消しゴムセット。様々な表情やポーズをしたそれは、消しゴムとは名ばかりのマスコットキャラクターだった。こんな不出来な消しゴムを使ったらノートは真っ黒になってしまうだろう。買ってしばらくは机の上に並べて喜んでいたのだが、そのうち飽きて引き出しの奥に放り込んでしまったのだ。そのとき気まぐれで一匹だけ晃にあげた。それがいま手にしている、このウサギだった。
 ――どうしてかな、どうして晃は使いもしないこの消しゴムをずっと持っててくれたんだろう。
 私はそれを、強く、けれど優しく胸に抱きしめた。きっと、この消しゴムには晃の想いがある。明日からはこの消しゴムを私のペンシルケースに入れて持って行こう。‥‥でも、そんな風にしてこの消しゴムに、晃の想いに寄りかかって生きようとする私は、少し弱い生き物かもしれない。弱いかもしれないけど‥、でもそれで構わないんじゃないかな。それが必要なんだと、自然に思う。だからいつか、たとえこの消しゴムを無くしてしまったとしても、私はいつまでも変わらずこの胸に、晃の想いを、灯し続ける。

Copyright(c): pps 著作:pps

*ppsさんは、猫の写 真をモチーフにした「ねこまんが」というユニークなサイトを運営されています。
*タイトルバックに、「しののめ」の素材を使用させていただきました。


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