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10月17日は、中里奈央さんの一周忌です。


 ペン先がすり減ってもう書けないのに、どうしても捨てられない太い万年筆の手触り。
 いつもより砂糖を多めに入れた紅茶の味。
 夕暮れの雑踏の中で、ふと感じる香水の匂い。
 路地裏のごみ置き場をあさっている、痩せた野良猫の鋭い目の色。
 古い置時計の規則正しい秒針の音……。
 そんな、ごく平凡で日常的なものに触れた瞬間、不意に昔の記憶がよみがえることがある。
 たとえば、幼稚園の砂場。
 砂は私の靴の下で、両手の中で、私の形と動きのとおりに姿を変えながら、ぴたりと密着してきた。まるで私という小さな存在が、地球に刻み込まれるのにふさわしいかどうか調べるように……。
 私の手の中では、砂の塊が大きくなりつつあった。私の目には、それは立派なお城だった。砂を高く積み上げてから窓を作れば、もう完成のはずだった。プラスチックの小さなバケツに入れた水で手を濡らしながら、砂を固めていった。
 そのバケツとシャベルのセットが不意に目の前から消えたのは、妹のせいだ。
 幼稚園がつまらなくて、毎朝行きたくなくて、でも行きたくないとは言えずに、一つ違いの妹の手を引きながら通っていた幼稚園の、その私の憂鬱の理由は妹だった。
 幼稚園には備品がたくさんある。プラスチックのバケツとシャベルなんて、ほかにいくらでもあった。でも、妹はいつも私がそのとき持っているものを欲しがった。私が使っている道具、見ている絵本、遊んでもらっている先生……。
 私のものを横取りするためなら、泣いたり暴れたり甘えたり、どんなことでもする妹に、決して勝つことはできなかった。
 「お姉さんでしょう」「いい子ね」と言われながら、私はいつも平気なふりをし、何も言わずに一人遊びを続けた。
 たとえば、小学校の入学式。
 姉のお古の紺色のスーツは、肩のあたりがきつくて重かった。式の間中、着慣れない、堅苦しい、おまけに窮屈なスーツが気になり、学校という場所そのものさえ嫌いになってしまうほど気分が悪かったのに、私は、私が行儀良くしているかどうか監視する母の視線を後ろから感じ、身動きすることもできなかった。
 我慢すること、良い子にしていることが習慣になってしまっていたのだ。
 一年後、妹は入学式のためにワイン色のワンピースを新調してもらった。白いサテンのヨークの部分には細いリボンが揺れ、スカートにはたっぷりとギャザーが寄せられていた。
 タンスにしまってあった姉と私の着たスーツを母に試着させられたとき、サイズはちょうど良かったし、色白の妹にはよく似合っていたのに、妹は、紺色は嫌だと泣きわめいたのだ。
 私はいつも姉のお古を着せられていた。
「上等なものは、やっぱり違うわ。何年たってもどこもなんともないもの」
 それが、姉のものを私に回すときの母の口癖だった。
 しかし、子供には品質など関係なかった。十歳近く違う姉が着た洋服はどこか昔くさく流行遅れで、私は自分だけが皆から浮いているような気がし、たとえ安物かもしれなくても、アニメの人気キャラクター物を身につけているほかの子供たちがうらやましかった。それに、後になって思えば、それらのものは、決して上等と言えるような品物ではなかった。
 しかし、妹はたいていの場合、新しいものを買ってもらうことができた。二人も着た洋服では傷みがひどくて、これ以上は着られないというのが母の言い訳だったが、本当の理由は、妹がお古では承知しないからだった。
 おとなしく我慢する子は損をする。大騒ぎしてわがままを言う方が得なのだ。そういうことが解ってくると、私もたまには聞き分けのないことを恐る恐る言ってみることもあったが、しかし、妹には甘い両親が私には厳しかったし、私自身が、両親の怒りや困惑や失望に、それがどんなに些細なものであっても、耐えることができなかった。
 私は結局、良い子でいたかったのだ。子供なのに子供としてではなく、大人として生きていた。可愛がられる側ではなくいたわる側、心配をかける側ではなく相手に尽くす側として……。
 古い置時計の規則正しい秒針の音が、そんな普段は思い出しもしない些細な記憶の海に、私を沈める。
 どんなに嫌なことがあっても、いつもと同じ平気な顔で自分の怒りや悲しみを抑え込み、なんでもないふうを装って一人で我慢してきた自分自身が歯がゆくてたまらない。もっと子供らしく自分勝手に、感情の全てを発散させながら、素直に生きてみたかった。
 昔からそう思っていたのに、思うだけで行動に移せない自分、すぐに良い人になってしまうふがいない自分を壊し始める、今日がその記念すべき最初の日になった。
 以前から場所だけは知っていた十畳ほどのワンルームマンションに、今日は勝手に入り込んでいる。
 黒いパイプのベッドや小さな冷蔵庫、スチールの本棚などが、まるで学生の部屋のようだ。窓ガラスは光っているし、フローリングの床にはほこりもなく、部分的に敷かれたラグには髪の毛一本落ちていない。この部屋をこんなふうにきれいに保つのに精一杯だから、妹は自分の家では全然家事を手伝わないのだろうか。
 他人同然の人間の部屋に、誰にも知られずにこっそり入り込んでいる自分が、何だか信じられない。
 ベッドサイドの棚にある古い置時計の針が、激しく脈打つ私の心臓の音に負けない強さで、一秒一秒を刻んでいる。今までの私、勇気のなかった私を嘲笑するように。そして、ここに来てまで、まだ良い子の殻を脱ぎ捨てることをためらっている私を挑発するように。そしてまた、とうとう最初の一歩を踏み出してしまったことを後悔させようとするかのように……。
 妹に聞かされていたから、その時計はすぐに解った。
 丸い文字盤を取り囲むように、何本もの蔦が複雑に絡み合った模様になっているそのずっしりと重い時計を持ち上げて、後ろにある大きなネジをしっかりといっぱいに巻いたのは、ほんの数分ほど前のことだ。
 そのネジの一巻き一巻きが、私を自由な私へと解放してくれたはずなのに、取り返しの付かない罪を犯してしまったような不安と後悔と恐怖とに捕われ、そんな自分が情けなくて、私は身動きもできずにいる。そして、これでいいのだ、これでもまだ足りないくらいなのだと、自分自身に言い聞かせながら、弱い心を納得させるために、わざとつらい記憶を反芻している。
 
 もう十五年以上も昔、私が小学校の二年か三年の頃のことだ。その記憶は、私が家に帰ってきたところから突然に始まる。
 自分がどこへ行っていたのか、どんな服装だったのかは覚えていない。ただ、何か嬉しいことがあって、それを早く母に伝えようと急いでいたことは確かだ。
 いつも母のいる居間へ行くと、で窓の下の収納戸棚とベージュ色のソファーの間に、花柄のタオルケットをかけた妹が寝ていた。
 妹はその場所が好きで、お人形遊びをするときも宿題をするときも、よく、そこに敷いてあるラグの上にぺたんとお尻をつき、自分の周りをそのときそのときに必要なもの、人形の家や小さな家具、レースやリボンのついたたくさんの可愛らしいドレス、又は教科書や鉛筆などで取り囲み、驚くほどの熱心さでいつまでも飽きずに遊びや勉強を続けるのだった。
 日中は外にいることの多かった私と違って、妹はいつも家の中でそうやって一人で遊んでいた。
 私も本当は母のそばにいたかったのだが、仲の良い母と妹の間では、自分の居場所がないような寂しさを感じることが多く、それから逃れるために、昼間はいつも外にいた。しかし、だからと言って、私が大勢の友達と活発に遊んでいたわけではない。子供らしさのなかった私は、ほかの同年代の子供たちにはなじむことができずに、私の遊ぶ場所は、学校のグランドの周りにある草むらや、高い塀に囲まれた古い空き家の鬱蒼とした庭だった。
 その日も私は、そんな自分だけの秘密の場所で、鳥の声を聞いたり、アリの後を追ったり、野良猫と遊んだりしていたのだろう。そして、母に聞いてもらわずにはいられないような、何か楽しい発見でもしたのに違いない。大急ぎで戻ってきたのだった。
 妹は、お気に入りの場所で遊ぶか勉強するかしているうちに、疲れて眠ってしまったのだろう。何をしていたのか、その日の妹の周りには人形のセットも細々したアクセサリーも、色鉛筆やノートも何もなかった。
 一歳しか違わないのに、私はいつも妹に対して、年の離れた姉と同じように寛大に、辛抱強く振舞うことを要求されていた。
 一人っ子としての期間が長かった姉は十分に可愛がられて子供時代を卒業し、順調に大人への階段を上りつつあったから、私や妹にとっては別の世界の住人、子供ではなく、父や母の側に属する存在だった。
 私にとっては、家の中で子供は私と妹の二人のみであり、そのうち愛される権利があるのは妹だけだった。わがままを言って泣いたり怒ったりしても、妹だけは許された。母は私の母ではなく、いつも妹一人の母だった。でも妹が眠っている今なら、母と私を隔てるものは何もないはずだった。
 居間から続くダイニングの奥にあるキッチンで、母が水仕事をする気配がしていた。何かを煮ているような醤油のいい匂いも漂っていた。
 私は妹の足元をまたいで、そちらの方へ行こうとした。タオルケットの下に妹の輪郭が柔らかく浮き出していた。体の左側を下にし、両手を顔の前で重ねるようにして、妹はうっすらと微笑を浮かべて眠っていた。
 病気がちのためか、甘やかされているせいか、いつも実際の年よりも幼く見られる妹の顔は、透き通るように白くて可愛らしかった。
 その体を踏まないように、タオルケットの端の方を歩こうと、私は勢いをつけた足を大きく踏み出した。そのとたん、何か弾力のある柔らかなものが足の裏に当たった。
 動物のぬいぐるみ、よくゆでた卵、ぎっしりと中身の詰まったミートパイ……。頭の中を色々なものが駆け抜けた。
 あわてて避けようとしたが、空間をすっかり移動してしまっていた体重を引き戻すことはできずに、私はそのまま、その何か解らないものの上に片足で上がってしまった。
 ぞっとするような異様な感触、二度と取り返しの付かないことをしてしまったのだとはっきりと思い知らされるような絶望的な感触が、足の裏から頭まで突き抜けた。
 次の瞬間にはよろけながら飛び退いていたが、自分の足が何か小さくて温かなものを踏み潰してしまったことを感じた。何の音もしなかったが、それは確かにぐしゃりという感覚だった。
 反射的にその塊があった辺りに目を凝らすと、タオルケットがゆっくりと小さく盛り上がった。そして震えるように動き始めた。
 見たくない、視線をそらしたい、早くこの場から逃げ出したい、そう思っても、恐怖のあまり、身動きすることさえできなかった。
 目を覚ました妹は、私の表情を見て一瞬にして全てを悟ったのか、すごい勢いでタオルケットを捲り上げた。
 妹の足元にいたのは、生まれたばかりのように小さな、本当に小さな鳥だった。ところどころに薄い茶色の混ざった白い毛はまだ産毛のように短くて、頭の上にだけ飾りのように不ぞろいな長い毛が生えていた。
 そのヒナは、奇妙にゆがんでしまった体で何とかバランスを取ろうとするかのように、小さな羽根を片方だけ広げて、ほんの数歩よろよろと歩いたが、すぐに力尽きて倒れ、震えながら目を閉じ、動かなくなってしまった。茫然とした表情でそっとヒナを抱き上げ、何か呼びかけながらその小さな体をさすっていた妹が、突然悲鳴を上げ始めた。ヒナを囲むようにした両手を顔の正面に持ち上げて、それを見つめながら、狂気の発作のように悲鳴を上げ続けた。
 すぐにキッチンから母が、二階からは高校生だった姉がやってきた。妹は援軍に囲まれて力を回復した兵士のように、今は孤立してしまった敵を糾弾した。
「裕子がピーを踏み潰した。ピーを殺した」
 いつもと同じように私の名前を呼び捨てにし、憎しみに燃えた目で私をにらみ、小さな死体を抱いて、妹は母の胸にすがり、姉の手を握りながら、いつまでも泣き叫んだ。
 それは、ほんの二時間ほど前にもらってきたばかりの、十姉妹のヒナだった。数日前に卵からかえり、やっと目を開けたり餌を食べたりできるようになったばかりだった。たくさん生まれたので、育てる人を探していたのを、母と妹でもらってきたのだ。
 それらのことを、私は、泣きながら私を非難する妹の口から次々に飛び出すたくさんの言葉をつなぎ合わせて理解した。
 喘息の気のある妹に良くないので、それまでペットを飼ったことはなかったが、小学生になってから少しずつ丈夫になり始めていた妹を、動物に慣らす手始めとして、小鳥というのは最適だったのかもしれない。
 自分のしてしまったことの重大さに押しつぶされ、その痛手があまりに大きすぎたせいで、私は強い混乱に陥り、素直に謝ることができなかった。自分で自分の心につけてしまった深い傷を、家族の目から隠すだけで精一杯だった。傷ついたり、腹を立てたりすることは、私には許されていなかったのだ。
 平然さを装った私の態度も原因だったのだろうが、妹の悲しみはなかなか治まらなかった。翌日、今度はペットショップから十姉妹のつがいを父が買ってきたが、妹はなぜか見向きもしないのだった。そして、庭の目立つところに小さなお墓を作って、その後しばらく、私を許そうとはしなかった。
 妹以外の誰も、私を表立っては責めなかった。それがかえって私を孤独にした。そして、小さな命を奪ってしまったという強い罪悪感は、どんなに平気なふりをしていても、私を苦しめた。
 昼は家族の無言の視線に責められ、夜は無数の幼鳥に襲われる夢にうなされながら、私は感情を表に出さず、いつもと同じように振舞っていた。
 その出来事が、その後の私と妹の関係を決定したような気がする。
 
 妹は私の支配者だった。いつも受身を装い、頼りなく見せながら、実は相手をコントロールする術に長けている。弱さと甘えを上手に見え隠れさせては、自分への特別扱いを暗に周囲に要求するのだ。
 いたわられる側の人間としての位置を確保してしまえば、後は楽に他人を支配することができる。まして姉として、いつも寛大で忍耐強くあることを家族から期待されながら育ち、その期待に添えないと罪悪感さえ覚えるようになってしまっていた私を自分の奴隷に仕立てるのは、いともたやすいことだったろう。
 妹は弱々しく、簡単に他人の影響を受けてしまいそうな印象を与えた。いつも誰かの愛情や庇護を必要とし、そのくせ、それを主張できずにじっと我慢しているようにも見えた。姉である私の人生の中にまで入り込んで、自分が主役になろうとする欲深で狡猾な本当の姿は、私以外の誰にも決して想像がつかないのだった。
 私たちは、さぞ仲の良い姉妹に見えたことだろう。いつも冷静でしっかりしている姉の私がリードする側で、妹はただ私について歩いているだけの従者のように見えただろう。
 でも実際には、妹はいつも私を押さえつける暴君だった。自分の思い通りにならないと傷ついた被害者を装い、弱さで私を脅迫するのだった。
 妹を、私は嫌いだった。憎んでいたと言ってもいいほどだ。それなのに、いつも寛大で忍耐強い理想的な姉の役割を演じてしまうのだった。妹の言いなりにはなるまいとすると、強い罪悪感に襲われた。だから結局は、自分の感情を犠牲にしてまでも、妹を満足させることをいい、彼女の望む行動をとらずにはいられないのだった。
 私が言いなりにならないと、妹はひどい虐待でもされたように大騒ぎをした。すると決まって、姉も両親も私を責めた。
「裕子はお姉さんでしょう」
「麻美ちゃんの体が弱いこと、裕子はよく解ってるわよね」
「裕子はしっかりした良い子なんだから、そんなことぐらい、我慢できるだろう」
 一歳しか違わない妹はどんなわがままでも許され、私は健康だからという理由で忍耐を強いられた。妹の機嫌が悪かったり、喘息の発作が出たりすると、それはいつでも私のせいだった。
 私のものを妹が欲しいといえば、文房具でもお菓子でも玩具でも、私の意志には関係なく妹のものになった。
 誕生日に父から貰ったパーソンズのハンカチセット。ポップな色と派手な柄が大人っぽくて、私はすごく気に入っていたのに……。
 お小遣いをためてやっと買ったインクとペンのセット。飴色の細長い軸を握り、金色のペン先に紫や青や緑のインクをつけて、日記や手紙を書いたりすると、「あしながおじさん」のジュディになったような気がしたのに……。
 姉から貰った小さな赤いオルゴール。中のビロードが古びて擦り切れていたが、ネジを巻くと物悲しい旋律が私を慰めるように流れたのに……。
 そのどれもが、いつの間にか妹のものになってしまった。
 自分のものにするまではさんざん泣きわめき、喘息の発作を起こし、熱を出し、家族中を巻き込んで大騒ぎするのに、いざ手に入れると、妹はすぐに飽きてしまう。そして、壊れたり汚れたりした、元は私の宝物だったものたちが、無造作にゴミ箱に投げ捨てられているのだった。
 そんな妹の悪い癖を嘆きながらも、両親は妹の性格を矯正することより、私に我慢させる方を選んだ。聞き分けがよくおとなしかった私を納得させるのは簡単なことだったし、私の心の中には関心のなかった両親にとっては、その納得が単に表面上のことでしかないのだとは解るはずもなかったから。
 年の離れた姉が大学に通い、恋愛をし、自分の好きなように自由に人生を開拓していくのを見せ付けられながら、私は常に妹の保護者兼従者として、親の期待通りに生きてきた。でも……。
 
 時計の横に置いた合鍵が光っている。
「雄介さん、今日から初めての出張なの。お土産、何がいいかって訊くから、何でもいいけど裕子の分も忘れないでねって、言っておいたよ」
 あれはちょうど一年前、私が大学を卒業し、雄介さんが社会人生活二年目を迎えた春のこと、妹が、いかにも無邪気そうな表情でそう言った。
 その可愛らしさにうっかりだまされ、思わず優しい気持ちになると、後で必ず痛い目に合うと解っているのに、もしかすると、いつまでも子供時代を引きずってそんな見方をする私のほうが意地の悪い嫌な性格なのかもしれないと、思うこともあった。
 妹に対する私の感情はいつもどこかで危うく、かろうじてバランスを保ちながら、針の先でほんの少し突かれたほどの軽い痛みでもすぐに崩れて、取り返しのつかない憎悪に変わる危険をはらんでいた。
 妹が、いつも自分と雄介さんとの付き合いを逐一私に報告するのは、私の顔色の変化を、というより、顔色を変化させないように平静を装う私の仮面の奥の心の揺れを楽しみたいという、ただそれだけのためだったと思う。
 でも、もしかすると、ただ単に、幼い頃からいつも一緒にいて自分を守り、支え、かばってきた姉としての私に甘え、なんでも話さずにはいられなかっただけなのかもしれない。
 結婚した姉は家を出ていたし、父は仕事が忙しくてほとんど家にはいず、更年期を迎えていた母はしょっちゅう具合が悪いといっては寝込み、たまに調子の良いときは気分転換と称しておしゃれをし、どこかに出かけては夜遅くまで帰ってこなかった。
 そんな状態だったから、家の中での私と妹は、子ども時代にも増して濃密な関係になっていた。大学の四年生になり、私とは全然違って自分の女性的な魅力を熟知し、それを十分に利用することも覚えていた妹は、私にとって、まるで温室に咲き乱れる花々のように匂い濃く、息苦しい存在だった。
 あまりに近くにいるせいで、私たちがお互いに相手を見誤っている可能性も大きいのだと思うこともあったが、たいていの場合、それは、自分の血を分けた肉親である妹の中に、邪悪なものを見たくないという私の安易な妥協から生じる考えだった。
 日常生活を平穏に過ごすためには、問題の根本から目をそむけ、全て自分の勘違いか、些細なことにも傷ついてしまう脆弱な感受性のせいにしてしまうのが、最も楽な道だった。でも、その夜、私は自分をごまかすのが、もういやになったのだ。
 この合鍵は、その夜、妹がお風呂に入っている間にバッグの中からこっそりキーホルダーを持ち出し、両親にも気づかれないように大急ぎで近くの商店街まで自転車を走らせ、三分で作ってもらったものだ。
 そんな大胆なことをしたのは初めてだったが、頭の中に浮かんだ大小二つの箱のイメージが、私をそんな行動へと駆り立てた。小さな箱は、雄介さんが妹のために念入りに選んだ高価なお土産。もう一つは、私を含めた家族の皆にと妹に託された、誰に上げても良いように数個まとめて買った適当なお菓子の箱……。
 雄介さんには、わざわざ私のためにまで特別なお土産を買ってくる理由などない。私は彼にとって、ただのその他大勢の中の一人に過ぎないのだ。それは私にとってつらい事実だったが、しかし、妹に内緒で勝手に作った雄介さんの部屋の合鍵が、私を慰めてくれた。
「ちゃんと裕子の分もって、頼んでおいたのに、雄介さんったら……」
 妹が笑いながらそう言って、私が予想したのと寸分も違わないようなお菓子の箱を食卓の上に置いたときも、そして、その地方特産の緑色の貴石を文字盤に使った腕時計を家族に見せびらかしたときも、こっそり持っている合鍵が、私の心の余裕となって、感情を乱されることはなかった。
 本当に合鍵を使う勇気があるのかどうかは、自分でも解らなかった。でも、こっそりと雄介さんの部屋に上がりこみ、中を滅茶苦茶に荒らすことを想像するのが、私のひそかな楽しみになった。
 ブラインドを壊し、部屋中にあるものを手当たり次第に床に投げつけ、洋服は全て引き裂き、冷蔵庫の中のものを全部ぶちまけ、水道の水を出しっぱなしにし……。
 ケチャップやマヨネーズにまみれた壁、水浸しの床、粉々に砕けた食器、ひっくり返った椅子やテーブル……。そんなイメージを頭の中で思い浮かべるたび、それだけで、なぜかすっきりした気分になった。
 その気になれば、いつでもどんなひどいことでも可能なのだという事実が、私に余裕を与えたのだろうか。妹の恋人自慢も、軽く聞き流すことができるようになった。小さな鍵が、私に秘密の力を与えたのだ。
 あまりにも良い子として生きてしまったから、些細なことで傷つき、いつも報われないという不満の中に自分を閉じ込めることになる。自分ばかりが一方的に相手を許さなくてはいけないような生き方ではなく、自分も多少は負い目を持っているほうが、優しくなったり寛大になったりできるのだと、その初めて犯した小さな罪、小さな裏切り、小さな悪事が、私に教えた。
 靴の修理を兼ねている狭い店の年老いた店主が、閉店間際に手早く作ってくれた合鍵は、しかし、お守りのように持っているだけでは嫌だと私に訴えかけた。毎日、引き出しの奥から取り出しては丁寧に磨いたせいか、日を追う毎にぴかぴかと光を増して、早く私に使われたがっていた。
 それから一年、結婚するまでは今のままでいいからと、雄介さんは相変わらず大学生の頃と同じマンションに住んでいる。
「雄介さん、また出張なの。帰ってきたら、大事な話があるって言われた。いよいよ本格的にプロポーズされるみたい。私はまだ、結婚なんかしたくないんだけど……」
 その言葉が私を決心させた。自分にはその気がないのだが、相手が……という言い方は妹のいつもの癖だ。決して自分で責任をとることはしない。必ず、誰かに強く言われたからという受身を装うのだ。
 私は何気ないふりで、雄介さんの出張がいつからいつまでなのか、その間、妹はどうするのかを、さりげなく聞きだした。
 この一年間、ただのお守りだった合鍵が、やっと本来の役目を果たす日が、とうとう来たのだ。
 この置時計の針が動いているのを見たら、妹は強いショックを受けるだろう。
 この部屋のことは、洗剤の買い置きから冷蔵庫の中身まで、全て妹が自分なりのやり方で管理していると言っていたから、ほかの女の手が触れれば一目で解るはずだ。
 隅々まで自分の思い通りの秩序が保たれている部屋の中を見るたび、恋人の内側にまで入り込んでいるのは私だけなのだという満足感でいっぱいになると言っていた妹は、だから今日もすぐに解るだろう。
 数時間後、この部屋の鍵を開け、ドアを閉めて靴を脱ぎ、スリッパを履いたとたん、ぴんとくるだろう。何かが、どこかがおかしいと。
 部屋の中を見回すまでもなく、時計の針の音に気づくだろう。壁に掛かっている電子クロックではない。それは微かな音さえしない。ベッドサイドの棚に置いてある古い目覚まし時計だ。
 毎日必ずネジを巻かないと止まってしまう骨董品。雄介さんのお父さんが昔ドイツ留学をしていた頃に古道具屋で買ったもの……。
 彼は、その秒針の音を聞くと心が安らぐのだと言い、一日も欠かさずネジを巻くのが毎晩の日課になっているのだそうだ。
「その時計だけは、私にも触らせてくれないの」
 いつか妹が言っていた。それ以外の全ては、自分の自由にできるのだという自慢げな表情で……。
 その言葉を聞き、その表情を見た瞬間から、私は、今日のこの行動を決めていたような気がする。
 妹がこの部屋に来るのは三日ぶり。明日、出張から帰ってくるはずの雄介さんのために、部屋を居心地よく整え、軽い食事の用意をしておくためだ。
 置時計には触らない。戻ってきた雄介さんが真っ先にすることが、時計のネジを巻くことだから。妹はただ、恋人の唯一の聖域である置時計を見るだけだ。それなのに、既にネジは巻かれている。
 彼はもう帰ってきていたのだ。妹はそう思うだろう。出張から戻ってきたら、すぐに自分に連絡をくれるはずだという無条件の思い込みは、簡単に消されてしまうだろう。それとも、自分以外の女の存在を感じ取るだろうか。どちらにしろ、プライドの高い妹は、相当傷つくに違いない。
 いいえ、私は妹を傷つけたいのではない。恋の邪魔をしたいのでも、結婚を壊したいのでもない。ただ、ほんの少し、自己主張をしたいだけなのだ。雄介さんと先に知り合ったのは、この私の方なのだから。
 雄介さんは私より一学年上だが、同じ大学の同じゼミを卒業した間柄だ。せっかく国立大学を卒業しても、かえって一般企業からは敬遠されて就職先が決まらず、学習塾でアルバイト講師をしながら未だに仕事を探している私と違って、雄介さんは大学の専攻とは無関係の一流企業に就職し、若手のエリートとして活躍している。
 大学の二年になって、上級生と同じ講義をとる機会が増えた当初から、私は雄介さんが好きだった。彼の方も、圧倒的に男が多い学科の中で数少ない女の一人だった私にはいつも親切だった。
 女子学生の姿が目立つせいか、それとも社交的な学生が多いのか、華やかで陽気な雰囲気が漂う文系の学部と違って、理系の学部、特に私のいた学科には、どことなく自閉的な学生が多かったような気がする。
 男女一緒のグループで、カフェテリアやロビーでにぎやかに談笑しているのは、決まって文系の学生で、広げた新聞や週刊誌の陰に隠れるようにしながら背中を丸め、一人で黙々と定食を食べ、煙草を吸っているのが、理系の学生だった。
 青春を勉強一色で塗りつぶしてしまったせいで、異性との付き合いに慣れていず、人と気軽に話すこともできないような自意識過剰タイプの学生は、私自身がまさにそうだったから、苦手だった。だから、いつもさりげなく話しかけてくれる雄介さんが、私には理想の男性に感じられた。
 雄介さんと初めて会ったときのことを、私は今でもはっきりと覚えている。
 二年になって選択したドイツ語演習の時間だった。必修の英語の他にフランス語を選択する学生の多い文系と違って、理系ではほとんどの学生がドイツ語を選択する。卒業研究のためにどうしても読みこなさなくてはならない原書のほとんどが、英語でなければドイツ語だからだ。
 初めての授業の日、早めに指定の教室に行き、まだ誰も来ていない、十五人も座れば満員になってしまいそうな小さな演習室で、窓際の席に座り、テキストを開いた。三年生中心のこの演習に二年生は少ないこと、まして、女子はほかにいないことを、担当の教官から聞いて知っていたので、私は緊張しながら授業の始まりを待っていた。
 次々と上級生が入ってくるたび、顔を上げて挨拶しようとしたが、誰もがまともに私を見ようとはしなかったし、目が合っても、あいまいな会釈を返されるだけだった。私自身がかなり人見知りをする性格で、挨拶一つにも勇気が必要なほどだったから、小さな演習室の中で少人数の学生が互いに口も利かずに隣り合って座っているのは、気詰まりな光景だった。
 似たような種類の人間が集まり、上級生も下級生も関係なく、互いに相手を気にせず、マイペースに振舞っているのだから、かえって気楽なものだと思えるようになったのは、かなり後のことだ。
 狭い演習室の中は廊下側の席から埋まり始め、いつの間にか、私の隣だけを残して全ての席に学生が着いた。出入りしやすい席から先に埋まったのかと思っていたが、どうやら、たった一人の女子である私は、皆に敬遠されたらしかった。
 居心地の悪い思いで、早く授業が始まらないかと腕時計を気にしていると、チャイムが鳴るのと同時に演習室に滑り込んできた学生がいた。
 振り向いた何人かの学生に笑顔で手を上げ、私の隣が空いていることに気づくと、ほかの席を探す素振りもなく、何の躊躇も見せずにすばやく腰掛けた。その態度は、もしほかにも空いている席があったとしても、迷わず私の横に来ただろうと思わせるようなごく自然なものだったので、私はそれだけで彼に好感を抱いてしまった。おまけに彼は、長年の友人にでも会ったかのように、私に向かって笑顔で、ヨッというような挨拶をしたのだ。私が恋に落ちたのは、その瞬間だった。
 予想以上にレベルの高い授業が終わり、自分のすぐ横にいる男性に恋心を意識してしまったせいもあり、すっかり疲れて教科書をしまっていると、彼が話しかけてくれた。
「二年生?」
「ええ、はい。よろしくお願いします」
「今年、うちのゼミに入ったたった一人の貴重な女の子って、君のことだね」
「あの、貴重かどうかは解りませんけど、多分それ、私だと思います」
「そうか、歓迎コンパが楽しみになってきたな。今の三年は野郎ばっかだからね」
 それだけ言うと、彼は、なんと答えたらいいのか解らずに黙っている私にじゃあと言って、さっさと演習室を出て行ってしまった。
 その後、ドイツ語演習の時間は、窓際のその席が私の指定席になり、いつもぎりぎりに飛び込んでくる雄介さんは、決まって私の隣に座るようになった。
 大学の近くの居酒屋で行われたゼミの歓迎コンパでも、雄介さんは私の隣に座って、男ばかりの上級生の中で固くなっている私に、ジュースを注いでくれたり、ほかの皆との会話の糸口を作ってくれたりした。
 最初は付き合いにくいと思ったほかの先輩たちも、慣れてくると皆それぞれに優しく、「貴重な女の子」である私には親切だったから、二年生には敷居の高い場所であるゼミ室や研究室にも、三・四年生や大学院生に混じって、やがて自由に出入りできるようになった。
 雄介さんとはドイツ語演習以外にもいくつか同じ講義を選択していたし、一緒の授業がない日でも、ゼミ室か研修室に行けばたいていは会うことができた。
 いつもほかの誰かと一緒だったから、個人的な話をするわけではなかったし、二人きりでどこかへ行ったり食事をしたりということもなかったが、私にとって雄介さんは特別な人だったし、彼の方もそう思ってくれているという確信があった。
 ちょっとした言葉の端々、些細なしぐさの一つ一つに、周りの人間には解らない、私だけに宛てたメッセージを感じ取ることができた。皆で一緒にいても、私と雄介さんだけは周囲から切り離された独自の空間にいた。私たちの間には、ほかの人々とは共有することの不可能な、特別なつながりがあったのだ。
 ゼミ室でドイツ語の予習をしたり、吸殻でいっぱいの灰皿を洗ったり、研究室のコンピュータで先輩に頼まれた文献の検索をしたり……。そんなことの全てが、そばに雄介さんがいると思うと張り合いがあった。大学に行くのが楽しく、勉強も進んだ。
 それは私にとって、今までの人生で、そして多分これからの人生でも、一番幸せなときだったと思う。
 しかし、毎日が楽しければ楽しいほど、雄介さんを好きになればなるほど、同じ大学の英文科に合格した妹のことが、心の隅に重く食い込んでくるのだった。私のものを何でも欲しがるという妹の癖は、子供の頃から変わっていなかったし、欲しいと思ったものを、彼女はいつも、結局は手に入れてしまうのだから。
 小学生のとき、近所に住んでいた修ちゃんも、中学で一緒に生活委員をしていた小島君も、高校の新聞部の仲間だった五十嵐君も、皆、私の親しい友達だったのに、いつの間にか妹の恋人になってしまった。いつも、私が恋愛へと発展して行きそうな付き合いを始めると、後から来た妹が全てをさらって行ってしまうのだ。
 でも、私のそんな心配をよそに、妹は同じ学部の中に次々と男友達を作った。そして、外見の良い、女の扱いに慣れているような彼らと、まじめで純粋な雄介さんはまったく違うタイプだったから、私はつい油断していたのかもしれない。
 やがて、妹が雄介さんの存在に気づくときが来てしまった。
「あの人、誰? 好きなの?」
 私の帰宅を待ち構えていたように、既にすっかり健康になっていたにも関わらず、昔と同じ、周囲の人間の保護欲をそそるような色白の繊細な表情で、妹が私にそう訊いたのは、夏から秋へと変わったばかりの、月の明るい夜のことだった。
 当時私は三年生で、雄介さんの卒業研究の手伝いをしていた。
「この頃、帰りが遅いと思ったら、あんな素敵な人と毎日一緒にいたんだね」
「一緒って……。同じゼミの先輩だよ。グループで研究をしてるんだもの、二人きりでいるわけじゃないよ」
「中庭のベンチに座って、楽しそうに話してた。二人きりだったよ」
「それは、休憩時間だったから……」
 どうして自分はこんな言い訳なんかしているのだろう、いつもどうして妹のペースにはまってしまうのだろうと、自分で自分に苛立ちながら、私は、どぎまぎしてうろたえてしまった。
 雄介さんを好きだという気持ちに気づかれてはいけない、妹はいつだって、私の好きなもの、大切なものを欲しがるのだから……。
 でも、既に遅かった。
「ときめく相手って感じじゃないけど、私の周りにはいないタイプだな。将来のために、キープしておくのもいいかもね。あんなまじめそうな人。裕子の彼じゃないなら、かまわないよね、別に」
 それから妹と雄介さんが親しくなるのに、長い時間も特別な手続きも必要なかった。彼女はただ、先輩の研究を手伝っている姉のところに差し入れをする可愛い妹の役を演じればよかったのだ。
 雄介さんだけは違うと信じていたのに、やはりいつもと同じだった。妹が目の前をちらちらするだけで、男は皆、この女には自分が必要なのだと思い込んでしまうのだった。
 素直に弱さを出せる女が、本当は一番強くてしたたかなのだということに、男が誰一人気づかないのはなぜだろう。でも、私のように感情を抑えてばかりいるつまらない女より、妹のように正直に生きている女の方が魅力的なのは確かだ。雄介さんを責めることはできない。
 雄介さんと私の間にあったはずの、何か特別に通じ合うものは、あっという間に消えてしまった。元々私の勝手な思い込みか、ただの勘違いだったのかもしれないと、今は思う。
 いつの間にか、日差しが淡く落ちてきている。
 思いがけず長い時間、置時計の前に座り込んでしまっていた。時計のネジを巻いたらすぐに出て行くつもりだったのに……。
 ブラインドを通して差し込む光が、フローリングの床に縞模様を描き、それは海の底でゆっくりと漂う海藻を連想させる。
 この部屋は一つの宇宙だ。深くて、でも狭い。この小さな箱型の宇宙の底で、妹と雄介さんは二匹の深海魚のように、お互いだけを見つめ、寄り添っているのだろうか。
 ここは私のいるべき場所ではない。私は私の世界で生きなくてはいけないのだ。この深淵から浮かび上がり、別の、私自身の宇宙へとたどり着き、自分の人生を生きるのだ。そこがもし、ここよりもっと小さく、狭く、暗い宇宙だとしても。
 床に置いてあったバッグと時計の横の合鍵を持つと、私は立ち上がって、部屋の中を見回した。
 オーディオ装置の上に掛かっている古代地図のジグゾーパズル、整然と並べられた本の間に置かれた文房具入れ、テレビの横に立てかけてある何冊かの雑誌。
 来たときと何も変わってはいない。時計の音がするだけだ。コツコツと時を刻む音。私の知らない、雄介さんと妹の二人きりの時間を刻んできた。そして今は、雄介さんも妹も誰も知らない、私だけの秘密の時を刻んでいる。
 この音を聞いたとき、妹はどう思うだろう。そして雄介さんはどうするのだろう。それはもう、私には介入のできないことだ。この小さな宇宙が完璧なものなら、どんなことも些細なエピソードでしかないだろう。
 心をひっそりと落ち着かせるような、規則正しい秒針の音。
 その微かな響きの波間から、別の音が聞こえてくる。静かなマンションの中に硬く反響するその小刻みな音は、階段を上ってくるハイヒールの音に違いない。
 私は茫然と立ちすくんでしまう。
 今、その誰かは階段を二階まで上り切った。そして、ほんの少しの狂いも迷いも感じさせない歩調で、外の廊下を進み始めた。
 最初の部屋のドアは、階段からほんの数歩のところにある。立ち止まる様子はなく、足音はますます大きく聞こえてくる。
 せっかく静まっていた胸の鼓動が、また高鳴りだす。大丈夫、まだ妹の来る時間ではない。そう自分に言い聞かせても、心臓は言うことを聞かない。全身の皮膚からじっとりと冷たい汗がにじみ出てくるのを感じる。
 妹の足音がどんなだったかを思い出そうとしてみるが、うまくいかない。でも、ハイヒールを履いているのは確かだ。
 足首が太く見えるのが嫌だと言って、妹は踵の低い靴をはかない。今朝はクリーム色のスーツを着て、明るい茶色のショルダーバッグを提げていたから、たくさんあるハイヒールの中から、多分、薄茶のを選んで履いて行ったに違いない。あの靴はどんな音がするだろうか。
 隣の部屋の前も通り過ぎたようだ。もう、一番奥のこの部屋しか残っていない。マンションの隣人かもしれないという小さな可能性は消えてしまった。
 足音はどんどん近づいてくる。私の頭の中で、それはガンガンと鳴り響く。脳の血管が膨れ上がって、今にも破裂しそうだ。
 もうすぐ足音は止まるだろう。そして、妹以外の誰かなら、たとえば保険のセールスの女性とか、たまたま立ち寄った友人とかなら、チャイムを鳴らすだろう。それなら私は、ただ黙って待っていればいい。入るときにドアの鍵は掛けたし、私がじっとしていれば、人の気配はしないだろうから、その誰かは帰っていくだろう。
 身動きできずにいる私から、ほんの数メートルほどしか離れていないドアの向こうに、誰かが今、立ち止まった。
 頭から血が引くとはこのことかと、私は初めて実感する。たった今、脳の血管の中で暴れ回り、沸騰していた血液が、一気に体から下がり、地底の生き物に吸い取られていくような気がする。気絶しないのが不思議なほどだ。
 しかし、私はほんの一瞬で覚悟を決めていた。
 妹ときちんと話そう。本当のことを言えばいい。できる限り自分の気持ちを表現するのだ。
 私は大きく息を吐き出すと、ドアの向こうにいる誰かに向かってまっすぐに立った。一人の人間と真正面からきちんと向き合うのは、生まれて初めてのような気がしていた。


Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

*タイトルバックに「LCB.BRABD」の素材を使用させていただきました。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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