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   1

 秋は、知らず知らずのうちにひっそりと忍び寄ってくる。まるで、音も立てずに歩き回る黒猫のようだ。
 金色の目に怜悧な輝きを浮かべ、鋭角の耳をピンと立てながら、あたりの様子を窺(うかが)っている。無関心を装いながらじわじわと縄張りを広げ、ほんの少しでも不審を感じたらすぐにも身を翻して、季節の境界線上にある植え込みの陰に隠れてしまう。そしてまた、どこからともなく現れては優雅な姿ではにかんで見せ、臆病なふりをして、いつの間にかその孤高な美しさで周囲を支配してしまう。
 秋は老練な戦略家だ。
 夏のほんのわずかな衰退をも見逃さずに、微かな気配という懐かしい鎧に身を包み、心の隙間に滑り込んでくる。まだ真夏の熱を含んで澱み、重く体にまとわり付く空気のほんの些細(ささい)な動きにまぎれて、秋は、思い出の形に日焼けした皮膚の表面をさっと素早く掠めては、ふと記憶の底を揺さぶられたような胸騒ぎの中に人を置いてきぼりにし、今日と明日の交差が作る不定形な要塞の中に逃げ込んでしまう。そしてまた、人々の夜毎の夢を食べながら、いつの間にか世界の色を変えてしまうのだ。
「ちょっと、章子ったら聞いてるの?」
 突然名前を呼ばれて我に返った。切れ目なく続いていた言葉の奔流は止んでいる。小さなガラスのテーブルの向こうで、傷ついたような表情の明美がこちらを睨んでいた。私を空間に縫い付けてしまいそうなほどの、鋭い視線。
「ああ、ごめん。ちょっと空の色を見てたの」
 またぼんやりしていたらしい。一方的なおしゃべりを聞かされていると、いつの間にか自分の内面に入り込んでしまう癖を何とかしなくてはいけないと思いながら、もう何年も経ってしまった。
「空の色……?」
 明美は、念入りに描いた茶色の眉を一瞬いらだたしげに寄せると、窓の外をちらりと見たが、誰かがちぎって投げ捨てたような雲がふわふわと浮かんでいる空が、何の変哲もない澄んだ青であることを確認すると、あきれたようにため息をつき、すぐに私に向き直った。そして、人目を惹くほどの美しい母親になった今も、子供の頃と変わらない、気を悪くしたときの膨れっ面で言った。
「お姉ちゃんは、私の話なんか全然まじめに聞いてないんだね」
 私をいつも名前で呼び捨てにし、尊敬の気持ちなど少しもないのに、姉であることを思い出させたいときだけそんなふうに呼ぶのは、これも子供の頃と同じだ。そして、都合よく利用されているだけだと解っているのに、お姉ちゃんと呼ばれるとつい甘くなってしまう私自身も、昔と変わっていなかった。
 ちゃんと聞いていると言い訳するのが嫌で、私はついおもねるような口調になった。
「気分悪いよね、無言電話なんて……。毎晩かかってくるんじゃ、明美ちゃんも柏木さんも、自分の家なのにくつろいだ気分になれないね」
 初めて無言電話のことを聞いてから、もう二週間近くになる。それ以来、明美が家に来るたび、その話ばかり聞かされていた。
「私も和彦も睡眠不足になってるのよ。目茶苦茶な時間にかかってくるんだもの」
 親には甘やかされて育ち、男たちからはいつもちやほやされて、常に女王のように生きてきた明美が、平凡な高校教師と結婚したことも意外だったし、その後、仕事を辞めて普通に子供を産み、地道な生活を続けていることに対して、私には彼女を見直す気持ちがあった。
 しかし、専業主婦の彼女がすぐ近所の実家の両親、それも私に任せきりの両親の世話を理由に、一人娘の舞を二歳から保育園に預け、趣味のジャズダンスやテニススクールに通ったり、また、しょっちゅう家に来ては、両親の世話をするどころか、母や私の作ったお昼ご飯やおやつを食べ、後片付けもせず、お土産まで持って帰ったりすることに対しては、両親が喜んでそうさせているだけ余計に、割り切れない思いがあった。
「誰か、心当たりはないの?」
 私のように明美に対して何かこだわりを抱いている人間が、ほかにもいるのかもしれない。妹なのだからしょうがないという思いをもてない分だけ、そのこだわりは強いかもしれない。毎晩、無言電話をかけずにはいられないほどに……。
「誰かって、どういう意味? 私も和彦も人に恨まれるような覚えはないのよ」
「そのつもりがなくても、人を傷つけてることって、あるんじゃない?」
「あら、章子は傷ついてるの?」
「私じゃなくて、誰か近所の人とか、保育園のお母さんたちとか、柏木さんの場合だったら、高校の同僚とか……」
「私たち二人とも、そんな無神経な人間じゃないもの。私は自分が嫉妬されやすいタイプだってことはよく解ってるから、いつも対人関係にはすごく気を使ってるし、本音を言うのはお姉ちゃんの前だけなのよ。和彦はあのとおりまじめで誠実な人だし……」
「だったら、その電話の相手に、番号を間違えてるんじゃないかって、訊いてみたら?」
「何度も訊いたわよ。でも無言なの。あの気味の悪さには耐えられない。じっとこちらの気配を窺ってる感じ。いくら呼びかけても一切返答はなくて、一分ぐらいで切れちゃうの」
「バックに何か聞こえる? 音楽とか車の音とか、雑音でもいいけど」
「全然。シーンと静まり返ってる中で、なんとなく相手の息遣いが聞こえるような気がするだけ」
「何の手がかりもなしってわけね。柏木さんの浮気相手だったりして」
「そんなわけないでしょう」
「そうだよね、柏木さん、いまだに明美ちゃんにべた惚れだものね」
 そう言いながら、自分の言葉を空々しく感じていた。どうしていつも妹の機嫌をとってしまうのだろう。
「そうよ、多くのライバルから勝ち取った美しい妻は、結婚して五年たった今でも、ほら、変わってないでしょう」
 冗談のつもりで言ったのだろうが、そうは聞こえなかった。妹と話していると嫌な気分になることがあるのは、多分、嫉妬する自分を認めたくないからだろう。
「覚えてる? 昔、家にもしょっちゅう無言電話が掛かってきたわ」
 何のことか解らないと言いたげな妹の顔を見ないようにして、私は続けた。
「お父さんやお母さんが出るとすぐに切れるのに、私が出るとこっちの声を確かめるようなちょっとした間があって、やっぱり無言で切れてしまう。私たちって声が似てるけど、間違うほどではなかったものね。明美ちゃん目当ての男の子たちからの電話だってことはすぐに解ったけど、家族が出たら無言で切るなんて、すごく感じが悪くて不愉快だった」
 そう、不愉快だった。たまらないほど不愉快だった。恋愛に憧れ異性を意識する年頃に、一歳違いの妹が、妹だけが複数の少年たちの心を捕らえているのを見せ付けられるのは。その中には私の好きだった人もいたのに、彼の視界には自分などいないも同然なのだと思い知らされるのは。
 同じ親から生まれた姉妹なのに、そして確かによく似ているのに、どういうわけか、一人はいつも男たちに囲まれる華やかな美人で、一人は男どころか女にまで敬遠される人好きのしない女。一人は多くの恋愛を経験した後でさっさと堅実な相手を選んで結婚し、一人は三十を過ぎたというのにいまだに独身のまま親と一緒にいる。
「そんなの、無言電話のうちには入らないわよ」
 妹は、自分の一大事に昔の話を持ち出した私を責めるように言った。
 いつもこうだ。妹だけではない。私がやっとの思いで自分の気持ちを口にしても、家族は必ずそれを無視した。そしてそのたびに、私は自分がこの世に存在しないもののような気がするのだった。
「私、このままじゃノイローゼになっちゃうわよ」
「柏木さんの生徒がいたずらしてるんじゃないの」
「和彦は人気があるの。そんないたずらなんかされるはずないわ」
 妹が信じている夫の実像が少し違うことは、生徒から聞いて知っていたが、私は、家庭教師という仕事で知りえたことは、たとえどんなに信用のできる相手にでも、決して一切口外しないことにしていた。
「いつも留守電にしておけばいいじゃない」
 少し面倒になってそう言った。最近、同じ話ばかりを聞かされているし、何の進展もないのだ。
「だめよ。和彦は生徒指導の主任なのよ。生徒に何かあったら緊急の電話が入ることもあるんだから。それに、こっちが悪いわけじゃないのに、どうしてそんなこそこそしたまねをしなくちゃいけないのよ」
 階下で、両親が動き回っている気配がした。外出していた父が帰宅したようだ。母も昼寝から覚めたらしい。そろそろ食事の支度をしなくてはいけない。
「あまり気にすることないんじゃないの。いざとなったら、警察に通報すればいいんだし。それより、そんなこと、お母さんたちには言わないでよ。また大騒ぎになってしまうから」
 むっとして黙ってしまった妹の目が、私の冷たさを非難していた。これだから男が寄ってこないのだと、見下してもいた。

 

   2

「明美ちゃん、いつの間に帰ってしまったの」
 流しに向かって大根の皮をむいていた私の背中に、母が責めるように言った。怒っているわけではないのだが、常に多くの不満を抱え、しかもその原因が全て私にあると思っている母の口調はそれが普通なのだ。
「保育園のお迎えの前に買い物があるんだって」
 私は、きちんと母の方に向き直って言った。忙しさにまぎれてうっかり背中を向けたまま返事をすると、母は、親を無視したといって気を悪くするのだ。
 母の感情の変化などには無関心の妹と違って、私は、めまぐるしく気分を変える母が恐ろしかった。怒られるだけならいいのだが、自分の思い通りにならないとすぐに大騒ぎをして倒れる母を、今まで何度もそうしたように病院に運び、入院させ、毎日看病のために通うことにはもう疲れていたし、また、多くの詳しい検査の結果、結局は心理的なもので、家族が余計な心配をかけるのが原因だと注意され、母の病気は全て私のせいなのだという、子供の頃から根強くある罪悪感に苦しめられることに、もうこれ以上、耐え続ける自信もなかった。
 だから私は、毎日、母の気に入るように暮らすことに、エネルギーのかなりを費やしていた。そんな私の弱さが母をますます増長させ、母から逃げてばかりいる妹や父の分まで、私が一人で背負うことになっているのは解っていたが、どうすることもできなかった。
「何だ、そうなの。挨拶くらい、あんたがちゃんとさせてよ」
 妹は母の愚痴めいた不満だらけの話を聞かされるのを面倒がり、帰りの挨拶もおざなりなのだが、母にしてみれば、自分と明美の仲の良さを私がねたみ、二人の間をじゃましているように感じるらしかった。
「お隣にいただいたお菓子、持たせてやったの?」
「ええ、それにトイレットペーパーも二パック、持って帰ったわ」
「家庭を持つと、何かと物入りだからね。子供にもお金がかかるんだし……」
 母は、妹の行動を一々私に言い訳する。まるで私がいつも妹を厳しく非難しているかのように、その言い訳は延々と続く。
「あの子、何か心配事でもあったんじゃないの。何か言ってなかった?」
 母は私のことには関心がないのに、父や妹のことになると勘が鋭い。しかし、うっかり本当のことを言うと、不安のあまりパニック状態に陥り、また倒れてしまうのは目に見えていた。
「何も……。幸せな家庭の自慢話を聞かされただけ」
 私が笑いながらそう言うと、母は哀れむような表情になった。
「あんたにも、そのうち、誰かいい人が見つかるよ」
 私は、いい人などいらないという言葉を飲み込み、あいまいに微笑んでから、流しに向き直って仕事を続けた。
 同じ親に育てられても、私と妹はまったく性格が違っていた。
 神経質で感情の激しい母が怖くて、相手の顔色を窺いながら自分の気持ちはいつも抑え、おとなしい良い子として育ったのが私、何が何でも自分を通そうと大げさに感情をあらわにし、母そっくりに育ったのが妹だ。
 父も母も私のことを「何の心配もない手のかからない子供」だと言った。私はそのイメージの中に閉じ込められ、その狭い枠からほんの少しでもはみ出すようなことは一切許されず、どんな些細なことでも厳しく怒られた。それに対して妹は「わがままな困った子供」と言われながらも、何をしても許され、可愛がられて育った。
 長い間、私は自分が貰われてきたのだと信じていた。妹だけが両親の本当の子供で、だから私が可愛がられないのは仕方がないことなのだと、自分を納得させていた。
 しかし、性格はともかく、外見に関しては私と妹はよく似ていたし、成長するにつれ、自分の細くて長い指が父にそっくりなことや、横から見たあごの形が母と瓜二つであることに気づき、貰い子幻想は次第に薄れていった。
「お味噌汁は朝の残りがあるから、作らなくてもいいからね」
 解ったという合図に母に大きくうなずいて見せながら、私は、かぼちゃの煮え具合を確かめた。
 父も母も食べる量は少なかったが、色々な種類のおかずが並べられているのを好んだ。毎日五時までに食卓を整えるのは、仕事の下調べや母の通院の送り迎え、買い物の都合などもあって、決して楽ではなかったが、料理をするのは嫌いではないし、両親の体調を考えて栄養に気を配り、変化に富んだ献立を考えるのは楽しかった。
 職業柄夜が遅く、両親とは生活時間帯にずれがあるので朝食を作ることはできないが、それ以外の家事のほとんどを私がしていた。しょっちゅう体の不調を訴えては寝込んでいるか、病院へ通うかしている母と、そんな母から逃げるように毎日出かけてばかりいる父との生活は、母の機嫌さえ損ねないようにしていれば、何とか無事に過ぎていった。
 恋愛には元々縁が無かったが、三十代の初めに右の卵巣と子宮を摘出してからは、結婚という言葉も自分の辞書からは削除していた。個人で続けている家庭教師という仕事には何の保証もなく、評判だけで成り立っているようなものだったが、私には向いていると思うし、今のところ生徒は順番待ちの状態で、収入も悪くない。
 この先もずっとこのままで良いような気がしていた。女としての人生をあまりに早く降りてしまっているのではないか、そもそも自分の舞台に上がったことさえないのではないか、それで本当に満足なのかと、自分の心に問いかけさえしなければ。

 

   3

 その日、私は久しぶりに一人きりの夜のドライブを楽しんだ。
 仕事が終わった後、月に二・三度は、気分に任せて車を走らせる。生徒の家を出るのは、早い日でも午後の十時過ぎなので、日中は渋滞する幹線道路もすいているから、自分の好きなように運転できる。
 隣町に続く国道や広い表通りでは思いっきりスピードを出したり、初めて通る狭い道ではゆっくり走りながら、立ち並ぶ家々窓の向こうに人々の生活を想像したり、気に入っている海沿いの道では路肩に停車して、しばらくの間、星を見たり、ステレオもラジオもかけずに一人で気ままに運転をしていると、本当に自分自身に戻れるような気がするのだ。
 しばらく走り回って帰宅する頃には、いつも日付が変わっている。そして、毎日少しずつたまっているストレスも、いつの間にかすっかり消えているのだ。
 広い道から住宅地に入り、妹の家の前を通り過ぎると、すぐに私の家だ。平日の深夜ということもあって、車の影も人の姿もまったく見えなかったが、この辺りは道幅が狭く、時々犬や猫が飛び出してくるので、私は、かなりの低速で慎重に運転していた。
 妹の家は、住宅ローンの金利がもうこれ以上下がることはないだろうという予測の元に、三年前に建てた家だ。土地は所有者である父が無料で貸し、頭金も両方の親が援助した。そうでもなければ、三十代の夫婦が夫の収入だけで持てるような家ではない。毎月のローンがあるとはいえ、妹は恵まれている、恵まれすぎていると、私は思っていた。
 どの家の窓もすっかり暗く、シンと静まり返った住宅地の中は、街路灯の明かりのほかは私の車のヘッドライトだけが、夏の終わりの深夜の空気を照らしていた。
 ゆっくり進んでいくと、妹の家の前に一台の車が停まっていた。ライトは消してあるが、エンジンの音が、少し開けた車の窓から入り込んでくる。
 こんな時間に来客だなんて、何かあったのだろうかと、ブレーキを踏みながら妹の家を見たが、どの窓も真っ暗だ。玄関の前の駐車スペースには柏木の乗用車と妹の軽自動車が並んでいる。その二台の車の間に誰かが立っていた。
 一瞬、恐怖を感じたが、その茫然と立ちすくんでいる黒い影が、よく知っている人物だということにすぐに気づいた。私はサイドブレーキを引いて車から降りると、小声で呼びかけた。
「川村さん、どうしたんですか」
「先生……。先生だったんですか」
 週に二度、私が教えている川村玲子の母親が、驚いた表情で近づいてきた。そして、背後の家をちらりと振り向くと、すっかり気の抜けてしまったような声で言った。
「ここが、あの教師の家なんです」
 私は無言でうなずいた。川村は、私が柏木の義理の姉だということは知らない。玲子の退学以来、いや、それ以前から柏木のことは聞かされていたが、私は自分からは彼の話はしなかった。仕事に関係のないことは一切話さないというのが、仕事先での私の流儀だ。
「良かったら、私の家にいらっしゃいませんか。すぐ近くですし、両親はもう寝てますから、落ち着いてお話できると思いますけど」
 気持ちを吐き出さずにはいられないような様子の川村をそう誘ってみたが、彼女は明るいところでは話しにくいからと言う。結局、近くの児童公園の横に車を止め、私の車の助手席に彼女が座って話をすることになった。
「軽蔑されるかもしれませんが、玲子が退学になって以来、私、どうしても気持ちが治まらなくて、毎晩あの家に無言電話をかけていたんです」
 二つの件が時期的に一致していたので、もしかしたらと思ってはいたが、しかし、それはかなり意外なことだった。川村は知的な感じのする女性で、自分の子供の退学問題では感情的になっていたとは言え、そんなことをするにはプライドが高すぎるように見えた。
「母親って、馬鹿ですわね。本人はもう気持ちの整理も付いて、大検に向けて頑張っているというのに……」
 川村玲子は、柏木が教師をしている私立高校の特別進学クラスの二年生だったが、七月の初めに他の高校に通う中学時代の友人たちと居酒屋でビールを飲んでいるところを、たまたま店に来た柏木や他の教師に見つかり、翌日から無期停学処分を受けた。これは実質的には強制退学を意味する重い処分だ。納得できない両親が再三高校に出向いたが、話し合いはこじれ、結局、夏休みの間に玲子は自主退学することになった。
 元々玲子は厳しい校則に不満を抱き、学校を辞めたいと私に言っていたぐらいだから、退学が決まったあとの立ち直りも早く、かえってせいせいした様子で、大学受験資格検定試験に合わせて勉強のスケジュールを立て直していた。
「どうしても、あの柏木という教師が許せなくて……。他の先生たちがもっと軽い処分でもいいのではと言ってくださったのに、あの教師が無期停学を主張したんですから」
 柏木はどこの学校にも必ず一人はいるタイプの、熱心で正義感が強く集団の規律を何よりも重んじる典型的な生徒指導の教師だ。彼なりに一生懸命仕事に取り組んでいるのだろうが、自分と違う考え方や価値観を決して認めようとはしない。教師という職業に誇りを抱いているのはよく解るが、人を見下すようなところがあり、誰に対しても正論を押し付ける。教師としてはある意味では立派かもしれないし、妹の夫としては何の不足もないが、私にとっては最も苦手なタイプの人間だった。
「あの教師が、自分のせいで一つの家庭が大きく揺れ動いたということを考えもせずに、毎日、平和に暮らしているのかと思うと、私、どうしても向こうの様子を窺わずにはいられなかったんです。本人が出たり、奥さんらしい人が出たり、二人とも私が無言でいるとだんだんヒステリックになっていく。その過程が気分良くて、つい毎日電話してしまいました。でも、それだけでは足りなくて、もっと何か、本格的に嫌がらせをしてやりたくて、今夜、つい来てしまったんです。玄関ドアにペンキで落書きをするとか、車に傷をつけるとか、そんなばかげたことを考えて……。でも何もできませんでした。先生に見つかってしまうなんて、本当に恥ずかしい限りですけど、でも、かえって良かったですわ。これで何だか、ふっきれたような気がします」
 川村は、私の知っている通りの知的なイメージのまま、そう言った。
「大変な夏でしたわね。でも、玲子さんは新しく目標を定めて頑張っているんだし、私もできるだけのお手伝いはしますから、川村さんも気持ちを切り替えて、玲子さんを助けてあげてくださいね」
 私がそう言うと、川村はすっきりした表情で私に向き直った。
「これからは、先生だけが頼りです。玲子のこと、よろしくお願いします」
 川村のような女性でも、無言電話をかけたり、夜中に憎い相手の家の周りをうろついたりしてしまうのだということが、私には驚きだった。母親というものは、子供のことになると理性をなくしてしまうのだろうか。 
 私と川村は、多分、似たタイプだろう。でも、私には、我が子のことで理性を失う瞬間を持つことは決してできないのだ。一度でいいから、それほどの激しい思いを味わってみたかった。

 

   4

「明美ちゃんのところも、無言電話が止んで良かったね」
 唐突に母がそう言い出したのは、数日後の昼時だった。父は俳句の会に出かけていて留守だった。
 私は、冷たいうどんの上にかまぼこやきゅうりの千切りをのせながら、内心の驚きを隠して、ごく普通の声で返事した。
「そうね」
 無言電話のことは、母には内緒のはずだった。些細なことで不安に陥り、血圧が上がったり、呼吸困難を起こしたりする母に、妹はなぜ、そんなことを話したのだろう。
「あんたにも、そのうち良いことがあるから。妹と自分を比べてもしょうがないんだからね。和彦さんは良い人だけど……」
 一瞬、意味が解らずに、母の顔を見つめ返した。妹が先に結婚して以来、そして私が手術を受けてからは特に、頻繁に見せるようになった哀れみの表情で、母は私を見ていた。
「身近にいれば好意を感じるものだけど、妹の旦那なんだから、どうしようもないじゃないの。それに、あの土地はどうせ明美ちゃんが相続するんだし、あんたにはこの家と土地があるんだから、それでいいと思わなくちゃ……。親元でのんきに暮らしてるから解らないだろうけど、結婚すると色々大変なのよ。明美ちゃんは明美ちゃんで苦労してるんだから……。あんたにもすごく気を使って、かわいそうになるわ。昼間ひまだから、余計なことを考えるんじゃないの。お父さんもいつも心配してるのよ。別の仕事を探すとか、お稽古事でも始めるとか……」
 母の言葉は延々と続く。そしてそれは、内部に入り込んでしまった私の表面で滑り落ちる。母は一体誰に向かって話しているのだろう。私でないことは確かだ。母の目に見えているのは、私ではない。それは、中年になろうとしているのにいつまでも親の世話になって暇をもてあまし、妹の夫に好意を抱いて幸せな家庭に嫉妬し、毎晩無言電話をかける哀れな誰かだ。
 その私以外の誰かに辛抱強くお説教するかのように、母の言葉には切れ目がない。
 子供の頃から、何度となく経験しているのに、私はこの状況に決して慣れることができない。私は一体、誰なのだろう。
 気づくと、私は二階の自分の部屋にいた。ショックを受けながらも母と二人で食事をし、後片付けも普通に終えたらしい。何があっても感情をむき出しにしない見せ掛けの平静さが、ますます母や妹に誤解される原因になっているのは解っていた。そして今更、理解されることなど不可能だということも。
「私、無言電話なんか、かけてないわよ」
 やっとのことで、それだけを言葉にしたのは覚えている。母と妹の間では、無言電話の犯人は私だったのだ。
「誰もそんなことは言ってないでしょう」
 母は、私の口答えが気に入らず、不機嫌になってしまった。きっとまた、胸が苦しいとか、めまいがするとか、大騒ぎを始めるに違いない。
 こんなふうに、私以外の家族が、私を全ての問題の原因とみなすことで、しっかりと結束を固めるということが、今までに何度も繰り返されてきた。問題の本質を見つめ、それと向き合うのが怖いから、私のせいにして安心するのだ。
 一緒に暮らしているのだから、普段の言動から、私がどういう人間か少しは解ってくれてもいいはずなのに、でも、理解してくれるどころか全然違う人間のように思われているのだと傷つきながら、それもしょうがないと、ますます自分の中に閉じこもる……。そんなことの繰り返しだ。
 そう思われているのなら、そのとおりに行動する方がいいのかもしれない。それが家族の期待に沿う生き方なのだ。確かに、私の心の奥には妹に嫉妬する気持ちがある。子供の頃からずっとそうだった。それは本当なのだから。
 私は、パソコンの横に置いてあるコードレス電話の子機を見つめた。
 家族の期待通りに振舞う方が正しいのだ。多分、そちらの方が真実の私なのだ。人間は人間との関係の中でしか、自分ではありえないのだから。誰にも見えない「本当の自分」など、何の意味もない。そんなもの、あってもなくても同じだ。自分以外の人間の目に映る私という人物の総合体が、結局は自分なのだから。
 私は、もう一人の私がゆっくりと立ち上がるのを感じた。そして、そのもう一人の私の手が、何のためらいもなく子機の方に伸びていくのを、戸惑いながら見つめた。
 こんな時間に電話しても、妹が家にいるはずはない。今日は確か、ジャズダンスの日だから。そう、ぼんやり考えている自分が、一体誰なのか、よく解らなかった。

Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

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*タイトルバックに「CoCo*」の素材を使用させていただきました。


中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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