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「あれ、ボタンが取れてる」
 朝食後のコーヒーを飲んでいると、夫が寝室からリビングに戻ってきた。
 濃紺のスーツにピンストライプのネクタイが良く似合う。
 結婚して5年、優しくて気さくな夫は、私の友人たちにも人気がある。
「その背広、この前午前様だったときに着ていたものよね」
 最近急に増えた『付き合い』『接待』『仕事だからしょうがない』という言葉と深夜の帰宅。
 夫の端整な顔に微妙な影が走る。
「そうだっけ? しょうがないから別のにするか」
 テレビの音を小さくして、夫に向き直った。
 わざと真面目な顔で言ってみる。
「どこでボタンを落としたのかしらね。浮気相手の部屋?」
「まさか……」
 否定する夫の顔が、何かを思い当たったと語っている。
「冗談だってば。ボタンなら、ほら」
 私は笑いながらサイドボードの引き出しを開ける。
「ソファーの下に落ちてたの。大切な人のボタンが取れかかってることに気づかないなんて、ダメよね」
 可愛い妻を演じながら、取り出したボタンを手早く夫の背広に縫いつける。
 夫が遅かった日の翌日、親友の洋子の部屋で見つけたボタンを。
 長い付き合いの女友達。独身の彼女が私の幸せを妬んでいるのは知っていた。
「さあ、できたわ」
 いつもと変わりない私の笑顔に、夫は優しく答える。
「今日は早く帰るよ」
「美味しいお夕食を作って待ってるわね」
 そうよ、ただの浮気ですもの。許してあげるわ。
 でも、洋子のことは許せない。
 音量を戻したテレビの向こうでは、朝のニュースをやっていた。
 夫の愛人を焼殺した妻に、減刑の嘆願書が出されたそうだ。


***

 これはゴザンスで、「朝のニュース」「ぼたん」「冗談だってば」の三つのお題で800字以内で書いたものです。
 文字数やお題が設定されていると、難しい場合もありますが、イメージが浮かんできて書きやすい場合もあります。
 今回は、書きやすいと思いました。
 私の場合は、不審な点があるとストレートに相手に訊く&あまりたいしたことだとは思わないというタイプなので、こんなふうに日常生活でも演技をする女性を怖いと思います。
 でも、女性的な魅力という点では、こんなタイプはきっと素敵な女性なんだろうとも思います。
 私には無理。

Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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