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「次の連休、どうしようか」
 冷蔵庫を開けながら、麻美が唐突にそう言った。
「次の連休?」
 裕也はベッドの上から首を伸ばし、麻美の机の上の小さな卓上カレンダーを見た。
「何の日か覚えてる?」
 麻美は立ったまま、紅茶のペットボトルに直接口をつけて飲んでいる。
「そんな飲み方はよせって」
 裕也がそう言うと、麻美は笑いながらペットボトルを冷蔵庫に戻した。
「それにさあ、そんな裸のままで部屋の中をうろうろするのも、やめろって」
「はい、おじいさま。仰せの通りにいたします」
 麻美は笑いながらTシャツとジーンズを身に着ける。
「裕也もそろそろシャワーを浴びて、服を着たほうがいいよ。大学に戻らなくちゃ」
 その言葉に促されて、裕也はベッドから出た。
 一緒に受けているドイツ語演習が休講になったので、麻美の部屋で時間をつぶしていたのだ。次の授業は臨床心理学。これは三年生だけが受けるので、麻美とは別になる。
 裕也は、麻美の問いに答えるタイミングを逃したまま、シャワーを浴びた。
 
 同じ学部の一年下に、まるで少年のような雰囲気の美少女がいることは、かなり以前から知っていた。男女を問わず友人の多いらしい彼女は、いつも数人のグループの中心にいたので、話しかける機会は全くなかった。
 彼女が二年になり、上級生と同じ授業を受ける機会が増えてから、裕也は何気なさを装って彼女の近くの席に座り、内心ドキドキしながら気軽なふりで話しかけ、徐々に親しくなることに成功した。
 そして次の休日で、付き合い始めて丁度一年になる。二人の付き合いの一周年記念日に麻美が何を期待しているのかぐらい、解っているつもりだった。
 自宅から通っている裕也の場合、アルバイトの収入は総て自由に使うことができる。通学には時間がかかるし、親はうるさいが、一人暮らしの学生に比べて、色々な意味で恵まれているのは確かだ。
 だから、麻美の誕生日にはプラチナのブレスレット、クリスマスにはルビーのピアス、ホワイトデーにはブランド物のミュールと、何かのイベントがあるたびに、学生にしては背伸びしたプレゼントをすることができた。それも必ず、夜景の見えるレストランでのディナーを予約し、普段とは違う雰囲気を演出した場面で……。
 女の子は記念日が好きなのだ。だから二人の一周年記念日にも、どこかで食事をしてプレゼントを渡すつもりでいた。小さいけれど本物のダイヤが組み込まれたファッションリング。
 アクセサリーの中でも、指輪には他のものとは違う大きな意味がある。まだ婚約指輪としての意味を持たせるつもりはないので、わざとデザイン性の高いものにしたが、伊藤麻美という女が西野裕也という男と恋愛関係にあることの公開証明書のようなもの、もっとはっきり言えば、こんな言葉に麻美が気を悪くするのは確かだけれど、俺の女に手を出すなと他の男に宣言しているようなものなのだから……。
 
 そして、二人の付き合いの一周年記念の日。
「それは貰えないよ。解ってくれたと思ったのに」
 麻美は、裕也が差し出したプレゼントの中も見ずに、そう言った。指輪だとは、もちろん言ってない。
「気づいてくれたら、まだ可能性はあった。もう一度、考え直してみてもいいかなって」
 裕也には、麻美の言葉の意味が理解できなかった。
「ディナーの予約なんか必要ないって言った時点で、解ってほしかった」
 麻美の狭い部屋の中で、今日は小さなテーブルを挟んで向き合っている。いつもの麻美なら、裕也の体をクッション代わりにするのに。
「何を言ってるのか解らないな」
 裕也はテーブルの上を見つめた。麻美が受け取らないので、仕方なくそこに置いた小さなバッグは、中に入っているものの価値を誇らしげに主張するように、艶のある上質の紙でできている。
「何で別れる必要があるの?」
 裕也はできるだけ優しくそう訊いた。
「今まで何度も伝えようとしてきた。でも解ってもらえない。だから、別れるしかない」
 今日の麻美が、裕也の目を見ようともせずに、頑な態度だから。
「じゃあさ、最後にもう一度、伝えてみてよ」
 今日で最後と言われても、裕也は余裕を失ってはいなかった。女の子は時々わけもなくすねる。それはただ単に甘えたいだけなのだ。そう思っていたから。
「裕也を好きだから」
 目を伏せたままの麻美のその言葉に、裕也は一瞬笑いそうになった。なんだ、やっぱりと……。
「つい、合わせてしまう。裕也の期待通りに振舞ってしまう」
 麻美は顔を上げて真っ直ぐに裕也を見た。
「だから、このままだと成長できないの」
 言葉が出てこなかった。麻美の言っていることが理解できないのだから、返事のしようがないのだ。
「解ってもらえないよね、やっぱり」
 それきり、麻美はまたうつむいて黙り込んでしまった。
「それはおかしいんじゃないか」
 裕也は冷静さを保つ努力をしながら言った。
「一年も付き合ってきて、そんなふうに言われてしまう俺に問題があるのかもしれないけど、解ってもらう努力って必要なんじゃないのかな」
「そう、その態度……。裕也がどんな男になりたいのか解るよ。いつも大きな心で自分の恋人のわがままを聞く。何かあっても、しょうがないと笑って許す。子どもっぽい恋人をたしなめたり指導したり、寛大で優しくて男らしい男。理想的だよね」
「理想的なら、良いんじゃないの」
「そういう男になるために、自分が頑張って成長するならね。でも裕也は違う。自分が頑張る代わりに、私をいつまでも自分以下の、優越感の持てる可愛い恋人にしておきたいと望んでる」
「そんなことないよ。それはない」
「それって、ただ反射的に出た言葉だよね。ちゃんと考えたら、そんなにすぐには返事なんかできないもの」
 麻美のその言葉が裕也を黙らせる。裕也にとって一年も続いた恋愛は初めてだし、これからもずっと続きそうな気がしていた。少なくとも自分はまだ麻美に恋しているし、彼女の方も同じ気持ちだと思っていた。
「解らないよね、やっぱり……」
 解らない、確かに麻美が何を言っているのか裕也には解らなかった。でも、そう口にしてしまえば本当に終わってしまいそうで、他の言葉も思い浮かばず、裕也はただ、テーブルの上の黒いバッグを見つめていた。


Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

*自サイト(カメママの部屋)で発表されたキリ番プレゼント作品。
*タイトルバックに「LCB.BRABD」の素材を使用させていただきました。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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