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 夕方の駅は慌しい。
 急ぎ足で行き交う人の群れはいくつかの波となって男の両側をすり抜け、男を置き去りにし、彼方へ消える。
 人間の渦に攪拌され、僅かばかり温度を上げた真冬の空気が、男の体から体温を奪っているはずなのに、彼は汗をかいている。
 それは外界の気温には関係のない、彼自身の内側からにじみ出る冷え切った汗なのか……。
「よう、おっさん」
 男を取り囲む数人の少年たち。
「さっきから、何見てんだよ」
 男は何も見てはいない。
 茫然と見開いた目の、視線の焦点がどこに合っていようとも、それはほんの偶然にすぎない。
 彼が見つめていたのは自分自身の内部なのだから。
「ちょっとこっちに来いよ」
 少年たちに腕をつかまれ、引っ張られて、男はやっと自分の状況に気づく。
「だめだ、5分前なんだ……」
「女と待ち合わせでもしてるっての? だったらおとなしく言うとおりにすればいいんだよ。5分もあれば、用事は済むからよ」
 少年たちは男を無理やり引きずっていく。
 急ぎ足の人の群れは、誰もそんなことには気づかない。
 余計な面倒には目を向けないようにしているのだ。
「やめろ、2分前だ」
 駅の裏の狭い空き地まで引きずられながら、男は必死に声を上げるが、少年たちは薄笑いを浮かべるばかり。
「早く金を出せよ」
「何の金だ」
「慰謝料だ、決まってんだろ」
 少年たちの後ろから二人の少女が現れる。
 制服の短いスカートから眩しく伸びた若い脚。
「あいつらの膝小僧をなめるようにずっと見てたろ。見物料でも慰謝料でも何でもいいからよ、さっさと金を払えよ」
「だめだ、20秒前だ、逃げろ」
「このおっさん、頭おかしいのかよ」
 少年たちが笑い声を上げた瞬間、2本の針が重なった。
 それは大きくニュースとして取り上げられた。
 日本でも自爆テロが起きたのだ。
 無関係な高校生男女数人を巻き添えにして。
 駅の外だったことは、多くの人々にとって幸運ではあったが。
 男の部屋にあった遺書は、その存在も内容も国家機密にされた。


Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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