T-Timeファイル表紙に戻る 中里奈央 作品集

 チョコレートケーキが焼きあがった。ナッツをたくさん入れたのは、もちろん邦実の好物だからだ。甘くて香ばしい匂いが漂い始める。

「おっ、ケーキか。いいね」

 リビングで新聞を読んでいたはずの夫が、いつのまにか私の後ろに立っている。接待ゴルフが中止になり、暇を持て余しているのだ。

「結局、今日はどこにも出かけないの?」

 できるだけ何気なくそう訊いた。

「なんだ、俺が家にいると邪魔?」

 私に向ける笑顔は若い頃と変わらない精悍さだ。と言うより、中年を迎えて魅力を増しているかもしれない。その瞳に映る私自身も結婚して十年以上たつが、子どもがいないせいか昔と変わらないとよく言われる。

「そろそろ邦実君が来る時間か……」

 夫が壁の時計とケーキを見比べながらそう言った。クニミという名前を口にするときの独特な感じは、不審と疑惑を隠すために装(よそお)ったさりげなさに違いない。田村邦実と私の間にあるかもしれないもの、または、これからありうるかもしれないものへの……。

「そうね、本当に変な子。せっかくの日曜日に教師の家に遊びに来るなんて」

 私は高校で田村邦実に英語を教えている。一年の頃から彼は時々友人と共に私の家に遊びに来た。二年生になってからは一時頻繁に来ていたが、突然ぱたりと来なくなり、今日は久しぶりの来訪なのだ。

 色白で小柄な邦実には他の男子生徒のような男臭さがなく、素直に私に甘える態度も可愛らしくて、子どものいない私にとっては生徒と言うよりも息子のような存在だった。一人の美しい異性として意識するようになったのは、つい最近のことだ。

 長くて濃い睫毛(まつげ)が影を落とすせいか、彼の目元はいつも煙っているようで、どこを見ているのか定かではない。でもその視線はいつも私を追い、時には釘付けになっていると、私は信じていた。

 女子生徒に人気があり同性の友人も多い邦実が、休日にデートをするでもなく友人と遊ぶでもなく教師の家に来るのは、私に会いたいからという以外に何の理由があるだろう。
 
 夫にはいてほしくなかった。夫と邦実は何度も顔を合わせてはいるが、そのたびに流れる微妙に気まずい空気は、私をいつも困惑させた。もしかすると、今日のゴルフを中止にしたのは夫自身ではないのだろうか、邦実と私を二人きりにするのが不安だったから……、そんな気さえした。
 
 約束の時間丁度に、邦実は小さな花束を持って現れた。マーガレットの似合う、しかもマーガレットより美しい少年を、私は他に知らない。華奢な体つきは中性的で清潔感に溢れている。はにかんだような笑顔は眩しくて直視できないほどだ。
 
 白いポロシャツとジーンズという気軽な格好なのに、学校で見るよりも大人に感じるのは何故だろう。私は高鳴りだした胸を押さえながら花束を受け取り、邦実をリビングに通した。
 
 ソファーでゴルフクラブを磨いている夫にぎこちない態度で挨拶をし、邦実は夫の向かい側に腰を下ろした。その一瞬絡まりあった二人の視線、私という女を間にした二人の男の無言の対話。
 
 その気まずさから逃げるようにキッチンに行き、ケーキを切り分けた。冷静でいなくてはいけないと自分に言い聞かせながら紅茶を淹れてリビングに戻ると、二人の姿がない。
 
 リビングに続く和室にも誰もいない。玄関には邦実の白いスニーカーがそのままだ。私はまさかと思いながら階段を上がっていった。二階には寝室と書斎、それに納戸として使っている洋間がある。夫が妻の若い愛人をゴルフクラブで撲殺……。そんなイメージが頭の中を駆け巡る。
 
 まず書斎のドアを開けた。部屋の真ん中に大きな造り付けの本棚があり、その両側が私と夫それぞれのスペースになっている。山積みの資料で雑然とした空間には、人のいた気配はない。
 
 隣の寝室のドアを開けた瞬間、私は自分の目を疑った。キングサイズのベッドの上から私に微笑みかける裸の二人。邦実と夫……。
 
「おいでよ」

 そう私に言ったのがどちらなのか、よく解らなかった。全身の力が抜け、立っているのがやっとだ。

「三人で完璧になる」

 夫のその言葉の意味が理解できない。

「色々考えたけど、言葉で説明するよりも、解ってもらえると思ったんだ」

 身動きすることも、言葉を発することもできずにいる私に向かって、二人が笑いかける。

「これが理想なんだって、先生にもすぐに解るよ」

 筋肉質の浅黒い夫の体と、ほっそりした天使のような邦実の体が、ベッドからおりて近づいてくる。

「ずっと夢だったんだ、こうなるのが……」

 邦実の手が私の頬に触れる。吸い込まれそうなほど美しい目が、私を間近で見つめる。

「愛してるよ、二人とも……」

 夫がそう言いながら、私と邦実を一緒に抱き寄せる。

 しっかりと密着してくる二つの肉体。首筋を這う唇の感触と、髪を撫でる掌の優しい動き。
 
 これが現実のはずはない、私はどうかしてしまったのだ……。

 そう思っている意識とは別の次元で、自分の体が次第に熱くなるのを、私は確かに感じていた。


Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

* タイトルバックに「 TREASURE 」の素材を使用させていただきました。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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