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 電話が鳴る。今夜もまた……。
 
 毎日、深夜十二時が近づくと、私は震える手で携帯電話を握り締め、高鳴る胸に押し付けながら、一人きりの夜に沈み込む。

 自分が待っているものが本当は何なのか、私には解らない。そもそも自分がそれを待っているのかどうかも、だんだん定かではなくなってきている。もしかすると、もう何も起きないこと、電話など鳴らないことを期待しているのかもしれない。それでも私は、この瞬間を完璧なものにするために、自分の一日の総てを捧げずにはいられないのだ。

 ごく普通のOLとして、毎朝会社に通う。顧客に向ける業務用の笑顔に、非の打ち所はないはずだ。電話の応対は感じが良いと言われるし、端末の操作も手馴れているつもりだ。昼休みには一緒にランチを楽しむ親しい同僚が何人かいるし、若い女性らしい話題には一応詳しい。時には悔しい思いをしても、するべき仕事はきちんとこなす。社会人としての私は、周囲に適応して何の問題もなく生きている。

 しかし、それでも私は、もう以前の私ではない。平凡な現実とは既に隔たっている自分、日常の世界から引き離されている自分に気づいてしまった私の毎日は、ただ電話が鳴るこの瞬間のためにだけ、あるのかもしれない。

 着信音が私の中に呼び覚ます悲しみ、苦しみ、愛しさ、そして恐怖……。
 私はできるだけの平静さを装い、ゆっくりと電話に出る。
 もしもし……。
「アア……オレ……」
 私は、溢れそうな涙をこらえる。
「変わりない?」
「アア……カワリ……ナイ」
 もう限界に近づいているのが、たどたどしくなっている口調で解る。私の言葉をなぞる以外に、意味のあることは言えなくなっているのだ。
「愛してる?」
「アイシ……テル……」
 こらえきれない涙が頬を濡らすのを感じながら、私は明るい声を出す。
「また、明日ね」
「マタ……アシ……タ……」
 切れた携帯電話を抱きしめながら、私は声を上げて泣く。

 遠距離恋愛を続けていた彼が車で崖から落ち、即死してしまったのは二ヶ月以上前のことだ。私に会うための片道三時間の道を、少しでも早く走り抜けようとしていたのだろう。
 一日も欠かされたことのない定期コールは、彼が亡くなったことをまだ知らずにいたその夜もかかってきた。急に行けなくなったと告げる声に元気はなかったけれど、私は何の不審も抱かなかった。
 事故の知らせに駆けつけて、彼の冷たい体にすがって泣いた夜も、電話はかかってきた。
「今週は行けそうにないんだ。ごめん」
 無理に口を開いているようなゆっくりとした口調、体の奥からやっと絞り出したような重い声。それでも私は、彼がどこかで生きていること、死んだのは肉体だけだということを信じた。多少の驚きや戸惑いはあっても、恐怖など微塵も感じなかった。
 自分自身の葬式の夜も、彼は欠かさず電話をくれた。
「当分、会えないかも……シレナイ……」
 自分の死を受け入れることができずにいるのか、後を追いそうな私を心配しているのか、それともただ単に、私への強い執着からか……。

 毎晩かかってくる電話の声からは少しずつ生気が消え、言葉は不明瞭になっていく。彼が今度こそ本当に私から遠い存在になってしまう日が近づいているのだ。
 彼を完全に失ってしまうのだろうか。それとも、夜毎の電話はこのまま永遠に続くのだろうか。そのどちらを望んでいるのか、私は自分でも解らない。言葉を失った彼が、ただ沈黙を送りつけて来る瞬間の恐怖を予感しているだけだ。

 永遠に彼を失うこと、永遠に彼に囚われること、自分では選びようのないその二つの暗闇の間を揺れ動きながら、私はまるで自分自身が死んだ人間のように受話器を握り締める。

 そしてまた、電話が鳴る。


Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

* タイトルバックに「 Monochrome」の素材を使用させていただきました。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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