T-Timeファイル表紙に戻る 中里奈央 作品集

 突然の雨に追い立てられ、私は小さな雑居ビルの地下へ続く階段を駆け下りた。
 何件かの店のドアが並んでいる中で、アーチ型の木製のドアが私を呼んでいる気がした。『黒猫』という文字が浮き彫りになっている。
 営業中の札さえ下がっていない、店内の様子も全く解らない、そんな拒絶的な雰囲気になぜか心を惹(ひ)かれ、とりあえず小降りになるまでの雨宿りにと、重いドアを押し開けた。

 
 雨の夜より暗い店内、静かに流れるマル・ウォルドロンのピアノソロ……。
 私は誘われるように中に入った。客は一人もいない。
 狭い店にはカウンターと小さなテーブルが二つあるだけだ。照明と言えるものは、その二人掛けのテーブルの真ん中に置かれた小さなステンドグラスのランプ以外、カウンターの内側にある、作業の手元を照らすためのクリップライト一つだけ。
 そのライトを避けるように、座面の高いカウンターチェアに腰掛けたとたん、どうぞと言う声とともに乾いたタオルが差し出された。
「降ってきましたか」
「そうなの、濡れるのは嫌いなのよね」
 左の肩をていねいに拭いてから、髪やスーツをざっと拭き、礼を言いながらタオルをカウンターの向こう端に置くと、それは吸い込まれるように暗闇に消えた。
 いつのまにか、水の入ったグラスが目の前に置かれている。そこに浮いている氷を見ながら、私は言った。
「ホットミルクをいただくわ。お砂糖抜きのぬるめでね。それにしてもこのお店、随分暗いのね。マスターの顔さえ見えないわ」
「明るくすると影ができる。それがいやなんですよ」
 落ち着いた声が答える。
 クリップライトに照らされていた手が背後の暗闇に消えた。
 と思った次の瞬間、冷蔵庫内の青白い灯りが男の姿をほんの一瞬浮かび上がらせた。
 黒っぽい服装のやせた男性と思うまもなく、冷蔵庫のドアが閉まる音とともに、その影絵のような映像は消え、クリップライトのせいで余計に際立つ闇が男を覆い隠した。
 透明な瓶から真っ白なミルクをカップに注ぐ手は、男らしくて美しい。その手の動きに心を惹かれていく自分を取り戻すように、私は訊いた。
「影ができるのがいやって、どうしてかしら」
「何年か前に、猫を殺してしまったことがあるんですよ」
 ミルク瓶を戻した手が、カップを持ち上げて電子レンジに入れる。そんな動作のたびに、わずかな灯りにほんの一瞬浮かび上がる男の姿は、美しい手の持ち主にふさわしい端整さだ。
「猫……?」
 私は思わず自分の左肩を右手で押さえた。この動きは、いつのまにか癖になってしまっている。ふと気づくと、私はいつもこの動作をしているのだ。
「そんなつもりはなかったんですが、たまたま女に振られて苛立っていたせいでしょうね」
 落ち着いた低い声が、店内に流れる繊細なピアノのタッチと混ざり合い、不可解な呪文のように私の内部に入り込む。
「道路の真ん中にいたその猫が、私を見ても避けようともしなかったので、自分の進路を妨げている、自分をばかにしている、そんな気がして、たまたま落ちていた石を投げたら、まともに額の真ん中にぶつかって……」
 男は、そこで話を中断した。
「ぬるめでしたね、これでどうでしょう」
 目の前に、レンジから出されたばかりのカップが置かれる。私は一口飲んで温度を確かめ、カップを少し傾ける。
「そうね、ちょうど良いわね。それで、その猫の話と影が嫌いな話と、どういう関係があるのかしら」
「猫はパックリと割れた額から血を流し、私の顔を目掛けて飛びかかってきたんです。死のまぎわに最後の力を振り絞ったんでしょうね」
 私は少し軽くなったカップを置き、自分の胸を抱くようにして、また左肩を手で押さえた。
「私を睨む二つの目は金色に光り、大きく開けた口の中は真っ赤でした。真っ直ぐに突き出された二本の前足は、明らかに私の目を狙って鋭い爪をむき出しにしていた。やられると思った瞬間、猫はスーッと私の体に入り込んだ」
「入り込んだ?」
「そうです。私の顔から入り込み、首を通って胸で留まるのを感じました。そして私と一体になった」
「一体になったって、どういうことかしら」
「私という人間の半分は、その猫なんです。明るい場所では影ができる。猫の形の影が」
「猫の形の影……」
「ええ、そうです。確かに自分の影なのに、ピンと立った二つの耳と長い尻尾がある」
 男はどこからともなくグラスを取り出すと、ピッチャーの水を注いで一息に飲み干し、話を続けた。
「だから私はそれ以来、明るい場所には出られなくなった。猫の形の影が、どこまでも付きまとってくるんですからね。幸いなことに自分にはこの店がある。普通のバーだったこの店をこんなふうに暗くして、一生暗闇の中で生きていこうと決めたんです」
 淡々と語る男の言葉を聞きながら、私は再びカップを持ち上げて、すっかり冷めたミルクを一口飲むと、左の肩へと少し傾けた。
 黙りこんでしまった私をどう感じたのか、男はのどの奥で笑いながら言った。
「もちろん冗談ですよ。お客さんの雨宿りの退屈しのぎに、即興で作ったほんの小話というところです」
 私は空になったカップをカウンターに置くと、暗闇の中の男を見つめた。闇の中で、金色の二つの目が光ったような気がした。
「ただ単に、暗いところが好きなんです。落ち着くんですよ。こんなふうにしていると」
「そう。だったら、今度は私が即興でお話をする番ね」
 私のその言葉に、男は笑いを含んだ声で答えた。
「お客さんが私を楽しませてくれるんですか。それは光栄です。ぜひお聞きしたいですね」
「私のこの左の肩には、猫がいるのよ」
 男はその言葉を聞くと、またのどの奥でくっくっというような抑えた笑い声を上げた。
「猫が左の肩にね、それは面白い」
「そうよ。だから、さっきから左の肩を気にしてるの。彼女の名前はミミ」
「ミミ……。可愛い名前だ。しかし、一体どうしてお客さんの肩にミミがいるんですか」
「私はミミと二人で暮らしていたの。夜も同じベッドで一緒に寝たわ。でも私に恋人ができて、彼が部屋に泊まった最初の夜のこと。私と彼がベッドで愛し合っていたら、突然ミミがベッドの上に飛び上がってきたの。そして私と彼の間に入り込み、いきなり彼を引っかいた」
「嫉妬したのかな」
「多分、彼が私をいじめていると思ったんじゃないかしら」
 私はそこで言葉を切って、マスターの表情を見ようとしたが、もちろん暗闇の中に隠れた顔の表情など読めるはずもない。しかし私には、すっかりリラックスした彼の愉快そうな笑顔が見えるような気がした。
「彼は驚いてミミをつかむと、思いっきり放り投げた」
 私はそこで、わざと大げさに左の肩に手をやり、顔を傾けて話しかけた。
「思い出したのね、ごめんね。この話はすぐに終わるから」
 私は再び顔の見えない男に向き直り、話を続けた。
「ミミはドレッサーに激突したの。鏡が割れるほどの勢いだったわ。すぐに抱き上げたけど、全身を痙攣させて動かなくなった。彼に頼んで動物病院に片っ端から電話をしてもらったけど、土曜の深夜だったせいかしら、どこも留守番電話になっていて通じなかった。そのうち、ミミの体はどんどん冷たくなっていったわ。でも私はミミが死んだなんて認めることはできなかったの。ミミを抱きしめたまま朝まで泣いていた。そのうちきっと眠り込んでしまっていたのね。ふと気づくと夜が明けていて、ミミは私の左の肩にいた」
「どうして左の肩なんです」
「どうしてなのかしら。きっと、一番私と会話がしやすい、内緒話のできる場所だからかも」
「それ以来、ずっと一緒なんですか」
「そういうことね。ちょっと重いけど」
 私は含み笑いをしながら、そう言った。
「大変面白いお話でした。お客さんから楽しませていただけるなんて、思ってもみなかった。これは私からのお礼です」
 目の前にグラスが置かれた。
「オレンジジュースです。のどが渇いたでしょう」
 私は礼を言って、グラスを持ち上げた。男の視線が私に釘付けになっているのを感じながら、こくのある冷たい液体を飲み干した。
「そろそろ雨も止んだかしらね」
 闇の向こうの男を見つめ、左の肩を押さえながら言った。
「ミミが眠くなってきたらしいの。ミルクを飲んで、お腹がいっぱいになったせいね」
 私がそう言うと、男は笑いの混ざった親しげな調子で、しかしていねいな言葉遣いを守りながら答えた。
「ここからでは外の様子は解りませんからね。良かったら、傘、お持ちになりますか」
 男はそう言いながらカウンターの外に出た。
「男物の古い傘ですから、お客さんには似合わないでしょうが、もしまだ雨が降っていたら、こんな傘でもないよりはましでしょう」
 店の入り口に置いてある陶器の傘立てから黒い傘を持ち上げて私に見せると、また元に戻した。
「お帰りになるときには、これをどうぞお持ちください。返していただく必要はありませんから。どうせ、かなり前に客が忘れていって、そのままになっている傘ですし……」
 そう言ってカウンターの中に戻った男にホットミルクの料金を払い、立ち上がって傘を持ち上げた。
「必ず、また来るわ」
 そう付け加えて店を出ようとすると、男に呼び止められた。
「ところで、お客さんの恋人はその後どうしてるんですか」
「ミミを殺した男が、生きていられるはずはないでしょう」
 私がまじめな調子でそう言うと、暗闇の向こうから笑い声が聞こえた。のどの奥からもれる抑えた笑い声ではなく、心底おかしいとでも言うような、嬉しさと楽しさの混ざった幸せそうな笑い声が。


 階段を上がって外に出ると、雨はさきほどまでの勢いはなくしていたが、まだ降り続いていた。
 私は傘を開き、その紳士用の大きな傘の中にすっぽりと隠れながら、濡れた舗道を歩き出した。そして『黒猫』のマスターのことを考えた。
 カウンターの外に出た瞬間、確かに彼の影がはっきりと浮かび上がった。影というより、しなやかで美しい彼の姿かたちそのものが。
 無意識に街路灯の下を避け、暗い方を選びながら歩く自分に気づき、ふっと笑い出しそうになった。
 いつもの習慣で、影ができないような場所を選んで歩いてしまう。今は大きな傘の中にいるのだから、その必要はないのに……。
 私は、両手で握っていた傘の持ち手から右手を離すと、左の肩に手をやった。
「仲間って結構いるものね」
 小声でそう話しかけると、眠そうな声がミャーと答えた。


Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

* タイトルバックに「 DHD Photo Gallery 」の素材を使用させていただきました。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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