T-Timeファイル表紙に戻る 中里奈央 作品集



>> 一 <<

「あら、やっとお出まし……」
リビングのソファーにだらしなくもたれながらコーヒーを飲んでいた安田は、部屋から出てきた私と真奈美を見比べながら言った。
「お昼ご飯の仕度はしてあるから、早く食べちゃいなさい。全部きれいに食べてよ。残されると後片付けが大変だから」
 リビングとキッチンを仕切るカウンターテーブルの上に、冷えたチキンライスが置いてあった。
 母の留守の日に安田の用意する昼食は、いつも冷蔵庫の中にある材料をフライパンの中で適当に混ぜ、一枚の皿に盛ったものだ。料理が下手なわけではなく、時間と手間を惜しんでいるのだ。
 母が家にいるときは休みなしによく働くが、母がいないときの安田は、最低限度の仕事を済ませると、テレビを見ながらお茶ばかり飲んでいる。ソファーの真ん中に重そうな腰を下ろし、スリッパを脱いだ両足を大きなお尻にくっつけるようにして座ると、あとはもう、なかなか動こうとしない。
 真奈美と並んでカウンターに向かい、チキンライスを食べ始めた私の横に、コーヒーカップを持った安田が腰を下ろした。
「今日も学校に行かなかったのかい。ここの奥さんも子どもには随分厳しいのに、おかしなところで甘やかすよ。いつまで学校を休ませる気でいるんだろうね」
 奥さんという言葉に妙なアクセントを置いて、嫌味な口調でそう言った。
「心配して来てくれる先生か友達か、誰かいないのかい。皆に見捨てられた子どもをほったらかしで置いといて、平気で遊び歩く母親って、どういう神経なんだろうね」
 私は母の悪口を言われたくなかったが、抗議することもできずに黙って安田を見た。しわとしみの上に厚塗りした化粧が、口を動かすたびに剥がれ落ちそうだった。
「随分小さいけど、来年の春にはもう中学生になるんだってね。休んでばかりで大丈夫なのかい。普通の学校に行けるのかねえ。掛け算はできるのかい、割り算はどうだい」
 私は悲しくなって下を向いた。掛け算だの割り算だの、それくらいはもちろんできる。本を読むのが好きな私は、難しい漢字もたくさん知っているし、英語の小説だって、辞書さえあれば読めるのだ。
「きれいな顔をしているのに、やっぱりちょっと知恵が遅れているのかね、可哀想に……」
 安田はカウンターの椅子の上で太った体を窮屈そうに座りなおすと、私の方に顔を近づけた。化粧とコーヒーの臭いに混じって、酸化した油のような老人臭さが漂ってきた。
「何かしゃべってごらん。どうして学校へ行かないの。いつも何を考えてるの」
 前の家政婦より良い人だと思っていたのに、やっぱりみんな同じなんだ……。
 私は、途方に暮れて真奈美の手を握り締めた。安田は細い目で値踏みするように私と真奈美を見ている。
「あんたたちが二人きりのときは、よくしゃべってるじゃないの。それなのに、あたしには何も言えないのかい。何か言ってごらんよ。自分の名前は、年は……?」
 追い詰められた私の目からもう少しで涙がこぼれそうになったとき、真奈美がいきなりカウンターの上に身を乗り出し、置いてあったコーヒーのカップを安田に向かって投げつけた。中身は半分も残ってはいなかったが、白いエプロンの胸の辺りに茶色のシミが広がった。
「なんてことするの」
 安田はあわててカップを拾い上げ、箱からわしづかみに出したティッシュを胸に押し付けながらキッチンの布巾を取り、カウンターの上を拭いた。
「大変、椅子もカーペットも汚れちゃったじゃないの。悪いのはあんただよ、恐ろしい子だ」
 顔を引きつらせて怒鳴っている安田から逃れて、私と真奈美は子ども部屋に駆け込んだ。
「なんて嫌なやつ。あんたのことを知恵遅れだって言ったわ」
 真奈美の顔は怒りのために青ざめていた。しかし私は安田に腹を立てるよりも、汚してしまった椅子とカーペットのことが心配だった。
「シミが落ちなかったら、お母さんに怒られるわ」
「何よ、それくらい。安田のせいじゃないの。私がお母さんに言ってあげるわよ」
「だめよ、真奈美が何か言ったりしたら、私が怒られるのよ。お願いだから黙っててよ」
 母は、真奈美のことになると異常に神経質だった。真奈美が自分の気に入らないことを言ったり、したりするたびに、美しい顔を夜叉のように豹変させ、何もしていない私の方をヒステリックに怒った。
「悪いのは安田じゃないの。どうして、はっきり言わないのよ」
「声が出ないんだもの。知ってるじゃない」
「人の顔色ばかり見て、いつもおどおどしてるからよ。だから学校でもいじめられるのよ」
「学校なんか、もう絶対に行かない。お母さんも行けとは言わないもの」
「あんたのことなんか、どうでもいいからよ。あの人は、あんたを嫌いなんだから」
 涙が出そうになってうつむいた私に、真奈美は追い討ちをかけるように言った。
「香奈美、これ以上、安田に馬鹿にされたり、お母さんに怒られたりしてもいいの?」
 黙っている私に、真奈美は勝ち誇ったように言った。
「一つだけ方法があるじゃないの」


>> 二 <<


 前の家政婦だった木村も、私の目には安田と同じくらいの年寄りに見えたものだが、今思うと、厚化粧の安田より十歳以上も若かったのかもしれない。安田ほど居丈高ではなかったが、口うるさく私たちに干渉してきた。
 緊張すると声が出なくなってしまう私に何度も話す練習をさせようとしたり、無理に学校へ行かせようとしたり……。木村は私たちにとって、ただ迷惑なだけの存在だった。
 一人で私と真奈美を育ててくれた祖母が九ヶ月前に亡くなった後、母に引き取られてからの半年ほど、通いの家政婦として私たちの面倒を見てくれたのは木村だった。実の母親らしからぬ冷淡な母の態度を見かねて、自分なりに私たちを教育し、しつけようとしたのだろう。しかし、自分たちの境遇の変化に慣れるだけでも精一杯だった私は、何かとうるさい木村をどうしても好きになることはできなかった。
 もちろん、だからと言って、木村の死を願ったことなど一度もない。八月のあの事故のとき、真奈美の意図していたことに気づいたのも、全てが終わってからだった。
 その日、私と真奈美はマンションの北側の壁をらせん状に伝っている非常階段の踊り場にいた。七階建てのマンションの最上階の非常口の外から、下を通る人や車を、風に吹かれながらぼんやりと見下ろしているのは、私にとって、何も考えなくていい安らかな時間だった。そんなときには真奈美の皮肉な意地の悪さも影を潜めるのだった。
「また、こんなところで遊んでる」
 マンションの廊下と非常口を隔てる重いドアを開けて、木村が化粧気のない顔を出した。
「危ないからここに来てはいけないって、いつも言ってるでしょう。さあ、早く帰りましょう」
 強く手首をつかまれるままに立ち上がったが、一緒にいた真奈美は階段に座り込んだまま動こうとしない。
「私、足が痛くて動けない」
 苦しそうに顔をゆがめている。
「木村さん、真奈美を助けて、ここまで連れてきて」
 木村は私をにらむと、しぶしぶ鉄の階段を一段下り、腰をかがめて真奈美の方に手を伸ばした。
 そのとき、どうして木村が悲鳴を上げたのか、どうして彼女の体が勢いよく転げ落ちて行ったのか、私には解らない。そしてその後、どんなふうに人が集まってきたのか、自分が誰にどうやって部屋の中まで連れてこられたのかも、何も覚えていない。ただ誰もが、母でさえも私に優しかった。それはちょうど祖母の葬式のときのようだった。
 いつも元気でしっかりしていた祖母が、入浴中に心臓発作を起こし、浴槽の中で溺れて亡くなったのは今年の二月のことだった。
 母に初めて抱かれたのはそのときだ。母の良い香りに包まれ、温かな胸に顔をうずめながら、私はそのとき初めて、母親に抱かれることの素晴らしさを知った。でも、一緒に暮らすようになってからの母は、一度も私を抱いてくれたことなどなかった。それどころか、子どものせいで自分の人生は台無しだと言って急に不機嫌になることも多かった。
 高校を中退して私たちを産んだ母は、まだ若くて母親のようには見えない。真奈美に言われるまでもなく、母には自分の子どもを可愛がる能力も愛情もないことぐらい、私には解っていた。だから、木村の事故の日、普段は自分のことにしか関心のない母が珍しく母親らしい態度を見せ、片時も私たちを放さずにいてくれたことが、私を甘い心地よさで包み込んだ。
 木村の体は長い階段を転げ落ち、全身の骨を折って即死だった。警察の人間が事故の様子を知ろうとして私にあれこれ尋ねたが、母は、恐ろしい事故を目撃してショック状態に陥っているわが子をかばう優しい母親の演技を完璧にやってのけ、私には何も話をさせなかった。もっとも、私や真奈美に何かを言わせようとしても、どうせ無駄に終わったろうけれど。
 木村の死には不審なところは何もなく、非常階段で遊んでいた仕事先の子どもを連れ戻そうとして誤って落ち、運悪く死亡したとして処理された。
 その日ずっとおとなしくしていた真奈美は、夜になってベッドの中でやっと口を開いた。
「うまくいったわね、香奈美」
 笑いをかみ殺したような声でそう言うと、真奈美はスタンドの小さな明かりだけになっている部屋の中で、瞬きもせずにじっと私を見つめた。
「わざとやったの?」
「あんた、木村をうるさがってたじゃない。だからやってあげたのよ」
「私のためだって言うの? 真奈美のしてきたこと全部……。嫌いなおかずをこっそり捨てたり、気に入らない洋服をやぶいたり……」
「そうよ、香奈美。あんたのやりたいことを代わりにやってあげてるのよ。お母さんが可愛がっていた、あの真っ白い猫を窓から投げたのも、熱帯魚の水槽に漂白剤を入れたのも、全部あんたのためにやったのよ。大切にしている生き物がみんな死んじゃえば、お母さんの愛情も少しは自分の方に向けられるんじゃないかって、あんたが思ってるからよ」
「そんなこと、考えたこともないわ」
「嘘はやめなさいよ。自分はそれ以上のことをしたくせに」
 真奈美の瞳に急に浮かんだ強い憎しみの色に、私は途方に暮れた。
「それ以上のことって、何?」
「あんたって、都合の悪いことはすぐに忘れるのよね。おばあちゃんのときもそうよ」
「おばあちゃん? おばあちゃんがどうしたって言うの?」
「解ってるくせに、すぐにしらばっくれるのよね。あれも、あんたのためにやってあげたんじゃないの」
「おばあちゃんを殺したって言うの?」
「すごく寒い日だったわね。おばあちゃんったら、お風呂の中から何度もあんたを呼びつけて、背中を流せとか、タオルの替えを持って来いとか、あまりうるさいから、馬乗りになってお湯の中に顔を沈めてやったのよ」
「そんな……」
「おばあちゃんって、いつも怒ってばかりだった。あの日の昼間も、また怒ったでしょう。だいぶ前にお隣から貰ったお菓子をいつまでも仏壇に飾ってさ、あの日おやつに出してくれたときにはすっかりカビだらけになっていたから、私がこっそり捨てたら、後でゴミ箱からそのお菓子を拾ってきて、もったいないってすごい剣幕だった。そして無理やり私たちの口にそのお菓子を詰め込んだわ」
「カビが生えてることに気づかなかっただけよ」
「お菓子を貰うと、わざと腐らせてから、やっとくれるのよ。いつもそうだった」
「だからって、そんなことでおばあちゃんを殺すなんて……」
「感謝してよね。私のおかげでお母さんと暮らせるんだから。こんなきれいなマンションでね。もうあんな貧乏暮らしはしたくないでしょう」
「真奈美ったら、どうしてそんな怖いことばかり言うの?」
「だって本当のことだもの。あんたは自分さえ良い子でいられるなら、何も文句はないんでしょう」
「真奈美、もうそんなことはやめて。お母さんを悲しませるようなことは二度としないで」
「それなら大丈夫よ。木村が死んだからって、お母さんは悲しんじゃいないわ。おばあちゃんのことだって、余計なお荷物がなくなってほっとしてるのよ。それにね香奈美、今まで一番お母さんを悲しませたのはあんたなのよ。どうせまた忘れてるんだろうけど……」
 そう言って笑い続ける真奈美の隣で、私はいつまでも震えていた。
 そしてそれから三ヶ月が過ぎ、事件の後すぐに見つかった新しい家政婦は、またも私と真奈美の静かな日常を脅かす邪魔な存在になっていたのだった。


>> 三 <<


 初めて父に会ったのは、このマンションで母と暮らすようになって間もなくだった。フリルのたくさん付いたピンク色のワンピースや、髪に結んだレースの大きなリボンが、嬉しいような重苦しいような気分で私を緊張させた。
 テーブルの上に飾られた色とりどりの花の甘い香りは、私の呼吸を苦しくさせた。行儀良くおとなしくしているように言いつけられて、真奈美の手をしっかりと握りながら不安な気持ちでソファーに座っていると、その人が来た。
 大人の男に慣れていなかった私にとって、その人は途方もなく大きく見えた。白髪の混ざった髪の毛や目じりのしわ、糊(のり)の効いたワイシャツの襟やゆっくりとした威厳のある動作、太い声や周りに漂う煙草の匂い……。その何もかもが珍しく、また怖くもあった。
 真奈美と一緒にその人のひざの上に抱かれて髪をなでられても、緊張は解けなかった。母が神経を張り詰めて、私が気に入られるかどうかを窺っているのを感じ取っていたから。
 お父さんと呼ぶように言われたが、その人と自分との間には血のつながりがないことは解っていた。少しも親しみを感じなかったが、自分がその人に気に入られるかどうかということが母の人生を左右することが理解できたので、大きな厚い手のひらで体を触られ、ざらざらした頬を顔に押し付けられても、じっと我慢していた。
 会うたびに少しずつ、その人の抱擁は息苦しさを増し、愛撫は執拗になっていった。そして、その人に抱き締められて途方に暮れる私を母はいつも見ないふりをしながら、そのくせ怒りと憎悪のこもった鋭い視線をほんの一瞬、私にぶつけては顔をそむけた。私もまた、相手の都合次第でどうにでもなってしまうような弱さを体中から発散している母、その弱さによって強いものを惹き付けようとしている母に、いつも嫌悪を感じるのだった。
 その日、父は大きな包みを抱えてやって来た。そして私を自分の隣に座らせた。
「香奈美、おみやげをあけてごらん」
 父にはもう何度も素敵なプレゼントを貰っていた。ドレス、アクセサリー、本やCD、ぬいぐるみ……。でも今日のプレゼントは、今までで一番私が喜ぶのを父が期待している、そんな気がした。
 テーブルの上の大きな包みには、赤いリボンがかけられていた。ずっと握っていた真奈美の手を離し、私はゆっくりとリボンを解いた。父の太い指が私の長い髪をかき分けながら、首筋や背中、腰の辺りまでを執拗に這い回っていた。そして、その指の先から沸騰した血が送り込まれてくるように、私の体も熱くなっていくのだった。
 できるだけさりげなく父から体を離し、弾みそうになる呼吸を整えてから箱を開けると、緑色の大きな瞳が私を見つめていた。金色の巻き毛に縁取られたふっくらとした顔は恥じらいを含んでピンク色に上気し、繊細な手の指はたった今動きをとめたばかりのように微妙な形で赤いスカートを押さえていた。
 箱の中に一人きりで、心細い思いでいたに違いない。私は思わず、その新しい友達を抱き上げた。
「気に入ったろう、フランス製でなかなか手に入らないものなんだよ」
 父が真奈美を見ながら言った。
「良かったわね、香奈美。こんな可愛いお人形をいただいたんだから、もうそっちの人形は捨てなさいね」
 母は私にそう言うと、父に笑いかけた。
「都合の悪いことがあると、何でもその人形のせいにする癖も、これで治るかもしれないわ。よりによって真奈美なんていう名前をつけて……。今度はもっと人形らしい名前をつけさせるわね」
「ああ、その方が良いだろう。人形を相手に一人でおしゃべりをするくらいのことは、まあいいとしても、今のままではちょっと心配だからね」
 茫然としてその会話を聞いていた私の手から、真奈美が人形を払いのけた。
「何するの、香奈美。せっかくお父さんが買ってきてくれたお人形を……」
 あわてて人形を拾い上げた母の手に、金色の長い髪の毛が絡まった。
「香奈美にはそんな人形なんかいらないわよ」
 真奈美はそう叫ぶと、私の手を引っ張って逃げ出そうとした。
「待ちなさい」
 人形を持ったまま、母が私の肩をつかんで引き戻し、頬をぶった。続けてぶとうと振り上げた手を父が押さえた。
「絢子、やめなさい。香奈美はまだ子どもなんだから」
「あなた、ごめんなさい。せっかく香奈美のために買ってきてくださったのに」
 そう涙声で言いながら母が父の胸にもたれかかったのを視界の隅に映しながら、私と真奈美は子ども部屋に逃れた。


>> 四 <<


「さっきは何よ、あんな人形なんかを喜んじゃって」
 二人きりになるなり、真奈美は私をにらみつけた。
「だって、三人で仲良く遊べたら楽しいかなって……」
「ああそう。私のことを捨てろと言われても、ぼんやり笑いながら、あの人形を抱いてたわよね」
「笑ってなんかいなかったわ。真奈美を捨てろと言われてショックだったのよ」
 私は何とかして自分の気持ちを解ってもらおうと必死だった。真奈美に見捨てられてしまったら、独りぼっちになってしまう……。
「私の友達は真奈美だけよ。あんな人形なんか、新しいからちょっときれいなだけで、私の気持ちを解ってくれるわけじゃないもの。真奈美だけよ、真奈美だけ……」
 涙が溢れ出して頬を濡らした。
「だからもう怒らないで。私を嫌いにならないで」
 私のその言葉を聞いて、真奈美は満足そうに言った。
「私ね、一つ解ったことがあるの」
 私の涙を拭きながら、真奈美は茶色の瞳を輝かせた。
「あいつさえいなければ、お母さんは感情を乱されることはないわ」
「あいつって、お父さんのこと?」
「私と二人きりのときまで、お父さんだなんて呼ぶことはないわ。あいつにいつもされてること、もう耐えられないんでしょう?」
 私は何も言えずにうつむいた。
「自分の娘が愛人にもてあそばれるのを見せ付けられるから、お母さんはいつも気持ちが不安定なのよ。あいつさえいなければ、私たちは皆幸せになれるんだわ」
「でも、お父さんがいないと、お母さんが困ると思うわ」
「そんなことないわ。ほかに家庭があって時々しか来ないような人を待ってるから、いらいらするのよ。もう来ないとなればすっきりするわよ」
「でも……」
「いい? 香奈美……」
 真奈美は真剣な表情で私の顔を覗き込んだ。
「私が油の空き缶や割れたガラスなんかと一緒くたにされて、臭くて湿っぽいゴミ箱の中に押し込められてもいいって言うの? そして、そのままごみの車に投げ込まれて、どこか遠いところに埋められてしまうのよ。私をそんな目に合わせても平気なの?」
「そんなこと言わないで。真奈美がいなくなったら、どうしたらいいのか解らない。絶対に真奈美を捨てたりしないわ。本当よ」
 大きな茶色の瞳に青ざめた顔が小さく映っていた。真奈美の中の自分自身を見つめながら、私は涙をぬぐった。
「私、真奈美と一緒にいられるなら何だってするわ、本当よ」
「そうよね、信じるわ。香奈美と真奈美はいつも一緒だったんだもの。これからだって二人は一緒よ。だからもう泣かないで」
 私に顔を寄せた真奈美が次の言葉を言いかけたとき、突然、勢い良くドアが開けられた。
「香奈美、もういい加減にしなさい」
 目を吊り上げて青い顔をした母が、部屋に入ってくるなりそう言うと、私の手から真奈美を取り上げた。
「ああっ、やめて、返して」
 真奈美を取り戻そうとした私の手は、母に強くたたかれた。父が後ろから、母の興奮をなだめるように言った。
「落ち着きなさい」
「この人形のせいなのよ。これさえ捨ててしまえば、香奈美も普通になるわ」
 そう言いながら、今にも倒れそうな弱々しさで父にすがりついた母は、自分を抱き締めようともしてくれない父の態度に何を感じたのか、再び恐ろしい表情で私をにらんだ。
「香奈美、早く謝りなさい。ほら、こっちの人形を貰うのよ。お父さんにありがとうって言いなさい。さあ早く……」
 新しい人形を私に押し付けながら、そう言って責めたてる母のヒステリックな声が頭の中いっぱいに響き、私を押しつぶした。そしていつのまにか、私は新しい人形を抱いていた。真奈美は母の手の中で、私の方を見ようともしなかった。
「さあ、香奈美、今日からこのお人形で遊ぶのよ。それに、真奈美のことはもう忘れなさい。いつまでも真奈美がまるで生きているみたいに……」
 そう言いながら泣き出した母を、父が部屋の外へ連れ出した。一人残された私は、茫然として新しい人形を見ていたが、その人形を抱いていることは真奈美を裏切ることのように思われて、あわてて自分の手から払いのけた。
 どうして何も言ってくれなかったのか、どうしておとなしく母につかまれたままで行ってしまったのか、真奈美は私を見捨てたのだろうか。
 頭の中が真っ白になり、自分の体を支えることもできずに、私はその場にうずくまってしまった。
 いつも一緒だった真奈美、物心付いたころからたった一人の話し相手、たった一人の友達だった真奈美。その真奈美を失ったら、自分はこれからどうやって生きていったらいいのだろう。私は、その心細さ、その孤独感に、気が遠くなりそうだった。
「香奈美、香奈美……」
 どこから聞こえてくるのか解らずに部屋中を見回す私の目が、床に投げ捨てられていた新しい人形の上で止まった。
「ふふふ……。違うわ、私はここ、あんたの中よ、香奈美」
 乱れた金髪に縁取られた白い顔は、ただ美しいだけの空虚な人形のそれだった。私は、その華やかな真紅のドレスを着た人形を恐る恐る抱き上げた。
「違うったら。そんな人形を抱くのはやめなさいよ。私はあんたの中にいるって言ってるでしょう」
 私は人形を床に下ろすと、自分の胸を押さえた。
「私の中って……。真奈美、本当なの? 私の中に真奈美がいるの?」
「大きな声を出しちゃだめ。また立ち聞きされてるかもしれないんだから。とにかく、早く私の体を取り返してよ」
「でも、どうすればいいの? 私、できない」
「できないって? 香奈美、私の体はね、あんたが私を殺してまで欲しかったものじゃないの」
 私の目から涙がこぼれ落ちた。でもそれは、真奈美の涙かもしれなかった。


>> 五 <<


 こっそりと部屋を出て、リビングの様子を窺った。静かにほんの少しドアを開け、その隙間から中をのぞいた。
 母がうつむいた肩を震わせて泣いていた。並んで座っている父は、ウイスキーのグラスをもてあそんでいる。
 母の横には真奈美の体があった。ソファーの端に無造作に投げ出され、細い腕を、救いを求めるように伸ばしている。
 髪をつかんでわざと乱暴にぶら下げていた人形を、私は改めて見つめた。きれいなだけのすました顔には何の感情も浮かんではいない。空っぽで冷たいただの人形……。
「喜んでくれると思ったんだが……」
 父が困惑したような声で言った。
「香奈美を私の籍に入れるということは、元々君の希望だったんじゃないか。その手続きを昨日済ませた。だから今日は予定を変えてわざわざ報告に来た。それの一体どこがいけないのかね」
「あなたの欲しいのは、あの子だけよ。そうなんでしょう。私はどうなるの?」
「そんな心配しなくても、今までどおりでいいだろう」
「でも、あなたの足は遠のくばかり……」
「そんなことはないだろう。こんなにしょっちゅう来てるじゃないか」
「私じゃない、香奈美に会いに来てるんだわ。あなたはあの子が欲しいのよ。私にしたようなことを、あの子にもしようとしている」
「馬鹿なことを言うんじゃない。私は香奈美を養女として籍に入れたんだ。家に引き取って大切に育てるつもりだ」
「あの子は普通じゃないのよ」
「香奈美が学校へ行けないのなら、きちんと家庭教師をつけて勉強をさせる。ろくにものも言えないと思っていたが、人形相手ならちゃんとしゃべれるじゃないか。信頼できる医者も知っているし、私に任せなさい」
 父が辛抱強い口調でそう言うと、母の目からまた涙が溢れ出した。
「あの子を妊娠したとき、私はまだ十五歳だったわ。相手は実の父親よ。私のお腹が大きくなりだすと、家を出て行ってしまって、それっきり。私は毎日、母に罵られながら、それでも何とか子どもを産んだけど、可愛いなんて思えなかった。生活は苦しくて、昼も夜も働いた。私の代わりに母が子どもたちを育ててくれたわ」
「子どもたち……?」
「そうよ、私の双子の子どもたち。香奈美と真奈美」
「双子……?」
「母は私を憎んでいたの。だから二人に感情をぶつけたのね。子どもたちの腕や足はあざだらけだった。でも、私はいつも疲れきっていて、何もかもどうでも良かったのよ。二人が小学生になったばかりのころ、香奈美が一人でずぶ濡れになって帰ってきたの。何も言わずに、見慣れないお人形を抱き締めるだけ。私、真奈美を探しに行ったわ。いつも二人が遊んでいた公園に走って行ったら、池のそばに人が集まっていた。その真ん中に真奈美がいた。びっしょりと濡れて、真っ白な顔をして、身動きしないで横たわっていた。すぐに救急車が来て病院に運ばれたけど、そのまま意識は戻らず、翌日あっさりと死んでしまった。その後すぐに真奈美を殺したのは香奈美だという噂が立った。公園のゴミ箱から真奈美が人形を拾うところを誰かが見ていたって。それで、香奈美がそれを欲しがって真奈美と喧嘩になり、池に突き落としたんだろうって……」
「香奈美がそんなことをするはずがない。あんなガラス細工のように繊細な子が……」
「でも、香奈美はあの日、ずぶ濡れだったの。真奈美を突き落としただけじゃないのよ。池の中で争って、真奈美を殺したんだわ」
「何を言うんだ……」
「あの日以来、香奈美は家の外には出なくなった。毎日、家の隅にうずくまっているだけ。あの人形を肌身離さず抱き締めてね。そして、誰も見ていないときに色々ないたずらをしては、あの人形のせいにする。人形を取り上げようとすると、狂ったように暴れて手がつけられなくなる。私、このままなら自分までおかしくなるような気がして、怖かったの。それに、私を憎んでいる母の態度もつらくて、家を出たわ。お金を毎月届けたから、それで責任を果たしているつもりだった。そして、あなたに出会った。私、この幸せを失いたくないの。あなたをあの子に奪われたくないわ」
「私たちの関係は今までどおりだよ。香奈美を養女にするだけなんだから。今の話を聞いてやっと解った。不幸な生い立ちと目の前で双子の片割れを失ったショックが、香奈美の異常の原因だったんだ」
「いいえ、そうじゃないわ。香奈美には真奈美の霊がとりついてるのよ」
「馬鹿なことを言うんじゃない。真奈美が死んだことに耐えられず、人形を真奈美の代わりにしていたんだ。心の病気だよ。明日にでも病院へ連れて行こう」
「あなたには、あの子の恐ろしさが解らないのよ」
 そう言って泣き出した母を父が抱き寄せるのを見たくなくて、ドアをそっと閉め、私はそのまま静かにマンションの廊下に出た。ひどい混乱に陥っていた。母の言っていたことが全然理解できなかったのだ。動揺のあまり、強い吐き気がした。非常口のドアを押し開けると、外の冷たい空気が私の心を満たした。
「そうよ、香奈美、木村のときと同じでいいのよ」
 頭の中で、真奈美の声がする。
「安田を先にやるつもりだったけど、どっちが先でもかまわないわ。それに聞いたでしょう、あんたはもうあいつの籍に入ってるの。遺産を相続できるのよ。お母さんも喜んでくれるわね」
 真奈美の声は楽しそうだ。
「今に、あの人があんたを探しに来るわ。お母さんと一緒だとしても、急な非常階段に落ちている人形を拾うのは父親の方よ。あんたが呼びに行ってもいいんだわ。買ってもらったばかりの人形を階段の途中に落としてしまったけど、怖くて取れないとか何とか言ってね」
「でも、真奈美のようにうまくできるかどうか解らない」
「あら、お母さんが言ってたことを聞いても、思い出さなかったの? あんたは人を突き落としたり、水の中に沈めることにかけては、小さな子どものころからすごく上手だったのよ。何も心配することなんかないわ」
 いつの間にそこに置いたのか自分でも解らなかったが、鉄の階段の四段目に人形が横たわっていた。
 非常口の常夜灯の小さな明かりの下で、人形のドレスがぼうっと赤く光っている。


Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

* タイトルバックに「パンチヤマダ」の素材を使用させていただきました。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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