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 眩しい光、新鮮な空気。
 その瞬間は、いつも突然にやって来る。
「大丈夫?」
 優しさと愛情に溢れた声。
 私は、目覚めたばかりの途惑いで答える。
「もう夏になるの?」
「ああ、夏だよ。やっと夏になった。どんなにこの日を待ちわびていたことか……」
 強張っていた肉体が徐々に柔らかさを取り戻し、凍り付いていた血がゆっくりと体の中を流れ始める。
「毎日この瞬間だけを夢に見ながら生きてきたんだ。美しいよ。現実のお前は記憶の中のお前よりも美しい」
 そんな褒め言葉も、まだ半分眠っているような状態の私の耳には、ぼんやりとしか届かない。
「早くここから出して」
 棺桶のようなベッドにいるのはもう嫌だ。私は、じわじわと人間らしさを取り戻す。
 中腰で私を抱え上げた彼は、シャワーを浴びた直後らしく石鹸の良い香りを漂わせている。
 弾力のある絨毯の上に私を下ろすと、彼は荒く弾み出した呼吸をなだめるように胸を押さえた。その瞬間、ふっと老人臭を感じた気がした。でもそれは、すぐに石鹸の香りに紛れて消え去った。
「こんなことぐらいで心臓が苦しくなるのね。もう年ね」
「久しぶりに会えたんだ、ドキドキするのは当然だよ。それに僕は、一年ごとに年老いていく」
「そうね。私とは年齢が開いていくばかり……」
 彼は悲しげな目で私を見つめ、無理に明るさを装うような冗談めかした口調で言った。
「今年は何だか機嫌が悪いね」
「良いはずないでしょう。目覚めるたびに、恋人がどんどん老人になっていくのよ」
 そう、彼は年老いてきた。髪には白髪が混ざり、顔の皮膚はたるみ、体には余計な脂肪がつき、姿勢は悪くなり……。
 私は胸にこみ上げる思いを隠すために、彼から視線をそらし、わざと冷たい声を出す。
「昔のあなたは素敵だった」
「ああ、僕はもう昔の僕じゃない」
「もっと自信に溢れていて、傲慢だった」
「自信も傲慢も、若さと無知のせいだよ」
「そんな当たり前のことなんか、昔のあなたは言わなかった」
 彼は言い合いから逃げるように、ソファーの背もたれに掛けてあったバスローブを手に取り、私に着せようとした。
 彼の腕を乱暴に避けながら、私は全裸のままソファーに腰を下ろす。
「惨めな男なんか嫌いよ。惨めで哀れな初老の男は特に」
 彼を見ずにそう言いながら、テーブルの上の大きなグラスを持ち上げた。彼が私のために用意した特製のドリンクが入っている。
「解ってるよ。新人の研究者に優秀な青年がいる。あと数年もしたら、お前の相手にふさわしくなるだろう。それに彼なら、夏だけでなく、お前が一年中生きていられるような方法を考えてくれるはずだ」
 その言葉を聞きながら、私は濃くて冷たい液体を飲み干した。冷たく感じるのは口に含んだ瞬間だけで、のどを通り過ぎたとたん私の体温を上げ、内臓を活性化させるのが解る。
「そうなったら僕はもう引退するよ。お前の前にも現れない」
 その弱気な口調に私の怒りが爆発した。これ以上自分を抑えることができなくなって、私は思わず、空のグラスを彼に向かって思いっきり投げつけた。
「どうして解ってくれないの。どうしてよ」
 怒っているはずなのに、私は泣いていた。しかも、幼児のように大きな声を上げて。
「解ってるよ」
 穏やかな言葉とともに、厚手のバスローブが私を包み込んだ。そのまま彼の胸にすっぽりと抱かれて、私は泣き続けた。
 涙で歪む視界の中にグラスがあった。投げた瞬間、彼にぶつからないように思わず角度を変えたせいで、絨毯の上に転がっている。
「解ってる、解ってるよ」
 彼は私を抱きながら、その言葉を繰り返す。そんな優しさが余計に私を苦しめる。
「解ってないわ、あなたは何も解ってない」
 彼の片手が壊れ物を扱うように私の体を抱き、もう片方の手がゆっくりと私の髪を撫でる。
「良い子だから、落ち着いて」
「私は良い子なんかじゃない。あなたは私を良い子には造らなかった。わがままで高飛車で冷淡で、でもベッドの上では激しい女、そんなふうに造った」
「ああ、本当にそうだね。僕の責任だ」
「責任なんか関係ない。私はあなたを愛してるの。あなたがどんどん年老いて、弛み切った贅肉の塊になっても、私が愛するのはあなただけなの。それがどうして解らないのよ。若い研究者なんかに興味ないわ。惨めなあなたなんか見たくな
い。昔のように、傲慢な自信家でいてほしいの」
「解ってるんだよ。でも、もう無理なんだ。お前を満足させることはできない」
 怒りよりも悲しみが、激情よりも切なさが、私の弱さを露呈させる。
「その存在だけでいいの。あなたそのものだけで……」
 私のその言葉にうろたえたように、彼は自分の体から私を引き離す。
 そう、いつもそう。私の激しさは彼を昂揚させ、弱さはそれに冷水を浴びせる。
 彼が求めているのは高慢で冷淡で自分しか愛せない女。愛という言葉を一つの便利な武器として扱う女。彼はそういうふうに私を造り、そんな私を支配することで自分の強さを確認し、そして年老いた今では、そんな私に踏みつけにされる自分に酔っている。
 私の存在理由はそれだけだ。もちろん、最初から解っていた。彼の理想の女として振舞うこと、彼の中にドラマを生み出す女であり続けること、彼の言いなりにならないことが実は彼の望みであること……。
 その理想からはずれたら、永遠の闇に葬られる。でもそれは少しも怖くない。私が怖いのは、彼が生きる気力を失うことだ。
 私は、私を見つめる優しい目の奥にある冷酷な光をはね返すように立ち上がると、彼を見下ろしながら言った。
「そんな贅肉だらけの醜い体で私に近寄らないで」
 彼の顔が悲しみで曇る。その悲しみが彼にもたらす喜びを、引き裂かれるような痛みの中で、私は見つめる。

Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

*投稿競作サイト「あるテーマにまつわる短編集」の課題テーマ「ぶよぶよとした」の参加作品。
*タイトルバックに「LCB.BRABD」の素材を使用させていただきました。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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