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 年老いた祖母が、可愛い孫をおんぶしている……。
 初めてネコババアを見た人は、誰でもそう思うだろう。
 ビロードの背負い紐を腰の前に回してしっかりと結び、背中の赤ん坊には可愛いベビー用の帽子をかぶせ、さらにその上からすっぽりとはんてんをかけている。
 彼女は、その格好で買い物に行き、郵便局や銀行で用を足し、バスや電車に乗った。
 両手を後ろに回し、赤ん坊のお尻を支えるようにしながら、ネコババアは、絶えず背中の赤ん坊をあやす。
 彼女がどれだけ赤ん坊を可愛がっているかは、その様子を見ただけですぐに解る。子ども好きの人なら、思わず近寄って、自分も赤ん坊をあやしてみたくなるだろう。
 でも、白いベビー帽の中にあるのは、無邪気に微笑む赤ん坊の顔ではない。それは、異常に肥満している、年老いた猫の顔だ。


 近所の子どもたちが集まる児童公園で、古タイヤでできた大きなロボットの上によじ登ったり、鉄棒にぶら下がったり、ブランコに乗ったりしていた小学生の頃から、ネコババアは私の身近にいた。
 公園の一角の小さな植え込みの周りを、赤ん坊を喜ばせるための踊るような足取りで歩いたり、砂場の横にあるベンチに斜めに浅く腰掛けたりしながら、背中の猫をあやしていた。
 彼女はいつも、自慢の孫を周囲の人々に見せびらかすような態度で、わざと人目を引くように大げさに猫に話しかけた。
 遊んでいる子どもたちが駆け寄ってきて、皆で自分を取り囲み、口々に猫を可愛いと言いながら、なでたりあやしたりするのを望んでいるのだと、子ども心にもはっきりと解った。
 実際、子どもたちも、ネコババアを見かけるとみなで近寄って猫の顔を覗き込み、キャーキャーと声を上げて騒いだ。
 でもそれは、決して可愛らしさへの歓声ではなく、気味の悪いものへの揶揄や嘲笑だった。
 そして、ひとしきり楽しむと、やがて子どもたちは子どもだけの健全な遊びに戻る。ぐずぐずして、いつもネコババアに捕まってしまうのは、気の弱い私だけだった。
「ゆかちゃん、触ってもいいんだよ」
 ネコババアは、親しげに私の名前を呼ぶと、自分の背中の猫を私の顔に近づけるようにする。ベビー帽のレースに縁取られた大きな猫の顔が、私の鼻先に来る。むっとする獣の臭い……。
「太ってるでしょう、運動不足と食べ過ぎのせいなんだわ。だけど可哀想で、食べ物を我慢させることなんかできないわね。だからどんどん太ちゃって、もう、自分では動けないんだわ。だから、いつもおばさんがおんぶしてやんなきゃないの。赤ん坊と同じ」
 何度も聞かされたことなのに、まるで初めて聞くように、うなずいてしまう。
 古い集合住宅の一角で、猫を伴侶に一人で暮らしている老女の人恋しさや寂しさが伝わってきて、私は、ほかの皆のようにネコババアを振り切って遊びに戻ることができない。
 動物など、まして年老いた肥満の猫など好きではなかったが、私は、少しでもネコババアの期待に沿わずにはいられないような気持ちになって、猫の顔を覗き込む。
 騒々しい子どもたちからやっと解放されて、幸福な夢見心地で目を閉じていたらしい猫は、私の気配を感じると、ぎょっとしたように眼を見開く。金色に光る大きな目が私を凝視し、まばたきもしない。
「マリコ、ほらマリコ、ゆかちゃんだよ。お友達だよ」
 ネコババアがマリコというその猫に話しかけると、マリコはニャーと、か細い声を小さく上げ、あなたの存在を認めてあげるわとでも言いたそうに、私を見つめる目を細め、再び、うつらうつらと白昼の眠りの中に吸い込まれていく。そして私も、やっとネコババアのそばを離れることができるのだった。


 単なる気の弱さが、私を、ネコババアにとっては、特別に親しみの持てる存在だと錯覚させてしまっていた。
 彼女は、私が中学生になって、児童公園では遊ばなくなってからも、道を歩いている時、バスを待っている時、私を見かけるといつも必ず親しげに私の名を呼び、話しかけてきた。
 近隣では知らない人のいない、気味の悪い変わり者と思われているネコババアが、まるで家族のように親密な態度で接してくることが、思春期の私、ただでさえ気が弱く内気だった私にとって、どれだけ恥ずかしいことだったか、私と同じように嫌といえない、すぐに相手のいいなりになってしまう人間には、解ってもらえるだろう。


 ある初夏の夕暮れ時、私は久しぶりに児童公園にいた。同じクラスの明美と和也の三人で、学校の帰りにまっすぐ私の家に行き、部屋で音楽を聴いた後、公園で花火をやることにしたのだ。
 当時一番の親友だった明美と、春に転校してきた和也が急速に親しくなって以来、私たちは時々三人で遊んでいたが、私の部屋に和也が来るのは初めてだった。
 いかにも都会育ちという雰囲気の和也に、私は以前から淡い好意を抱いていた。その和也が自分の部屋に、自分のすぐ近くにいるという事実に、私は胸がときめくのを抑えることができなかった。

 長目に伸ばした前髪をかきあげる指の動きも、組んだ脚を音楽に合わせて軽くゆする神経質そうなしぐさまでもが、和也にはよく似合っていた。そんな洗練された少年は、それまで私の周りにはいなかった。
 しかし、もちろん和也は親友の彼氏だった。たとえそうでなくとも、私と明美が一緒にいたら、どんな男の子でも、可愛い明美を選ぶに決まっていた。自分の気持ちは押し隠すしかなかった。
 三人で家を出たのは、暗くなりかけてからだった。近くのコンビニで花火を買い、公園に行くと、まだ数人の小学生が遊んでいた。
 彼らが家に帰ってしまうまで待つことにし、ベンチに腰掛けて話をした。と言っても、話すのはもっぱら明美で、和也がそれに言葉少なに答え、私はただ聞いているだけだったけれど……。
 そこにネコババアが、いつもの格好で歩いてきた。気持ちのよい初夏の夕暮れなので、マリコと一緒に散歩でもしようと思ったのだろう。私はネコババアに見つからないように下を向き、ベンチの上で、できるだけ小さく体を屈めた。
「ほらマリコ、ゆかちゃんだよ。久しぶりだね。マリコのお友達……」
 必死の願いも叶わず、ネコババアはそう言いながら近づいてきた。
 こんな異様な風体の老婆に親しげに話しかけられるところなど、和也にだけは見られたくなかった。
 私は勢いよく立ち上がると、家から持ってきたライターをポケットから出しながら、ネコババアを気にしている明美と和也の注意をそらすように言った。
「花火やろうよ。もう、小さい子もいなくなったしさ」
 明美はネコババアを何度か見かけたことがあるに違いない。私がネコババアに親しげに名前を呼ばれるのを見て、一体どう思っただろう。
 転校生の和也は、家が少し遠いこともあり、ネコババアを知らないはずだ。まるで、私の祖母のような態度をとる老婆の背中にいるのが、赤ん坊ではなく気味の悪い猫だということに、もう気づいてしまっただろうか。
 私は、気が遠くなりそうな思いで、花火の入った袋から適当に一本選ぶとライターで火をつけ、大げさにはしゃいだ。そして、ネコババアから明美と和也を引き離すために、公園の中央の広場に行こうと二人を促した。
 いつも無口でおとなしい私の突然の変化に驚いたらしく、明美と和也は戸惑いの表情を浮かべて互いの顔を見合わせていた。
 しかし、ネコババアは、憎らしいほどの鈍感さで言った。
「マリコ、ほら花火だよ。きれいだねえ」
 そして、ますます私に近寄ってきた。
 よりによって、明美と和也の目の前でネコババアに親しげに話しかけられ、醜く肥満した猫のお友達などと言われながら、一緒に花火をやる羽目には絶対になりたくなかった。
 私は、袋の中からネズミ花火を取り出して火をつけ、それをネコババアの足元に投げつけた。
 深い意味はなかった。私はただ、ネコババアが怖かったのだ。これ以上、近づいてきてほしくなかった。どこかへ立ち去ってほしかった。彼女が、私から総てを奪うような気がしたのだ。
 明美も和也も離れていってしまう、学校でも馬鹿にされる、そう思ってしまった。だからただ、ネコババアがこちらへ来るのを邪魔したかった。それだけだ。
 勢いよくシュルシュルという音を立て、赤い火花を上げながら、予測もつかない激しい動きで、ネズミ花火はネコババアを襲った。
 驚いたネコババアは、ヒューッと大量の空気が漏れたような音を胸の奥から響かせると、顔を引きつらせ、もつれたような足取りで、這うようにして公園を出て行った。その背中で、マリコが大きな金色の目を見開き、私をじっと見つめていた。
 その後、私たちは、気まずい雰囲気の中で花火を続けた。
 明美は、まるで他人に向けるような冷たい目で私を見たし、和也は、私から目をそらし続けた。私だけが一人、引っ込みのつかない思いで、ヒステリックにはしゃいでいた。
 翌日から、私はまた、元の内気な気の弱い私に戻った。そして、年老いた人間にひどいことをしてしまったという後悔に苦しめられた。

 数日後、新聞の地方版に小さな記事が載った。
『七十六歳の女性、孤独な死』
 隣の住人に発見された老婆の遺体の横には、巨大な猫の死骸が寄り添うように寝ていたそうだ。老女の死因が心臓発作、猫は餓死だったそうだ。
 明美と和也がその新聞記事を読んだのかどうか、私は知らない。二人の仲はどんどん深まり、他のことなど気にもならないようだった。
 私はそのまま二人とは疎遠になり、そしてその記憶を、長い時間をかけて意識の底に閉じ込めた。自分が一人の老女と一匹の猫を殺してしまったのだという事実を抱えたまま、生きていくことなどできなかったから。
 そう、私はずっと忘れていたのだ。生きるために、辛い記憶と罪悪感を無理やり抑えつけて、ぴたりと蓋をしてきた。
 それなのに今、ネコババアは私のすぐそばにいる。


 婚家の長い廊下を洗濯物を抱えて歩いているとき、御影石の門柱を雑巾で磨き上げているとき、ヒノキの浴槽を汗だくになって洗っているとき……。
 ふと気づくと、ネコババアが私を見ている。
 玉の輿ともてはやされた結婚をし、家風に合わない恥ずかしい嫁と言われながら、女中のように働く日々。
 優しかった夫は、結婚したとたん冷酷な本性をむき出しにし、まともに相手にしてもらえない私は、使用人にも侮られるありさま。
 舅が決めた名前に嫌と言えず真理子と名づけた娘をおんぶして、一日中、姑に命じられるまま、広い家の中をアリのように這いずり回って家事をする私は、まだ二十代だというのに、すっかり老けて干からびている。
 一歳を過ぎたばかりの娘は、まだ歩けないし何も言葉を話せない。一日中、私の背中でうつらうつらと寝ているだけだ。
 時々、鏡越しに、どういう光の加減なのか、金色に光っているように見える目を大きく開き、働きずくめの私を、瞬きもせずに見つめていることがある。
 そんなとき、真理子と名前を呼んでやると、か細い声を小さく上げ、また、気持ち良さそうに寝てしまう。
 ぴかぴかに磨き上げた家中のガラスや鏡の向こうから、ネコババアはいつも私を見つめている。
 猫の顔をした赤ん坊を背負い、疲れきって寂しげだ。
 孤独で辛いと、誰でもいいから話し相手がほしいと、ネコババアは訴える。

Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

*この作品は、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」に掲載された作品です。
*タイトルバックに「LCB.BRABD」の素材を使用させていただきました。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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