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 今日も幼稚園をお休みした。
 一人でちゃんと起きて制服も着たのに、ママがベッドから出てこない。
 このごろ毎日、寝てばかりで、マコが呼んでも起きてくれず、何かよく解らないことをつぶやくだけだ。
 どんよりした目をやっと開いても、すぐに重そうに閉じてしまう。そして、枕もとのお酒を飲んでは、また寝てしまう。
 これなら幼稚園に行く方がいい。ケンちゃんに髪を引っ張られたり、アキちゃんにクレヨンを折られたり、先生に制服がしわだらけだと注意されたり……。
 そんなことばかりだから幼稚園は嫌いだけど、でも、寝ているママのそばに一人でいるよりはいい。
 ゲームは一人じゃつまらないし、絵本も全部、何度も読んだ。
 マコの一番好きなのは、ケガをして苦しんでいる馬を、泣きながら殺して楽にしてあげるお話。苦しみを取り除いてあげるのが本当の愛情なのよって、ママが言ってた。
 でも、ママが好きなのは、眠ってばかりいるお姫様のお話。読んでくれるのは、その絵本ばかり。
 自分も寝ていれば、いつか素敵な王子様が来てくれるって、ママは思ってるのかな。パパは王子様じゃなかったのかな。
 ママの白いドレッサー。オルゴールがぶつかって、鏡にはひびが入り、ほこりやこぼれたパウダーで汚れてるけど、面白いものがたくさんある。
 化粧水だけでもピンクや透明、薄い紫とか何種類もあるし、金色のキャップの小さな美容液のビンはとてもきれいだ。
 青や緑や紫のアイシャドー、赤やオレンジのマニキュアの小瓶、ブドウや白鳥の羽や、色々な形をした香水のビン……。
 でも、マコが一番好きなのは、花模様のかごにまとめて入れてある口紅だ。
 金色のマークが浮き彫りになっている黒いケースを一本取り出した。キャップを取って軸を回すと、真っ赤な口紅が出てきた。ママの一番好きな色。
 これをつけたママが幼稚園のお迎えに来ると、なっちゃんもケイちゃんもほかのみんなもキャーキャー叫び、魔女が来たと言って逃げ回る。
 でもママは、お酒のせいでいつもぼーっとしてるから、自分のことだとは気づかない。みんなで楽しく遊んでるんだと思ってる。そして、その中に入れないマコを悲しそうに見る。
 マコには友達がいないけど、でも、ママだって同じだ。
 ほかのママたちは、お迎えに来ると、お互いに笑い合っておしゃべりをし、今日はどこの家で子どもを遊ばせるかを相談しながら、二人とか三人とかで連れ立って、その子どもも仲良く手をつないだりして一緒に帰る。
 誰とも話をしないで一人きりなのはママだけだ。
 よそのママたちは、マコのママを見ると体をよけるようにしてそっぽを向いてしまうから、しょうがないかもしれないけど……。
 みんなはママを魔女だと言うけど、マコにはママが一番きれいに見える。
 青いアイシャドーをつけた切れ長の目も、真っ赤な唇も、茶色に染めた長い髪も、ほかのママたちとは全然違う。レースやフリルのついたピカピカのロングドレスに、大きなイヤリングやネックレス、遠くからでも解るほどの香水の匂い……。


 お迎えに来る格好ではないわよねと、ほかのママたちが噂してるのは知ってるけど、でも、おしゃれをしてるときのママは、とても豪華で素敵だ。
 だけど、お酒を飲みすぎたときのママは、しわやしみが目立つ素顔のままで、ぱさぱさの髪を輪ゴムで束ね、まるでお婆さんみたいだから恥ずかしい。
 それでも、ちゃんとお迎えに来てくれるときはいい。時々、お酒を飲みすぎて、来てくれない日がある。そんな時は先生がママに電話をかけて、マコちゃんがかわいそうでしょうと言って怒る。
 あわてて車でかけつけるママは、二日酔いのむくんだ顔で、大きく広がった髪を振り乱し、何日も洗濯していないパジャマや、コーヒーのしみのついたトレーナーの上に、豪華な毛皮のコートを羽織っていたりする。
 幼稚園でいじめられるのが辛くて、お休みしたいと言うと、ママはほっとしたような顔で、決まってこう言う。
「じゃあ、今日は送り迎えをしなくてもいいのね。それならママが一
日中、遊んであげるわ」
 でも、遊んでくれるのは、ほんの少し。絵を描いても本を読んでも、ママはすぐに疲れたと言ってタバコを吸い、お酒を飲んで寝てしまう。
 今日も寝てばかりだから、マコはその間に鏡に向かって、きれいにおしゃれをしようかな。マコがきれいになれば、ママはもっと遊んでくれるかもしれない。
 ママの気に入ってる口紅やアイシャドーや香水をたくさんつけたら、マコはきっと、ママのお気に入りのマコになれるよね。

 
 鏡の中に、もう一人のマコがいる。お化粧をして楽しいはずなのに、なんだか泣きそうなピエロみたい。
 赤い口紅は唇から大きくはみ出し、青いアイシャドーは、二本目の眉毛のようにまだらな線になっちゃってる。
 香水をつけようとビンのふたをはずした瞬間、中身がこぼれて部屋中に濃い匂いが立ちのぼった。
 あわてて制服のスカートで香水を拭いていたら、急にトイレに行きたくなった。でも、ママのそばから離れたくない。眠ってるママを揺り動かしてみたけど、
「ママは疲れてるのよ。どうして解ってくれないの」
と、寝言のように答えただけで、起きてくれない。大きな泣き声を上げてみたけど、だめだった。パパなら、マコが泣けば、すぐに飛んできて抱き締めてくれるのに……。
 階段を下りてトイレに行くまで我慢できそうもないし、寒い廊下に出るのも嫌なので、このままここでオシッコをしてしまおうっと。
 ベッドの下には、ママの赤いガウンや黒い下着、ボアのスリッパやタオルケットなんかがちらかっている。ふわふわとした綿ぼこりや長い髪の毛、丸めたティッシュも落ちていた。
 その場にしゃがむと、すぐにじわっとパンツが温かく濡れてきた。よくなじんだ懐かしい臭いがして、足元のカーペットにしみができ、それはママの下着やスリッパにも広がっていった。
 オルゴールが転がっていたので、オシッコをしながらネジを巻いてみたけど、音はしなかった。ママが投げたときに壊れてしまったらしい。天使の形のオルゴールを、ママはとても気に入っていたのに……。
 オシッコが全部出てしまうと、急に寒気が来て、身震いしてしまった。濡れたパンツを取り替えたくて、ママのタンスの引き出しを開けた。
 ぎっしりと詰め込まれた色とりどりの下着を手当たり次第に取り出して、ピンク色の光ったパンティを選んだ。きれいなレースがフリルになっている。
 ぬいだパンツは引き出しの奥に入れ、濡れた手を紫色のスリップで拭いた。ママのパンティは履き心地が悪いけど、大好きなママになったような気がして嬉しい。
 オシッコを踏まないようにしてママの枕元に行き、もう一度泣き声を上げてみたけど、やっぱりママは何かつぶやいて、うるさそうに寝返りを打っただけ。
 だんだんお腹がすいてきた。でも、ママの寝室には食べるものは何もない。ベッドサイドの小さなテーブルの上に、お酒のビンが並んでいるだけだ。
 お酒を飲まないと辛くて生きていけないと言ったり、もうお酒はやめて良いママになるからと言ったり、ママの言うことはいつも違う。
 パパと何度けんかしてもやめられないほど美味しいのなら、マコもちょっと飲んでみようかな。
 グラスに半分ぐらい残っていた薄い茶色の液体は、すごく苦くて吐きそうになった。やっぱり、下のキッチンまで行って、何か食べ物を探さなくてはいけないみたい。
 お腹がすいて、もう我慢できない。昨日からお菓子しか食べてないんだもの。それも、カラカラに乾いたチョコレートと、しけたクッキーだけ。お出かけ用のポシェットの中に入ってたんだ。いつのお菓子か覚えてないけど……。
 廊下は寒いので、ママのガウンを着た。引きずった裾がオシッコで濡れたけど、すぐに乾くよね。
 階段を下りると、踊場の大きな鏡に自分の姿が映った。寝癖でぐしゃぐしゃの髪、ピエロのような顔、幼稚園の制服の上に羽織った赤い大きなガウン……。
 おかしくて、一人で笑いながらキッチンに入った。
 冷蔵庫を開けてみたけど、何もない。
 ウインナもチーズもりんごも、全部食べてしまって、それっきり。ミルクの残りを飲もうと思ったけど、腐った臭いがする。冷凍室に、凍ったお肉があるだけだ。ほかには、どこを探しても、お菓子もパンも何もない。
 しょうがないから、ガスの上にフライパンを乗せて、冷凍のお肉を焼くことにした。ママが酔っ払っているとき、パパと二人で何度も料理したことがあるから、一人でも大丈夫。
 でも、お肉はカチンカチンに凍っていて、すぐには食べられそうもない。しかたがないので、違うお肉を焼こうと思う。
 キッチンを出て、バスルームに入った。もう何日、お風呂に入ってないかな。バスルームはとても寒くて、思わず震えてしまった。
 バスタブの中から、二本の脚が宙に浮いている。近づいてパパと呼んでみたけど、動かない。服を着たまま、上半身を水の中につけている。
 うつぶせなので顔は見えないし、オルゴールがぶつかった傷もどうなったか解らない。頭から血がたくさん流れて、パパは、あわてて洗面所に下りた。
 マコも心配で、パパについてきた。パパがタオルで傷を押えようとしたとき、追いかけてきたママがパパの背中を包丁で刺した。その包丁は、刺さったままだ。これを使おうかな。
 パパはバスタブの中に倒れこんで、起き上がることができずに、そのまま静かになってしまったし、ママはその後フラフラと寝室に上がって、またお酒を飲んで寝てしまった。
 あのときも、マコはママのきれいな下着を着けていた。そしてパパに抱っこしていた。寝ていたはずのママが急にヒステリーを起こして、パパにオルゴールを投げたのはなぜだろう。
 パパのお肉は美味しいかしら。買ってきたお肉のように、フライパンの中で色が変わったり、少し縮んだりして、良い匂いがするのかしら。
 パパはいつも言っていた。マコのことを食べてしまいたいほど可愛いって。ママが寝てしまうと、いつもマコを裸にして、ママのきれいな下着を着せ、マコの体のあちこちを食べるまねをした。
 マコも、パパを食べてしまいたいほど好き。
 ママにも食べさせてあげよう。大好きなパパのお肉だもの、きっと喜んでくれると思う。

Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

*この作品は、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」に掲載された作品です。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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