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File No.1『夢の世界で生きる人』

 井上祐二は二十六歳の営業マン。
 社交性のあるタイプなので、誰とでも気軽に言葉を交わします。
 営業成績も良く、女子社員にも好かれ、上司にも可愛がられるタイプ。
 八方美人だから信用できないと、同僚から陰で言われていることも、それが自分への嫉妬に由来するものだということも知っていながら、顔にも態度にも出さずに、職場は仕事をする場所と割り切ることのできる賢明な男性です。
 
 彼には大学時代から付き合っている恋人がいます。
 恋愛の初期の頃のようなときめきや刺激はもう薄れていますが、その代わりに信頼と安心感が生まれています。
 彼女も仕事をしているので結婚の話は具体的になっていませんが、いずれはこの人と……という気持ちを二人とも持っています。
 そんな安定した関係の恋人と長く付き合っていることが、彼を年齢以上の大人の男性に成長させていたのかもしれません。
 
 祐二は毎日営業に出かけますが、その得意先の会社の一つに、ある日新しい女性の事務員がいました。
 彼女はいかにも主婦のパートというタイプ。
 明らかに、祐二よりも十歳以上は年上です。
 年下の女性社員に指図されながら、慣れない手つきで一生懸命にコピーを取ったり、ファックスを送ったりする彼女は、社会に出て仕事をしたことがあるのだろうか、どうしてこの会社ではこんなおばさんを採用したのだろうと疑問になるほど場違いな感じでした。
 
 でも、そこは社交性のある祐二のこと、初対面の彼女にきちんと挨拶をしました。
 営業の仕事をスムーズに進めるためには、得意先の社員、特に女性社員に好感を持たれることは重要なポイントだというのが、彼の持論でもありましたから。
 
 丁寧に挨拶をする祐二に対して、田中というその女性は、まるで男性と話すのは初めてかのように頬を染めながら言いました。
「お名刺をいただけますか」
 祐二は戸惑いながらも、営業マンらしく仕事用の笑顔で名刺を渡しました。
 商談中に応接室にお茶を運んできたのも田中でした。

 帰りに出口でたまたま田中と二人になった祐二は、無言でいるのが気まずかったので自分から話しかけました。
「お茶、美味しかったですよ。やっぱり主婦の淹(い)れるお茶は違いますね」
「私、主婦じゃないんです。主婦だったこともありますけど」
 その言葉を聞いてますます気まずくなった祐二は、ついこんなことを言ってしまいました。
「じゃあ、フリーなんですね。それなら、次は僕が美味しいお茶をおごりますよ」

 そういう言葉はただの挨拶のようなもの、誰に対しても普段から口にしている、ごく気軽な、ほとんど意味のない言葉でした。
 少なくとも祐二にとっては……。

 彼が上司に呼ばれてこんなことを言われたのは、二日後のことです。
「昨日、人事の方におかしな電話がかかってきたらしいぞ」
「おかしな電話……?」
「井上祐二という人間は本当にお宅の社員か、どんな人物なのか、という問い合わせだ。確かに井上はここの社員だが、どんな用件かと訊き返したら、交際を申し込まれたので、身元を確かめたかったと答えたそうだ。自宅の住所や電話番号も訊かれたらしいが、それはもちろん、外部の人間には教えられないと断ったんだろう。覚えはあるか」
「とんでもないですよ。一体だれですか、そんな電話をしてきたのは」
「田中という女性だったそうだ」
「知りませんよ。人違いですよ」

 祐二には、心当たりがありませんでした。
 田中というよくある苗字を利用したいたずら電話か、そうでなければ、誰か自分の名前や身分を騙って女性をだました人間でもいるのだろうかと不安になりました。
 営業マンにとって、悪い評判は命取りになります。
 祐二は、普段から自分を妬んでいる同僚の顔をあれこれと思い浮かべながら、疑心暗鬼に陥ってしまいました。
 
 田中という女性から電話がかかってきたのは翌日のことです。
「先日はどうもありがとうございます」
 丁寧な言葉遣いで話す相手の声を聞いて、祐二は、それが三日前に取引先の会社で会ったパートの中年女性だということをやっと思い出しました。
「真剣に考えてみたんですけど、井上さんはまだお若いし、私のような年上の女性ではなく、もっと若い人とお付き合いした方が良いと思います」
 田中の言葉の意味が、祐二には理解できませんでした。

「そちらの会社の方に問い合わせてみたら、身元のきちんとした方なのは解りましたし、せっかくのご好意をお断りするのは、私も心苦しいのですが……」
 田中の丁寧な口調を聞いているうちに、祐二の中に、じわじわと恐怖がこみ上げてきました。
「できれば、ご家族の方ともお話をして、お詫びを申し上げたかったのですが、ご自宅のお電話番号を教えていただけなかったので、大変失礼しました」
 自分は年上としての立場上、一応は断るけれど、祐二の方からもっと積極的に迫ってきてほしいという切実な思いが、電話を通じて伝わってきます。

「いいえ、どうぞお気遣いなく。はい、承知いたしました。では、そういうことで、よろしくお願いします」
 祐二は、しどろもどろになりながらも、慎重にそう言いました。
 ほんの少しでもまた誤解されるようなことがないように、そしておかしな逆恨みをされないように。
 電話を切った祐二は、思わず大きなため息をついてしまいました。
 田中のいる会社には、これからも頻繁に通わなくてはいけないのですから。

 ***

 これは細部を変えてあるだけの実話です。
 井上祐二という男性は、ごく普通の人だよね。
 男性が女性に優しい言葉をかけたり、気軽に挨拶をしたりするのは、一種のエチケットだと彼は思っていたのだろうし、営業マンとしての習性のようなものだったかもしれない。
 会社の中で慣れない様子で働いている田中さんを何となく気の毒に思って、労わるような気持ちもあったのかも。

 相手がもし若い女性なら、祐二だって、もう少し慎重に話したかもしれない。
 もし密かに好意を抱いていた女性なら、意識してしまって、気軽に声をかけることはできなかったかもしれない。
 
 かなり年上の、要するに恋愛対象外の女性だったから、相手にとって自分もまた対象外だろうと思い込んで、沈黙の気まずさや、相手に離婚のことを言わせてしまった失敗から逃れるために、つい、その場限りの適当なことを言ってしまった。
 それは社交辞令のようなもの。
 まさか相手がそれを本気にするとは思わないし、本気にするどころか交際の申し込みをされたと解釈するなんてことは夢にも思わなかったわけね。
 
 でも田中さんは、自分よりもずっと年下の男性から好意を示され、交際を申し込まれたと思い込み、真剣に悩んだのね。
 そして、前途ある若い男性が自分のような離婚経験もある中年の女を好きになってはいけないという結論を出したわけ。
 でも同時に、身を引く自分を情熱的に追いかける強引な若い男性のイメージを、祐二に求める気持ちもあった。
 彼女はそのとき、ロマンス映画のヒロインのような気分になっていたのかもね。
 
 この田中さんは、離婚経験があると言っても、実は成田離婚です。
 夢を見て生きている彼女は、お見合い結婚した夫との、新婚旅行先での男女の現実というものに耐えることができなかったの。
 でも、夢を見たままで中年になってしまい、今でもロマンスのヒロインでいられる田中さんは、もしかすると幸せな人かもしれないね。
 
 男性の場合にも、こういうタイプっているよね。
 接客業の女性にサービスされて、その女性が自分を好きなんだと思い込んでしまう男性って、結構いるんじゃない? 
 女性の方はただ仕事としてやっているだけなのにね。
 以前の私の職場にもいたよ。
 結婚することになったってすごく喜んでたけど、彼が婚約者だと思い込んでいたホステスに、結局振られてだまされたと怒ってた男性。
 だまされたんじゃなく、自分が勘違いをしていただけなんだと気づかなかったら、また次も同じことを繰り返すよね。
 
 相手の単なる社交辞令を、自分への愛の告白と受け取ってしまう。
 たまたま自分に微笑んだ相手を、自分を好きなのだと解釈する。
 一度食事に行ったら、それでもう付き合っているのだと思い込む。
 そういう人って、すごくまじめな人なのかもしれない。
 相手の好意に真剣に応えなくてはいけないとか、男だったら、女性に好意を示されたのだから、決定的なことは自分が言わなくてはいけないとか、多分、一生懸命に考えるんだと思う。
 
 そういう誠実さやまじめさは人間として良い点だよね。
 でも現実には、何でもない言葉や態度に大きな意味を持たせて、過剰に反応してしまう人は、男女を問わずなかなか恋愛はできない。 
 だって、相手に恐怖心を抱かせてしまうもの。
 
 なら、どうすればいいのかって? 
 ごめん、私にも解りません。
 でも、だからと言って、ハウツー本なんか読まない方が良いと思うよ。
 恋愛に限らず、言葉だけではない、相手の全体の様子から、気持ちや心を感じ取る力は、人間対人間の付き合いの中で、恥をかいたり傷ついたりしながら、磨いていくしかないんじゃないのかな。
 あなたはどう思う?

 

File No.2『尽くす人』

 岡田夏美は二十八歳。
 広告代理店でチラシやポスターのデザインをしています。
 仕事は面白く、やりがいもあるのですが、不規則な勤務時間や収入の低さ、男性優位の社内の雰囲気など、現状に対する不満もありました。
 長く続けたい仕事だと思ったり、早く辞めて結婚したいと思ったり。
 でも、恋人はいないし、友人の殆どが既に家庭を持っている状況では、そんな気持ちの揺れを相談できる相手もいませんでした。
 
 ある日、夏美は、仕事の帰りにたまたま入ったバーで、ちょっとした騒ぎを目にしました。
 カウンターに座っている酔った男とマスターが、もっと飲ませろ、飲ませないでもめているのです。
 その二人はどうやら友人同士で、マスターが男の飲みすぎを心配して、言い争いになっているようでした。
 諦めて店を出て行く男の後を、夏美は思わず追いかけました。
 十年ぶりの再会でしたが、彼女には一目で解ったのです。
 彼が自分の初恋の相手、青春時代に憧れ続けた西口浩平だということが。
 
 彼は昔、アマチュアロックバンドのボーカルとして、地元ではスター的な存在でした。
 夏美は中学二年で彼を知り、その後の数年間、浩平の熱烈なファンだったのです。
 後援会に入り、ライブのチケットを売り、裏方の仕事を引き受け、浩平を取り巻く大勢の女の一人に過ぎないことを承知の上で、順番を待つように浩平に抱かれ……。
 しかもそのホテル代は自分持ち、その上、少しでも他の少女たちよりも豪華なプレゼントを浩平にあげるために、アルバイトまでしていたのです。
 
 夏美の高校卒業や短大進学とほぼ同時に浩平のバンドは解散してしまい、その後のメンバーは親の会社を継いだり、普通に就職したり、自分で小さな店を出したりと様々でしたが、浩平の消息だけはどうしても解りませんでした。
 だからその夜、浩平を見た瞬間、夏美は浩平に夢中だった頃の少女に戻ってしまったのです。
 夏美の目には、浩平は昔と少しも変わらない、輝くばかりに素敵なスターのままに見えたのでした。
 
 夏美は、すぐに浩平に追いつきました。
 驚いたことには浩平の方でも夏美の顔を覚えていて、再会できたことを喜んでくれたのです。
 二人はすぐに別の店に行ってお酒を飲み、それから当然のようにホテルに行きました。
 もちろん、その費用は昔のとおり、夏美持ちです。
 その日から、二人の付き合いが再開しました。
 
 三十二歳になっていた浩平は、バンド解散後もアルバイトを転々と変えながら夢を追い続けてきたのですが、過去に二度結婚と離婚を繰り返し、今は独身で無職でした。
 たとえ離婚経験があろうと無職だろうと、浩平は夏美にとって、決して忘れることのできない大切な人です。
 スターだった頃から見れば落ちぶれているかもしれませんが、大勢の女の中の一人だった昔よりも、浩平を独占できる今の方が、夏美は幸せでした。
 
 まるで昔の貧乏学生が住んでいたような古いアパートの小さな部屋に、浩平は一人で暮らしていました。
 狭くてもきれいに片付いている部屋に退廃的な空気はなく、夢を諦めた浩平が決して投げやりに生きているのではないと、夏美は感じました。
 そして、いつかきちんと仕事を見つけ、結婚を申し込んでくれるに違いないと思ったのです。
 
 だから、夏美は浩平との付き合いの費用の総てを自分が出すことには、何の抵抗もありませんでした。
 それどころか、浩平の部屋代や光熱費、新聞代まで自分が払うことに、まるで夫婦になったような幸せさえ感じるのでした。
 そして、今の仕事のままでは浩平に会う時間も、浩平のために使えるお金も充分でないと感じた夏美は、あっさりと会社を辞め、ホステスに転身したのです。
 
 自分よりも若いホステスの中で、接客業の経験のない夏美には、人に言えない苦労があったでしょうが、それでも浩平と一緒にいられる時間が増え、収入も良くなり、満足していました。
 一つだけ不安があるとすれば、それは浩平が、一緒に暮らそうという夏美の申し出を断ることでした。
 夏美の部屋で一緒に暮らせば、部屋代や生活費も浮くし、お互いにもっと便利だと何度か言ってみたのですが、そのたびに、そこまで夏美に甘えることはできないという言葉が返るのでした。
 二重の生活をしているから夏美の負担が大きいわけで、今のままの方が、よほど浩平が夏美に甘えていることになるのですが、彼に嫌われたくない夏美は、いつも言いなりになってしまうのでした。
 
 ある日、夏美の元に来客がありました。
 昔の浩平の取り巻きの一人で、一番彼と親しかった女性だということはすぐに解りました。
 彼女が浩平の最初の妻だったのです。
 彼女は今でも浩平と付き合いがあり、夏美のことを聞いて、会いに来たのでした。
 そして夏美は彼女から、自分が知らなかった浩平の実像を知らされました。
 
 浩平は、最初の妻とも二度目の妻とも未だに付き合っていること、それぞれに子どもがいるのに、養育費を払うどころか金銭の援助をしてもらっていること、他にも昔自分のファンだった複数の女性と関係があること、仕事を探す気持ちはなく、女のお金で生活するのを当たり前だと思っていること、女たちは皆、それを承知で付き合っていること……。
 
 夏美はそれを聞かされても、ああやっぱりと思うだけで、あまりショックは受けませんでした。
 そして、これからも自分は浩平を愛そう、ほかの誰よりも、自分が一番浩平に尽くそうと思うのでした。

***

 これも実話です。
 浩平というのは、それほどの魅力のある男なのかって? 
 その疑問はもっともです。
 私も本当に不思議だもの。
 スター的存在だった頃の浩平のことは知らないけど、確かに魅力のある男性には違いないでしょうね。
 でも、尽くす人って、相手が魅力のある素晴らしい人だから尽くすのかな。
 それとも、誰と付き合っても尽くしてしまうような性格なのかな。
 
 浩平の実像を知っても、だまされたと落ち込むこともなく、浩平を責めるわけでもなく、これからも愛し続けようと決意した夏美を、あなたはどう思う?
 普通なら、別れるとか、復讐するとか、今まで貸したお金を返してもらうとか、もっと別の行動をとる人が多いんじゃないかな。
 そして、可哀想な被害者として、加害者である相手を責め、いつまでも恨み続ける。
 
 男でも女でも、尽くしたり貢いだりする人って、嫌われたくないという気持ちがとても強いんだと思う。
 どこか自信がないから、相手の言いなりになって自分を抑えてしまう。
 相手に何かをしてあげないと愛されない、このままの自分では愛されない、そう思い込んでいるんだよね、無意識のうちに。
 
 はっきりとした要求を出されなくても、敏感に相手の気持ちを感じ取って、何かをしてあげたり、欲しがっているものをプレゼントしたりする。
 それは、好きな人に対するごく当たり前の愛情表現だと思うけど、それとは違う場合があるよね。
 
 尽くすことが愛情の表現ではなく、愛情を得るための手段になっている場合。
 相手の喜ぶことをしてあげれば、自分もきっと愛してもらえる、きっと結婚してもらえる……。
 そんなふうに、尽くしているつもりで実は見返りを求めている場合、相手はその不純さを何となく感じ取ってしまうものなのよね。
 だから殆どの場合、その恋愛は上手く行かない。
 結果は尽くした方が被害者として、相手を非難して終わり。
 
 夏美のように、尽くすこと自体が喜びで、純粋に愛情からの行為である場合は、だまされたとか、復讐したいとか、騒ぎ立てないものなんだって、私はこの二人の関係から学んだ。
 そんな男とは別れればいいのにと、周りの誰もが思うような付き合いでも、本人が幸せならそれでいいわけでしょう? 
 このままずっと浩平と一緒にいて、一生尽くすだけの貧しい暮らしで終わったとしても、夏美なら後悔しないんじゃないかな。
 
 愛する人のために捧げつくす人生は、男女を問わず、そこまで愛せる人に出会えたという意味では、なかなか経験できない素敵な人生かもしれないよね。
 そしてもし、尽くした相手と別れることになったとしても、ひどい目に遭ったという後悔と憎しみや恨みを残すのか、心残りはないという充実感で満たされるのか、それは自分次第だよね。
 あなたはそこまで人を愛せる?
 それとも、そんな人間を馬鹿なヤツだと軽蔑する?

File No.3『理解されにくい人』

 西村和之は二十二歳の大学四年生。
 将来は作曲家を目指していますが、とりあえずは高校の音楽教師としての進路も決まり、卒業の前に愛の告白をすることにしました。
 相手は同じ学年の村井由香。
 彼女は、楽器製作の企業に就職が決まっています。
 二人は特に親しい間柄というわけではありませんが、学部と学科が同じなので、グループで飲み会を開いたりする友人同士です。
 二人とも、どちらかと言うと口数の少ない地味なタイプ。
 
 和之は今まで、自分とは反対の華やかで積極的な女性に憧れることが多かったのですが、そういうタイプを相手にすると気後れしてしまって、一度も自分の気持ちを伝えたことはありませんでした。
 でも、村井由香なら自分と共通点が多いような気がして、お互いに理解し合えるのではないだろうか、自分の気持ちも受け入れてもらえるのではないだろうか、以前からそう感じていたのです。
 つまり、和之にとっては、生まれて初めての愛の告白なのでした。
 
 彼は、どうすれば自分の気持ちを最高の形で由香に伝えることができるのか、悩みました。
 元々、自分の感情を表現するのは苦手です。
 好きな女性に言葉で気持ちを伝える自信はありません。
 何も言えなくなってしまうことは、予想がつきます。
 かと言って、手紙を書くのは男らしい方法だとは思えません。
 
 何日か考えた末に、彼は一番自分らしい方法で、気持ちを表現することにしたのです。
 由香への愛情を込めた曲を作曲し、それを自分で演奏して、彼女に聞いてもらうという方法です。
 それから毎日、和之は大学のレッスン室に通い、由香を心に思い描きながら、ピアノソナタを完成させました。
 
 控え目に始まる主題の提示部分の美しい主旋律は、次第に激しく大胆に展開され、やがてまた、繊細さの中に静かに収束されていきます。
 由香への思いは総てこの曲に表現された、これ以上何も付け加えるものはない、そう確信できるほど、納得のいく仕上がりでした。
 楽譜の表紙に心を込めて記した題名は『想い』。
 副題として『YUKAに捧げる』と付け加えました。
 
 彼は、大学のレッスン室に由香を呼び出すと、こう言いました。
「僕の気持ちを込めて作った曲です。聞いてください」
 そして、ピアノを弾き始めました。
 最初は、自分のすぐ横に座っている由香を意識してしまい、緊張のあまり指が思うように動かなかったのですが、すぐに曲の世界に入り込み、自分の思いを伸び伸びと余すところなく表現することができました。

 演奏が終わると、うつむき加減で聞いていた由香に楽譜を差し出しました。
「受け取ってください」
 この曲と一緒に自分の愛情も受け取ってほしいという思いが、その一言には込められていました。
 
 和之が由香と二人きりで会うのはこれが初めてです。
 じっくりと話をしたことはありません。
 それでも彼は、たった今曲を演奏することで充分に自分の気持ちを伝えたばかりなのだから、その一言さえ不要なほどだと思っていました。
 
 何も言わなくても、由香には自分の気持ちが伝わったはず、由香の方も、思いは自分と同じはず。
 その瞬間、和之は心からそう確信していたのです。
 だからその言葉は、念を押すために付け加えたようなものであり、その瞬間の二人の間には、言葉など必要ではないと感じていました。
 
「はい、あの……」
 戸惑ったように楽譜を受け取る落ち着かない様子の由香を見て、和之は、由香にはこれから何か用事があるのだ、その時間が迫ってきているのだと感じました。
 そして自分が、何も言われなくても相手の事情を察することのできる男性であること、これから付き合いが始まっても、由香の予定を優先する思いやりのある恋人になることを証明するつもりで、
「じゃあ、今日はこれで」
と言いながら、レッスン室を出たのでした。
 後に残った由香が、感謝と尊敬と愛情のこもった目で自分を見ているに違いないと思いながら。
 
 翌日、彼は大学で由香に会うのが楽しみでした。
 自分を一目見るなり駆け寄ってきて、目を輝かせてこう言うだろうと信じていたのです。
「あなたの気持ちはよく解りました。実は私も同じ気持ちでいたの」

 でも、現実の由香は、彼に会ってもいつもどおりで、何の変化も見られません。
 友人たちの前ではそんな話をできないのだと思った和之は、二人きりになるチャンスを逃さずに話しかけました。
 
「あの曲、どうだった?」
「とても素敵な曲だと思う」
「それだけ?」
「それだけって……?」
 由香のその態度や言葉に、彼は自分が振られたのだと思いました。

 だめならだめで仕方がない。
 しつこい男にはなりたくない。
 自分には自分なりの美学があるのだから……。
 和之はそう思い、心を襲う痛みに耐えながら、無理に笑顔を作って言いました。
「そう、それは良かった。じゃあ、また」

***

 この西村和之は、自分では気づいてないんだけど、周囲の女性からは密かに憧れられるような素敵な男性です。
 今どきの二十二歳にしては知的で物静かで落ち着いた感じかな。
 近寄りがたい感じを与えてしまうから、女性が気軽に話しかけにくいので、和之自身は自分を女性にはもてないタイプだと思い込んでいます。
 
 でも実は、村井由香の方でも以前から和之に好意を抱いていたのでした。
 だから、レッスン室に呼び出されたときは、内心とても嬉しかったのね。
 和之が自分で作曲したピアノソナタを弾き始めたときも、これは自分への愛情を表現した曲だ、彼から自分への愛の告白なんだって、すぐに解ったの。
 
 だから、ピアノを弾き終えたら、和之は何かはっきりした言葉をくれるだろう、付き合ってほしいとか、好きだとか、そういう意味のことを言ってくれるに違いないと思い、そのとき自分は何と答えるか、もちろん返事はイエスなんだけど、具体的にどんな言葉で答えたらいいのか、曲を聞きながら考えていたのね。
 
 でも、ピアノを弾き終わっても、彼は自分に楽譜を渡すだけで、はっきりとは言ってくれない。
 由香から見れば和之は周囲の女性の憧れの人、自分に告白してくれると思ったのは勘違いだったのだろうか……。
 そんなことを思って戸惑っているうちに、和之は一人でさっさとレッスン室を出て行ってしまった。

 取り残された由香は、何が何だか解らない。
 楽譜には自分への言葉が書いてあるし、彼が自分のためにこの曲を作ってくれたのは確かだろう、でもそれだからといって、これを愛の告白と受け取ってもいいのだろうか。
 由香は悩みました。
 和之の気持ちが理解できなかったのね。
 
 この状況で、和之の期待したような反応を返せる女性は、なかなかいないんじゃない? 
 恋愛経験豊富な場合は別だけど。
 和之は自分の気持ちを伝えたつもりでいるから、後は由香の返事を待っているだけ。
 由香の方は、彼の気持ちを解っているつもりでも、確信がないので自分からは何も言えない。
 
 若いときって、こういうことは結構多いよ。
 お互いに好きなのに、表現できなくてすれ違ってしまうとか、意地を張り合って別れてしまうとかね。
 あなたにはそんな経験ない?
 この二人の場合は大丈夫でした。
 周囲の友人たちが何となく気づいて、うまく盛り上げてくれたから、今はちゃんと付き合っています。
 
 そんな友人って貴重だね。
 自分の好きな人と恋愛できるかどうかということは、誰にとっても重要なことだけど、良い友人を持てるかどうかも、同じぐらいに大切だよね。
 それは、周囲に良い人がいるかどうかで決まることではないと思うよ。
 自分自身が、それだけの人間関係を築けるような生き方をしているかどうかで、決まるんじゃないのかな。
 相手が同性でも異性でも、良い関係を持てるかどうかは、自分次第。
 あなたも素敵な恋愛をしてね。 


Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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