表紙に戻る 中里奈央 作品集

 


 「 紫
(しい)衣 」
中里 奈央


 従業員用の裏口から入ると、彼女はサングラスをはずした。かえって目立つかもしれないとは思っても、ここに来るときにサングラスは必需品だ。
 素顔でさえ化粧が濃いと言われるほど彫りの深い自分の美貌が、余計な人目を引くことは充分に承知しているから。
 できるだけ地味な服装を心がけているが、均整の取れた体は、どんな服装でも見栄えがする。子どもの頃から、常に目立ってしまう派手な自分の外見が、彼女はいやでたまらなかった。だからいつも人目を引かないように下を向き、できるだけ大人しく静かに振る舞い、自分を抑えて生きてきた。
 その反動だろうか、誰も知らないもう一人の自分は、本来の個性を自由に発揮し、思いのままに振る舞うことができる場を探し求め、そして見つけた。
「紫衣ちゃんったら、待ってたのよ」
 支配人が彼女を見つけて、犬のようにすり寄ってくる。女性言葉だが大柄の男性だ。親しみ安そうな笑顔の下に冷酷な本性を隠すしたたかなやり手だが、彼女には尻尾を振る。
「今日は例の大切なお客様だから、よろしくね。紫衣ちゃんにはぞっこんなんだから」 
 紫衣というのは、彼女の源氏名だ。高僧の身に着ける高貴な着物……。言葉の意味を思い出すたびに、彼女は笑い出しそうになる。
 ある意味で、確かに自分は高僧だ。悩みや苦しみやストレスから一時的にでも男たちを解放し、救っているのだから。
 
 更衣室に入って、彼女は着替えを始めた。専用の個室が与えられているのは彼女のほかには二人だけ、しかも昼間の短い時間のみの出勤で、自分の都合で自由に休みを設定できるという破格の待遇を受けているのは彼女だけだ。このメンバー制の倶楽部を利用する一流の顧客の中でも特別な上客の殆どが彼女個人についていることを考えれば、それは当然だった。
 バックシームのストッキングとガーターベルト、体にぴたりと吸い付いてくるレザーのボディスーツ、肘までの長さのレースの手袋、18センチのピンヒール、顔の上半分を隠す羽根つきのマスク。すべて特注品の紫色だ。口紅と長い付け爪だけが真っ赤。
 全身紫なんて悪趣味もいいところだ。しかし大型の鏡の中の紫衣は、奔放な本来の自分を取り戻し、輝くほどに美しい。日本人離れした手足の長い、腰高の体は、その露出の多い派手な衣装でさえも見事に着こなしてしまうのだ。
 
 今日の客のことは良く知っていた。異例の若さで、ある大手金融会社の支店長に抜擢され、マスコミからも注目を浴びている男。どこに敵がいるか油断ならない状況で常に神経を張り詰め、その状態が限界を超える前に紫衣に救いを求めてやってくる。
 ある政治家の紹介で初めて来てからまだ一月あまりだが、すっかり紫衣の信奉者になっていた。
 彼が家庭では理想的な父親であり夫であることも、彼女は知っている。妻と三人の子どもを大切にし、絵に描いたような幸せな生活をしていること、彼の妻がPTAの活動以外には殆ど外に出ることもなく、家事上手の完璧な専業主婦であること、その妻が熱心に手入れする花々が、家族への愛情の象徴のように家の周りを飾っていることも。
 でも、彼は疲れている。仕事でも私生活でも完璧で理想的であることに、彼は疲れきっている。
 現実からほんのつかの間彼を救い、また厳しい現実に踏み込む勇気を与えてあげることができるのはこの私だけなのだ、夫に守られ、甘えている妻ではなく……。
 紫衣はそう思いながら革の鞭を手にした。
派手な音はするが、皮膚を切り裂くことはないし、実際にはあまり痛みもないように作られている。女王には欠かせない小道具に過ぎないのだが、これを持った紫衣を見ただけで殆どの男たちは愉悦への期待で理性を失ってしまう。
 更衣室を出て、男の待っている特別室のドアを開けた。既に、アラビアンナイトに出てくる奴隷のような格好をしたヘルプの女が二人、男を裸にして革製の手錠と首輪をはめている。
 暖房の効いた部屋の中には、人間の四肢を広げて縛り付けることのできるベッドや磔にできる十字架、うつぶせにして拘束し体の自由を奪うための木馬、天井から釣り下がった太い鎖など、客の趣向に応じてどんな責めも可能なさまざまな装置があり、数々の小道具も揃っている。
 紫衣の仕事はただ高飛車に命令するだけだ。常に重い責任を背負い、自分の判断を求められている一流の男たちには、一切の自由も意志も放棄し、女王の完璧な支配下に置かれる瞬間こそが救いになるのだ。
 紫衣は、男の前に見事な肢体を見せ付けるように立つと、いきなり鞭を振り上げた。派手な音を上げたのはタイル張りの床だったが、男はそれだけで既に忘我の境地へとさまよい始めている。レザーのソファーに腰掛けていた男に、床に跪くように命令した。
 紫衣になっているときの彼女は声までもが普段とは違っている。子どもの頃から自分を抑え続け、今も理想的な専業主婦として生きている外側の自分とは、全くの別人だ。
 恍惚とした表情で紫衣を見上げる男の肩にピンヒールを突き刺すようにして、足で男の体をうつぶせにした。もちろん、体に傷はつけない。それは最低限のルールだ。
 今日はどんなふうにして、この男を現実から救おうかと思いながら、紫衣は悦楽に震えている男を見下ろした。
 私はこの男のことをよく知っている。でも、この男は私のことを何も知らない。本当の私を知っているのはこの私自身だけ……。
 紫衣は、自分の夫を跪かせたまま、再び鞭を振り上げた。

Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

*自サイト(カメママの部屋)で発表されたキリ番プレゼント作品。
*
中里奈央作品集感想スレッド(あなたの足跡を残してください)


中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

表紙に戻る 中里奈央 作品集