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 No.1『彼の抱負』

 彼には今年、大きな抱負があった。
 それは自分の今後の生き方を左右するほどの重大な抱負だったから、誰にも言わずに胸の中にしまいこみ、実現するまでは秘密にするつもりでいた。
 目の前の見えない壁を乗り越えること。
 自分という小さな存在を四方から取り囲み、ささやかな安全と引き換えに、冒険の喜びや達成感を阻んできた、この透明な壁を……。
 今年こそは、小市民的な幸福という退屈な毎日から脱出して、自分の可能性を限界まで試すために、この壁を乗り越えるのだ。
 ちっぽけな安全を捨てて、自分の力だけで広い世界に踏み込んでいくことには、大きな勇気が必要だった。
 様々な未知の危険が自分を待ち受けているのだ。
 存在の総てを賭けた大きな冒険だ。
 しかし、彼は自分が決して後悔しないことを信じていた。
 自分の意思で壁を乗り越え、前進し、冒険し、それで命を落とすことになっても、なんと価値のある充実した一生だったと自分で自分を讃えよう。
 彼の決心は固かった。
「このカメ、元気だね」
「本当だ、水槽から出たがってるよ」
「ガラスをよじ登ろうとしてるね」
「滑ってひっくり返っても、上手に起き上がるんだね」
「よし、このカメにしよう」
 まだ若い父親と幼い少年は、ペットショップの水槽から一番元気なカメを選んだ。
 こうして、彼の抱負はあっけなく達成された。


 No.2『最終電車』

「最終電車が参ります」
 コンピュータの声が、深夜のプラットホームに妙に明るく響き渡る。
 少女はしっかりと抱き締めていたしなやかな体から上半身を離し、大きな黒い目を見つめた。泣き顔の自分が映っている。
 頬を濡らす涙を熱い舌に舐め取られながら、少女はまた、よく馴染んだ体にしがみつく。物心ついたときから一緒に遊び、一緒に成長してきた一心同体の最高の親友……。
「お嬢さん、その犬、最終電車に乗せるの?」
 しゃがんだままで見上げると、一人の男が立っている。少女の父親ぐらいの年齢か。どこか気の弱そうな笑顔に好感が持てる。
「はい……」
 そう一言答えただけで胸が詰まり、また涙があふれ出る。
「そうか、じゃあ、おじさんが一緒に連れて行こう。おじさんも犬が好きなんだ」
 男は少女の横にしゃがみこんだ。
「なんていう名前?」
「ラブ……。ラブラドールだから……」
「そうか、ラブ、よろしくな」
 その言葉に応えるように、ラブが男の顔を舐めた。他人には懐かない犬なのに、一目で男を気に入ったらしい。
 深夜のプラットホームでは、見送られる人と見送る人とが、あちらこちらで抱き合ったり手を握り合ったりしながら、別れを惜しんでいる。その様子を見ながら男は言った。
「生きていたときも一人、死ぬときも一人。当然、死んでからも一人だと覚悟していた。でも、こんな可愛い犬が一緒なら寂しくはないよ。今から永遠のパートナーだ。ちゃんと面倒を見るから心配しないでね、お嬢さん」
 男がそう言うと、ラブも衰弱した体で前足をそろえ、まっすぐに少女を見つめた。
 涙でゆがむ世界の中に、最終電車が静かに滑り込んできた。


 No.3『満足』


「満足なんていう言葉は、意味が解らないな」 
 男は本から視線を離そうともせずに、部屋に入ってきた女に聞かせるように言った。
 女は、そんな男の正面に立ち、ゆっくりとジャケットを脱ぎ始める。
「満足にしろ不満足にしろ、この二つの言葉はどちらも受身だ」
 男は女の動きを視界の隅で見ながらも、興味なさそうな表情を崩さずに、本から顔を上げようとはしない。
「こんな言葉は、誰かに何かを与えられることのみを期待して、自分で自己の充足を図ろうとしない怠惰な人間が味わう、一時的な感情にすぎない」
 ジャケットの次はブラウス、スカート、そして……。
 柔らかで優雅な動き。自分の魅力を熟知している自信に溢れた微笑。女は男を見つめながら、無言で服を脱ぎ続ける。
「主体的に生きる人間の辞書には、こんな言葉は必要ないな。満足だなんていう概念は、人間を堕落させるものでしかない。一人前の男が使う言葉じゃないよ」
 男の声は微かに震え、その頬は次第に紅潮してくる。
「満足するとかしないとか、そんな些細なことにこだわっているようでは、自分で自分の人生を切り開いてはいけないね」
 全裸になった女は、男のひざの上に乗り、本を取り上げると、テーブルの上に置いた。
「大体、満足なんてものは……」
 男の言葉は、女の赤い唇にふさがれ、途中で消えてしまう。
「満足なら、いくらでも私が教えてあげるわ」
 女の白い手が、男のシャツのボタンをはずす。


Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

*「ショートストーリーNo.1〜No.5」として掲載。しかし、改稿して他サイトで発表された作品を含むため、編者の判断でその二作品を除外させていただきました。
*タイトルバックに「LCB.BRABD」の素材を使用させていただきました。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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