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    一

 昼間の熱気を微かに残しながら、世界が底無しの闇に沈み始めようとする時間。
 彼は神社の境内を歩いている。
 いつもなら静まり返った植え込みの奥に、どんな異形のものたちが息を潜めているかも解らないこの時間のこの場所が、今夜ばかりは人々の喧騒で賑わっていた。
 両側に立ち並ぶ屋台では、威勢の良い掛け声と食欲をそそる匂いが通行人の足を止めている。焼きそばやかき氷、綿飴にカルメ焼き。
 今がいつの時代なのか錯覚してしまうようなランタンの橙色の灯り。それに照らされて漂う懐古な風情で人々を呼び寄せる射的、金魚すくい、占いの館。
 彼は人混みの中で順番を待ち、ポケットの小銭を賽銭箱に投げ入れると、形ばかりのお参りをし、押し寄せる人々にはじかれるようにして横道にそれた。
 そう、彼はいつもはじかれる。大多数の人間が所属する世間というもの、一般常識、社会通念……。誰もが何の疑問も持たずに従っているもの、改めて考え直すこともせず無条件に受け入れている総てのものから、彼は自分が外れていることを知っている。
 二十三歳になったというのに、未だに親からの仕送りで暮らし、それを親にも自分にも納得させるための学生という肩書きはあっても、長いこと大学には行っていない。
 アルバイトの経験もなく、女と付き合ったこともなければ、友と呼べる者もいない。そんな世間的には普通のことが、彼には大きな違和感の塊なのだ。
 だから、彼には昼間の明るい光は似合わない。出歩くのは夜だけだ。ふと道を見失ったが最後、妖魔の世界に迷い込んでしまうような時間だけを、彼は生きていた。
 本道から外れた狭い横道の、ひっそりとした闇に半身を溶け込ませるようにして、彼は平凡な幸福というものを見つめる。
 それは今、浴衣姿の目立つ人々の群れという形で、彼の眼前に現れている。団扇やヨーヨーやりんご飴を手にした笑顔の人々。
 子どもを連れた若い夫婦、しっかりと手をつなぎ合うまだ幼さの残る恋人同士、男を誘うように嬌声を上げる少女のグループ、その後を追いかけながら、声をかけるタイミングを計る少年たち……。
 そんな人々の周りには闇などない。おそらく内部にも。
 彼は、もう本道の人混みに戻るのを諦める。群集の中で自分を見失いたい、自分という意識から逃れたい、その他大勢の無名の人間として、ただ種としての本能だけで生きていきたい。そんな思いは根強くあるが。
 横道にそれた彼は、そちらの方にも小屋があるのに気づく。
 水銀灯の青白い光に浮かび上がる数本の幟旗。深紅の地にくっきりと黒く染まった文字は……。
 彼は、その文字を読み取ろうと小屋に近づく。人混みから外れたせいか夜気が冷たい。全身の皮膚が急に粟立ったのは、不意に彼を襲った冷気のせいか、それとも幟旗に染め上げられていた文字のせいか。
 まるでそれ自体に別の命があるように、細かく粟立つ皮膚の感触を、彼は快感として受け取める。滅多に覚えることのない、生きている実感として。
 大きく見開いた彼の目から脳細胞に届いた文字は『人体消失』。
 彼は恍惚として、その言葉を何度も呟かずにはいられない。
 人体消失、人体ショウシツ、ジンタイショウシツ……。
 彼は硝子の小窓の奥に呼びかける。
「大人一枚」
 差し出した千円札は魔術のように窓の隙間から吸い込まれ、引き換えに小さな切符が差し出される。
 幟旗と同じ深紅の地に黒々と濡れたように書かれているのは『人体消失』の四文字のみ。
 窓の向こうの暗闇から、蝋細工のように白く繊細な手が、手の先だけが浮かび上がり、細い指で彼の進むべき方向を示す。
 導かれるままに彼は、アーチ型に切り取られた入り口に垂れ下がる重いビロードのカーテンをくぐる。
 一歩中に踏み入れば、そこは壁も天井も床さえもが深紅の世界。細い通路の入り口には、またも硝子の小窓から浮かび上がる白い手の先。彼が差し出した切符を優雅な動きで挟んだ指は、一瞬にして硝子の奥の暗闇に消える。
 その瞬間、微かに見えた病的なまでに白い顔。その真っ赤な唇は生き血を吸った直後のように濡れて光り、嘲笑の形に片側だけを吊り上げて、彼の視界を掠めて消えた。それともそれは幻か、彼の妄想が映し出したこの世ならぬものなのか……。
 迷路のような通路を進み、彼が辿り着いた先は、やはり深紅の小さな劇場。スポットライトに照らされた正面の舞台を囲む椅子には、満員の観客の後姿。暗い中で誰一人身動きもせず、小声で話すこともなく、しんと静まり返っている。
 空いている席を探しながら、少しずつ前に進む彼の目には、観客の青白い横顔が浮かび上がるが、誰もが暗さの中に溶け込むような服装をしているのか、その体を見分けることはできない。
 最前列の中央に、やっと空席を見つけ、手前に座る数人の客の前を通ろうと体を屈めた瞬間、彼の心臓は静寂を破るほどに大きく高鳴りだす。
 満員の客と見えたのは、椅子の背もたれに載せられた夥しい数の人間の生首。見えない目で舞台を見つめ、永遠に何かを待ち続けている。
 じわじわと襲い来る恐怖に身動きもままならず、目をそらすこともできずに見つめれば、しかし、その顔はどれも同じ。全く同じ顔の生首が、暗い劇場の中を埋め尽くしている。
 そう、それはただの蝋細工。一つの型で大量生産された、顔だけの蝋人形。
 なんと悪趣味な趣向かと思いながらも、妙に心を浮き立たせ、彼は空いた席に腰を下ろす。
 と、そのとき、不意に場内に響き渡る男の声。
「これより、大魔術の始まり始まり。世紀の美女がお目にかけます人体消失の謎……」
 スピーカーに拡大された声に、一斉に沸き起こる拍手の音。驚いて辺りを見回す彼の目に映るのは、やはり夥しい数の首だけの蝋人形。しかし場内には嵐のような拍手の波。
 途惑いながら顔を上げた瞬間、舞台のスポットライトの中には、いつのまにそこに現れたのか、一人の女が立っている。
 高く結い上げた黒髪に縁取られた顔は、透明なまでに白く、陶器のような滑らかさ。弓のように伸びやかに引かれた眉、神秘的に光る切れ長の目、誘うように微笑む赤い唇。
 思いっきり露出した豊かな胸と、彼の片手だけで掴めそうに細いウエスト。
 ライトを反射する艶やかな黒いドレスはぴたりと体に沿い、深く切れ込んだスリットからは白く長い脚を惜しげもなく覗かせている。
 手を伸ばせば届きそうな舞台の上、しかしそこは、彼などには決して近寄れるはずもない美の極み。
 その近くて遠い場所から、女は艶然と彼に微笑みかける。
「さあ、そこの最前列のお若い紳士、この美しい夏の一夜に、私が夢を見させてあげましょう」
 そう言いながら彼に向かって差し出す手の優雅な動き。
「絢爛豪華な夏の夢、今宵限りの極彩色の絵巻の中へ……」
 妖しい瞳に吸い寄せられ、赤い唇に誘い込まれ、白い手に導かれるまま、夢遊病者の足取りで、彼はふらふらと舞台へ上がる。
 女の周りに立ち込める、眠気を誘う不思議な香り。熟れた果物のような、満開の花々のような、紅く色づいた野山のような、二度と浮かび上がれない海の底のような……。
 彼の手を握って高々と差し上げながら、女が優雅な動きで会場を見回すと、再び沸き起こる拍手の嵐。観客は、やはり首だけの蝋人形。
「さあ、あなた、お名前を……」
 ため息混じりに耳元でささやく声は、まるで切ない愛の告白。柔らかな手を握ったまま、女の光る瞳に魅入られながら、彼はうわごとのように呟く。
「……ダイスケ……」
 女は片手を彼に預けたまま、もう一方の手で彼の頬を優しく撫でる。
「そう、ダイスケ。良い名前だわ」
 女の手は柔らかく滑らかだが、氷のように冷たい。彼の頬は紅潮し、次の瞬間には蒼ざめる。
「さあ、ダイスケ、この中へ」
 女の言葉とともに、もう一つのスポットライトが、舞台の上の箱を照らし出す。人間一人が入るに丁度良く誂えたような黒檀の箱。磨き抜かれた艶も眩しいその箱は、縦に置かれた豪華な棺桶。
「人体消失とは、つまり……」
 彼の言葉は意味を持たずに消えてしまう。美しい女の前では、男には語るべき何ものもない。
「そうよ、ダイスケ、あなたが消えるの。あなた自身の夢の中へと」
 女が開いた扉の中は、奥の見えない漆黒の闇。
「さあ、お入りなさい。あなたが選んだ夏の夜の夢、夢こそ真の世界、現し世の幻こそは、あなたの魂の本来の姿」
 薄れそうな意識の中で、彼はぼんやりと呟く。
「あなたと離れたくない」
 女は笑いながら、扉の中の闇を指差す。
「私はあなたの夢に棲む者。この闇こそが、その入り口、秘密の通路、真の生へと辿り着く道」
 彼はおぼつかない足取りで、棺桶の中へと踏み込んだ。その瞬間、またも沸き起こる拍手の嵐、そしてぴたりと閉ざされる重い扉。
 中は暗黒と静寂、そして無。

    二
 
 閉じたまぶたの向こうの光、湿度の低い乾いた暑さ、辺りに漂う不思議な香り……。
 彼はとてつもない違和感の中で、恐る恐る目を開ける。
 一瞬、火事かと見紛うほどに視界を覆う炎の色。しかしそれは天井を、壁を、床を彩る深い紅が、眩しすぎる照明に反射して、自らを発光体のように偽っているのだった。
 彼の体が横たわる大きなベッドの天蓋も寝具も、総て光沢のある深い紅。彼の部屋とは似ても似つかない、異常な妖しさ。
 驚いて起き上がろうとする彼の体は、思うようには動かない。力の入らない全身を、枕を頼りに肘で支え、なんとか上半身を起こしてみるが、ベッドから降りることなど到底叶わないと悟ったのみ。
 痛みと眩暈が脳髄を襲い、その隙間から記憶が徐々に蘇る。
 神社の夏祭り、幸福そうな人々、暗い横道、数本の幟旗、白い手、深紅の劇場、首だけの蝋人形、絶世の美女、黒檀の棺桶……。そしてそう、人体消失。
「目が覚めたのね」
 いつの間に部屋に入ってきたのか、彼のすぐ横に女が立っている。真っ直ぐにおろした長い黒髪、透明なまでに白い素肌、黒い絹のナイトガウンをまとった華奢な体。
 化粧も舞台衣装もなしで、少女のような素顔の女は、彼の記憶に存在する彼女以上に美しい。
「ここは……」
 言葉を発した途端、頭の芯を痛みが襲う。
「すぐに慣れるわ。痛みは徐々に快感に変わる」
 女はベッドの端に腰を下ろすと、彼の上半身に寄り添うように体を傾けてくる。
「ダイスケ、もうすぐよ。すぐにあなたは自由になるわ。肉体という醜い容器から解き放たれて、魂だけの存在になるのよ」
 思うように動かない体を支えきれずに、彼は枕に頭を沈める。女の柔らかく冷たい手が、彼の額を、頬を、味わうように撫でながら、ゆっくりと皮膚の表面を下りていく。
 その手の動きに翻弄されて、彼の体は熱くなり、冷たくなり、また熱くなる。
 女の思いのままに反応してしまう体を制御したくても、意志の力ではどうにもならない。そして女の手によって、彼は自分が何一つ身に着けていないことに気づかされる。
「ここにいる仲間が、あなたの肉体を可能な限りにきれいにしてくれたのよ」
「仲間……?」
 言葉を発するたびに、痛みが脳内を駆け回る。
「そうよ、ほら、ここにいる仲間。あなたの周りを取り囲んでいるわ」
 重い頭を持ち上げて部屋の中を見回しても、彼の目に映る人間は、女一人きり。
「そうね、まだ見えないわね。でもじきに見えてくるわ。そのために、あなたの肉体を隅々まで洗ったんだもの。どんな小さな窪みの奥も、ほんの細かな襞の裏側も、細胞の一つ一つまでもね。だから、ほら……」
 彼の耳元に女の息がかかる。
「こんなにきれい。ここも、そして、ここもね」
 女の手と唇が全身を掠めるように這い回る。
「私たちの仲間になるには、ちょっとした儀式が必要なの。苦痛が伴うわ。でもそれは、この上もない悦楽でもあるのよ」
 これは夢だ、夢に決まっている。彼は、恐怖と快感の狭間でそう思う。そして、夢から醒めたいのかどうか、自分で自分が解らない。
「この儀式が終われば、あなたは私たちの仲間になれる。肉体を脱ぎ捨てさえすれば、痛みも苦しみも感じることはないわ」
「でも、あなたのこの体は……」
 堪らずに女を抱き寄せる彼の手に、自分から柔らかな体を預け、女はささやく。
「私はあなたの夢の女。あなたが創り上げた理想の幻。あなたは見たいものを見ているだけ。総てあなたが望んだこと」
「ぼくは何も……」
 望んではいないと続けようとした彼を、女は唇で沈黙させる。
「仲間になれば、あなたにも私の本当の姿が見える。私たちは老いることもない。真の自由な魂となって、永遠に生き続けるの」
「でも、それは……」
 死ぬことではないのかという言葉も、痛みに似た快感に飲み込まれてしまう。
「私たちは一つの大きな混沌なの。あなたが私に形を与えたのよ。私たちはいつも、あなたのような人の思いに引き寄せられて現象化するの」
 女はいつのまにか、ナイトガウンを脱ぎ捨てている。
「私たちはどこへでも行くわ。どんな姿にもなる。孤独な魂の切実な求めさえあれば」
 彼はその言葉の意味を理解できないまま、ただしっかりと女の体を抱きしめる。
「あなたの魂は、まだ純粋さを保ちながら幼くはない、独自の意思を持ちながら老いてはいない、一般大衆の幸福に埋没できない自分を知っている」
 女の細い体を抱きしめながら、彼は呟く。
「死にたくない」
「死ではないのよ。永遠に生きるの。あなたが私たちを呼び寄せた」
 彼は、自分の手の指が女の口の中に吸い込まれるのを茫然と見つめる。指の腹を、指と指の間を、熱い感触がうごめき、彼の全身を流れる血を沸騰させる。
 思わず上げた呻き声が、快感の故か苦痛の結果のそれなのか、彼自身にも解らない。自分の手の在りかに目をやれば、手首まで女の口に呑み込まれている。
 彼を見つめて微笑む女の唇は、真っ赤に彩られて濡れている。そこから滴り落ちる血のしずくが、彼の視界を一層の深紅に染め上げる。
 理性は愉悦との闘いにあっさりと敗退し、苦痛に薄れそうな意識は、快感によって覚醒を強いられる。感情も感覚も総て女に支配され、その混乱の中で、彼は自分の体に群がる夥しい数の唇をぼんやりと感じ始める。
 自分の肉体を味わい尽くそうとしている、まだ完全には見えない仲間たちの紅い唇を恍惚と見つめながら、彼は女の体にすがりつく。

 

Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)

* 「文華」主催の「トライアングル掌編文学賞」参加作品。
*タイトルバックに「GALLERY DORA」と「@piece by piece 」の素材を使用させていただきました。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと! ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。

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