私、なんだか変なの。
朝からずっと元気のなかった妻が、唐突に言い出す。
あなたが帰ってこない夜は、魂が体から抜け出すみたいなの。
うつむいたままで、男と視線を合わせようともせずに、弱々しい声で妻は続ける。
あなたを待って眠れない夜を過ごしているうちに、私の魂が、魂だけが、あなたのところに行ってしまうようになったの。
いつになく静かな口調が、男の中にじわじわと不安を呼び起こす。
最初は夢だと思ったのよ。でも、ほら見て。この髪の毛。
妻の華奢な手が、一本の髪の毛を男の目の前に差し出した。それは手のひらを斜めに横切る鋭い傷のように、男をぞっとさせる。
これは、あの人の髪の毛じゃない? あの人の髪は、これぐらいの長さで明るい茶色なんじゃない?
男は女の髪を思い浮かべた。何度も愛撫した髪……。明るい茶色の柔らかな髪……。
昨夜も私、あなたのそばにいたのよ。あの人と抱き合って眠っているあなたを見るのは、とっても辛かった。枕元にこの髪の毛が落ちていたから、私、思わず拾い上げたの。目が覚めたら、こんなふうに私の指に絡み付いて……。夢なんかじゃないって解ったの。
静かな恐怖に包まれて、男は何も言うことができない。
私、きっと生霊になりかけてるのね。あなたのこともあの人のことも、決して恨んでるつもりはないのよ。それなのに、私の中で苦しみがどんどん膨らんで、心と体を引き裂いていくの。
妻が顔を上げて、男を真正面から見つめた。怒りも嫉妬も感じられない、ただ愛情をたたえた瞳には悲しみが溢れている。
私が生霊になったら、きっと毎晩、あなたとあの人の枕元に立つわ。そして、ベッドの上のあなたたちを見つめながら、朝まで泣き続けるわ。そんなこと、したくないのよ。でも、自分の意志ではどうしようもないの。あなたを思う気持ちがそうさせるんだもの。
思わず、もう彼女には会わないと男に言わせたのは愛だろうか、それとも恐怖……。
見知らぬ女を抱くように、ためらいがちに自分を引き寄せる夫に体を預けながら、妻はさりげなく一本の髪の毛を床に捨て、足の裏で踏みにじる。
朝帰りした夫の背広の肩にまとわりついていた、憎い女の髪の毛を……。
Copyright(c): Nao Nakazato 著作:中里 奈央(ご遺族)
*文芸投稿バトルサイト「QBOOKS」の「第9回体感1000字小説バトル」の参加作品。
*タイトルバックに「CoCo
Style 」の素材を使用させていただきました。
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中里 奈央(なかざと なお)
某大学哲学科卒業。「第4回盲導犬サーブ記念文学賞」大賞受賞。「第1回日本児童文学新人賞」佳作入選。「第3回のぼりべつ鬼の童話コンテスト」奨励賞受賞。
自らのホームページ(カメママの部屋)を運営する傍ら、多くの文芸サイトに作品を発表。ネット小説配信サイト「かきっと!」では、有料メールマガジン「かきっと!
ストーリーズ」の主力作家として活躍。平成15年10月17日、病気のため逝去。 |