※この作品は、作者のと〜みんさんの希望で、掲載しました。トライアングル三連作の最後を飾る作品になるはずが、締切に間に合わなかったとのこと。こうした前向きな姿勢は、大いに歓迎します。(赤川)

 樹村博隆、五十五歳。今年で三年目になる人事課長は、人知れずため息をついた。このごろ急に気になり始めた髪の生え際を軽く撫でつけて、椅子に背を預ける。煙草はやめてもう十数年になる。だが、今日のような日には手が寂しく思うのだ。今回の面接も大体の印象はぱっとしない。近年の傾向だ。オリジナリティの欠落がはなはだしい。かすかに憤りながら、樹村はなんの期待も持てないでいた。
「つぎ」
 時計は午後の二時を回っていた。五対五の集団面接。着慣れないリクルートスーツに身を包んだ若者が、型どおりの礼をしながら入ってくる。そうだろう、皆、面接慣れはしているのだ。
 営業課長はさっそく女子学生に質問している。樹村は対する五人のエントリーシートにざっと目を通していた。どれもこれも無難な、そう、書き方の見本を抜粋したような内容が並んでいる。一番主張しなければならないはずの志望動機も五枚とも似通っているのだ。思わずこぼれそうになる欠伸を樹村は口の中にかみ殺した。
「そうだな、学生時代は、何をがんばったのかな」
 授業をがんばったとか、野球部でレギュラーだったとか、英会話に通っていたとか、へえ、演劇部ね、それで、はあ、アルバイト。接客には自信がある、か。右の耳から左の耳へ通り抜けていく声。樹村の口から、今度は耐え切れずにため息がこぼれた。慌てて下を向いて、書類に目を落としているふりをする。ふとある個所が目に付いた。演劇部だといった青年のエントリーシートだ。ワープロ文字の羅列の中に簡素な形が浮いて見える。
「自分の長所について、一人ずつ説明してください」
 樹村は顔を上げ自分でもあまりいい響きではないと思いながら、ネコなで声で発言する。だが、声が変に聞こえても学生たちは表情一つ変えなかった。そんな雰囲気がこの空間にはあるのだろう。
 一人ずつ立ち上がる。少し緊張した硬めの口調。自分の真面目な性格や、努力したことについて話している。真面目だというなら、なぜもっと採用される方法を真剣に考えないのだろうかと樹村は思う。
「潮河くん。長所、23とは」
 四人目。彼の長所の欄には23と数字があるきりだった。それが樹村の目にとまったのだ。背筋の伸びた長身がすっと立ち上がった。他の面接官も青年に注目しているのが分かる。ありきたりでない返答を期待していた。皆、飽きているのだろう。年齢が23とある。経歴から見れば、大学入学前に二年浪人しているようだ。その話だろうか。
 潮河という青年は、薄い唇をかすかにゆがめて話しはじめた。
「私は、たいした長所も持たない男です。ですが、ふと気づきました。私の姓、潮河は、尊敬する二人の友人と同じく23画なのです。ちょうど今は23歳でもありますし。これが誇るべき長所だと思いました」
 演劇部だからなのかもしれない。よく通る声で、朗々と語り始める。宙を見据えた目は、白い壁ではなくどこか別の次元を見据えているのだろうか。
「量子論をご存知でしょうか。その昔、といってもまだ一世紀も経過していない概念ですが、ボーアがまとめた原子の電子軌道の不連続性をしめすための概念です。簡単に説明いたしますと、1、2、3、4と言うと私たちは数字が連続していると思います。しかし、1と2の間をきちんと埋まるだけの数字が、1.01という数字もあれば、1.001という数字があり、数限りない数字がとばされているわけです。線路を思い浮かべてみてください。レールは連続です。まあそれだって、原子レベルでみれば隙間だらけでしょうが、それはおいておくとして、レールを連続とします。すると、枕木に目が行きます。枕木は連続したレールの下、1本目と2本目の間はすっぽりと不連続となっているのです。しかし1本目と2本目、3本目と巨視的には連続した数が並んでいるのです。この枕木のように連続した不連続が量子的だというのです」
 リョウシロン。困惑の雲が殺風景な会議室を彩る。その中でただ青年だけが、目を輝かすようにして言葉を継いだ。
「さて、ここでです。23の重要性というものについて考えました。この地球上から23に属する何物かが消失したといたしましょう。枕木でいえば、22本目の次に一つ分余分に空いて24本目となってしまったとします。するとどうなるでしょう。23本目の枕木がなくなれば、連続している上のレールはその部分で大きな負荷を得て破断してしまうでしょう。それだけではありません。アルファベットを考えてみてください。23番目の文字Wがなくなってしまったら。WhatにWhere、Who、それにWhyといった疑問詞がなくなってしまうのです。それに、車輪をあらわすWheelからWが消え失せてしまったら、heelです。かかとで地面を蹴って動く車とは、滑稽ですね。ははっ。いえ、それよりも、もっと重要な23があるのです。お気づきでしょうか。原子量です。炭素を12とした相対量で表される数字で、ものによってとびとびの値をとります。幸いに、23も存在します。ごぞんじかもしれませんが最近、放射性元素として教科書にも載っていた何番目だかの原子がデータの捏造によるデマだとわかったばかりです。もし、原子量23の原子が捏造されたこの世に存在しない原子だとしたら。それはとんでもない大問題です。人の住む地球の姿すら消失しかねないほどの。原子量23それはすなわちナトリウムです。動物は岩塩、塩化ナトリウムのあるところに集まるという話は有名でしょう。人間も例外ではありません。汗がしょっぱいと思ったことはありませんか?
ナトリウムは様々な形で体内をめぐっているのです。そして、海水、これもナトリウムがあればこそです。無くなれば、海水魚が食べられないと、問題はそれだけにとどまりません。海は原始の地球で一番最初に生命の生まれた場所です。その海がもともと真水であったなら、どうでしょう。未だ、生命の起源については解明されつくされてはいないのですが、一つには雷のエネルギーによってアミノ酸が合成されたのではないかという説があるのです。ナトリウムが海の水に含まれていればこそ、エネルギーは活性のまま伝わるのです。体の重要な機能、例えば循環器系などを担うのに適したナトリウムのたくさんある海水だからこそ、生命を生みえたのだと思うのです」
 言い切って青年はやっと息をついた。そして小さく付け足すように言った。
「とにかく23という数字がこのような一面においては重要な数字だということはお分かりいただけたかと思います」
 学生たちは、いや、面接官も皆が気圧されていたようだった。我に返ると互いに顔を見合わせた。その間に青年は唇を湿らせさらに言葉をつづけたのだ。
「さてここで、最初の話に戻りましょう。量子論のお話です。私は人間は量子的な存在だと考えています。つまり不連続な存在です。けれど、この人類の歴史は脈々と連続的に続いています。枕木とレールの関係です。私などはちっぽけな存在です。枕木の下の砂利一つにしかなれないのかもしれません。それでも、その砂利の一つですら、重い大きな人類という列車を走らせるには重要ではないかと思い当たったのです。この世に多彩に存在する原子の中で、ナトリウムは23という原子量をもった一個の原子に過ぎません。けれど、このナトリウムこそが人が生きる世界を構成する上で欠かすことの出来ない一要素でありますように。ですからこの23という共通点を誇りに思いたいと考え、23と書かせていただきました」
 口元にやや笑みを残して潮河は口をつぐんだ。やっと主張が終ったのだ。樹村はどうも自分がこの細い目の若者の仕掛けにまんまと引っ掛かってしまったらしいことを悟っていた。こんな方法で自分の個性をアピールしようとしたのだ。これまで志望動機を熱っぽく語る若者はたくさんいたが、長所に関する、いや単なる23という数字に関する思い入れをこんな風に息巻いて並べ立てられたのは樹村にとって初めての経験だった。大体、量子論だとかなんとか、学生を引退してもはや何十年も過ぎようかという樹村の頭には入ってくるはずもなく、はいそうですか、とそれだけのことだった。きっと他の面接官も似たり寄ったりだろう。横目で伺えば、ぽかんと口を開けた三十男の顔がある。
「そんな君が、なぜわが社に」
 樹村の口からやっとのことで言葉が出た。なんとか平静を装えたかと額の汗をぬぐう。青年は胸を張って答えた。
「このようなささいなことにもこだわることができる人間が、御社に必要だと考えたからです」
 樹村はほうっとつぶやく声を飲み込んで顔の筋肉を動かさないようにした。
 樹村の会社は、自動車や列車の部品である小ねじの製造を一手に引き受けている。枕木を固定するボルトにも社の製品がつかわれているはずだ。業績は安定しているので、就職希望者はそこそこ集まるが、この仕事を好んで受けにきている人間がどれほどいるのか分からない。採用した新入社員の30%が一年以内に辞めていく。会社の中では、仕事にこだわりをもっている人間と、義務感で回っている人間との二種類に大別されるだろうか。えてして前者が社の活力であり、彼はそういう連中と馬が合うかもしれないと樹村は思いを巡らせる。潮河か。樹村の爪を刈り込んだ指がデスクの下で字を描いた。23画。
「では、次、瀬戸くん。手短に、自分の長所について話してください」
 うんざりしたような声が樹村を我に返らせた。隣に座っている部下にあたる男は、手短にという言葉に力を込めて言ったのだ。潮河青年は座り、隣の茶色がかった髪の青年がおちつかなげに立ち上がった。頭の中が真っ白になっているという顔をしている。しどろもどろに発言した。震える声が樹村の耳の向こうを通り過ぎていく。
 樹村は思いついて、デスクの下、指でひざに文字を描く。自分の姓の樹村も、名の博隆も23画だ、と。思わずにやけそうになった顔を頬杖をつく形で押さえる。目線をあげると潮河がまだどこか遠くを見ているのに気づいた。その後、潮河青年の発言は一言もなかった。けれど、誰も彼に質問もしなかった。

 面接は終了した。スーツ姿の若者達が、ガラス張りのオフィスビルから流れ出す。梅雨の滴が乾きはじめた木々が青々と葉をしげらせ、透かした日光は個々のグレーの生地に吸収されて熱と匂いを生んでいた。その流れを遮って歩きながら、瀬戸は友人の少し高い頭を見つけて歩み寄った。張った背筋を平手で軽く叩いた。
「おっ、潮河。お前も受けにきてたんだな」
 目を細めた潮河が瀬戸を見下ろした。髪をかきあげて、瀬戸は息を吐いた。本当にこいつも就職活動をしていたんだなあと、しみじみ思ったのだ。
「お前就職する気あるのか?」
 そんな瀬戸に潮河の口からぶっきらぼうな声がした。これは機嫌が悪いときの声だと瀬戸は思う。しかし、何に腹を立てているのだろう。
「潮河のおかげで、俺この会社落とされそ」
 そうだった。腹を立てるのはむしろこっちのほうだと肩を竦めながら瀬戸は思っていた。
「文章力を生かせと言ったのはお前だろ?」
 潮河が瀬戸を睨んだ。やはりなぜだかいらいらしているようだ。あんなに面接でアピールしておいて、まだ不満があるのかと瀬戸は困惑する。それに加えて外に出たとたんの空気自体の暑さにも閉口していた。無造作に手がネクタイを引き抜く。
「さっきの話を藤本にしてやれよ。よろこぶぞ。それにしても、お前本気で就職する気なのか?」
 瀬戸は潮河の不機嫌の理由を探ろうと、率直にたずねてみる。演劇がどうとかいう話で悩んでいたのではなかっただろうか。
「ああ。あれでとってくれるならこの会社に入りたいと思っている」
「強気だな」
 いつもの潮河らしい答えだ。明確に意思だけを伝える。その自信のありようが、暑苦しく思えて今日の瀬戸は軽くうんざりした。
「何かにこだわる仕事をしてみたいのさ。そうしてそのこだわりを表現する側に、いつかなりたいところだと考えた。就職する気がないなら、活動なんて暑っ苦しいだけでやる意味ないだろう。で、そんなお前こそ、やる気ないだろ?」
 潮河がまた突き放すように言った。要するに、もしかすると、瀬戸の面接態度に腹を立てているのだろうか。こんなところで友人ぶられても、と瀬戸は頭を掻く。
「お前がわけのわからない演説を繰り広げたからだろ? 俺の頭はそっちで一杯になって何を言うか忘れたんだ」
 瀬戸はまいったなと小さく付け加える。本当はエントリーシートの長所の欄に何を書いたかすら忘れていたなんて口が裂けても言えない。潮河がため息をついた。呆れているのかもしれない。言い訳するような気分で瀬戸は言う。
「別にやりたい仕事があるわけでもないし、何か能力があるわけでもないし、金稼ぐだけならぷーの方が自由でいいかと最近思うんだ」
 潮河もどちらかといえばこちら側の人間かと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。そう思いながら瀬戸はスーツの上着を脱ぐ。一瞬のもたついたために、歩調もゆるめない潮河においていかれそうになる。スーツを脇に抱えて、小走りで追いついた瀬戸の耳にはぽつりと声が飛び込んで来た。
「そうか」
 潮河の声は幾分落ち着いてきていた。声のトーンが落ちてしまうと、潮河の表情からは何も読み取れない。表情をうかがいながら、瀬戸はため息混じりにつぶやいた。
「俺に長所なんてあるか?」
 潮河が立ち止まる。瀬戸もつられて立ち止まった。リクルートスーツの流れが二人を残して駅の方へと向かう。潮河は道を脇により街路樹に手を当てた。だまりこんでいる。余計なことを言ってしまったらしい。瀬戸は慌てて乾いた声で言葉をつなぐ。
「いや、それより潮河、お前が枕木の下の砂利ってガラじゃないだろ」
 瀬戸はからかうように言った。潮河は息を吐いて、少し考えた後に口を開いた。
「そうだな。どっちかというと俺は枕木をつつくキツツキぐらいが好みだな。最近の枕木は木製ではなくなっているからつつくのは無理だろうが。そうでなけりゃ、カラス、か。無謀にも線路上に巣をつくってやりたい放題だ」
 ひねくれかたが潮河らしいと思って瀬戸はうなずいた。潮河はちらと唇をなめて続けた。
「で、瀬戸はレールを物珍しげに観察している人間だな。俺のつついた穴を見つけては面白がり、つくった巣を見つけては覗きたがり。そんなお前を見て、藤本は慌てて穴をふさいで、巣を木の上にでも移す。こんな風にお前らみたいな奴のおかげで、やっと俺は社会列車の一連の機構に組み込まれるというわけさ」
 潮河は暑さにやはり強いようだった。スーツの上着もきっちり着たまま涼しい顔をしている。そんな友人を横目で見ながら瀬戸は、襟元のボタンを三つぐらい開けてシャツをばたばたとする。暑さに脳が溶けはじめているのかもしれない。ただでさえ良く分からない潮河の言葉が、ますます理解不能に思える。一体何が言いたいのか。瀬戸の表情に気付いたように潮河は結論を言い切った。
「ようするに、瀬戸は俺や藤本のようなハミダシガチな人間を面白がって社会的に認められるレベルに巻き込めるという長所があると思う」
「難しすぎるんだよ。潮河の講釈は」
 瀬戸は思わずつぶやいた。あきらめに似たため息をこぼしながら、靴底で地を踏みにじった。
「だから、お前は人と接するのに向いてるということだ。きわめて気難しい人間も含めて」
 やっと自分の分かる言葉に出会えた気分で瀬戸は潮河を見た。
「気難しい、ね。なるほど。潮河、お前天才。演劇家でも噺家でもなんでもなりやがれ」
 我知らず瀬戸はうなずいていた。自分の欲していた答えが得られたような気がそのとき一瞬はしたのだ。
「というわけで、傘ありがとう」
 潮河が持っていた傘を瀬戸に押し付けてきた。この前から潮河に貸したままになっていた瀬戸の傘だった。
「持ち歩いてたのか?」
「ああ、早く返さないと気持ちが悪いだろ」
 当たり前のように潮河は言って笑みを浮かべた。すました顔でも、もみ上げあたりから一筋水の跡が光ったことに瀬戸は気づいて見入ってしまっていた。そんな瀬戸に潮河は軽く手を挙げて、背を向けると足取り軽く駅へと歩き始めた。雨の季節が終るのがうれしいのだと背中が語っていた。傘を手に立ち尽くしている瀬戸に気を向ける必要は、潮河にはもう無いようだった。だからといって、もう話が終ったといわんばかりに背を向けた友人をあえて呼び止める話も、瀬戸にはなかった。
 何気なく瀬戸がまた額の汗をぬぐったとき、気休めに朝染めてきた黒毛染めが汗で流れ出し始めていて袖を汚していることに気付いた。渋面が浮かぶ。
「しかし、きわめて気難しい人間と接する仕事ってなんだ? 胃が痛くなりそうだな。大体、社会の役に立つなんて真剣に考えるか? あいつはなんだ……俺より年上のはずなのに、なんであんなに熱いんだ」
 瀬戸は声に出していたことに気づく。そうだ、熱いのだ。就職活動をもっとまじめにやれと、あれは瀬戸に向かって叱っていたのだろう。もう23、そろそろいろんなことに諦めてもいいはずではないかと思う瀬戸も、あと三日で23になる。
 瀬戸はため息をつく。本当はもう少し熱い考え方をしたいのかもしれない。今ちょうどいいことに23だと潮河は言っていたか。諦めるのは、まだ早いのだろうか。潮河のような、きわめて変な奴とも友人になれる特技、これは誇っていいのだろうか。
 口の端からすべりこんだ汗に舌がしょっぱさを感じる。熱弁を思い出していた。その中の概ねは分からなかったが。ソンケイする友人とは、誰のことか。瀬戸の顔がにやける。
「23を誇りに思う、か」
 23ならまだ可能性が残っているのではないか。枕木の下の砂利になるのか、それとも、カラスをひやかす物好きにでもなるか。考える瀬戸の頭上から夏を告げる蝉の声が降り注いだ。眉をゆがめてにらんで、そうしてその声をふりきるように瀬戸は走りだした。まだあまり磨り減っていない角張った靴底が乾いたコンクリートとぶつかって、派手に削れる音をたてる。