● NEXT (No.2)


 白く切り取られた空間というのは、巷でいうよりずっと殺風景なものだ。白い壁を健気に彩る紙細工−−千羽鶴たちも、薄く無機質で味気なさばかりが際立っている。時間感覚などとっくに消失して、壁にかかった日めくりの23の文字がなければ今日が何日かさえもわからない。もっともわかったところでその意味などないのだけれど。
 ああ、でもあの色は。赤から紫へと移り行く鶴のあの色は、虹に似ている。そう思い付くと、ふと私の頭の中に小さな少女の顔が浮んできた。もう、何年前だろう。あの小さな虹子ちゃんに会ったのは。

 私の家には大きな紫陽花の植え込みがあった。祖母が紫陽花を好きで、大切に育てていたものだったが、私はこの花が嫌いだった。どんよりと重い雲の下、しとしとと降る雨に濡れて咲く様が、なんとも陰鬱で恨めしげに見えるからだ。
 その日も雨だった。女が恨み言を込めてすすり泣いているような、嫌な雨。鈍色の下で濡れている陰気な青紫と緑色。その間に、ちらちらと見なれない鮮やかな黄色が動いていた。
「あ……。ごめんなさい。」
 黄色い傘を差したその子は、私に気が付くと慌てて後ずさった。
「紫陽花、好きなの?」
 わざわざ雨の日に傘を差してまでこの花を見つめる気がしれない。そう思った私の不愛想な質問をどうとったのか、彼女はとたんににっこりと満面の笑みを浮かべて頷いた。そして、自分の頭より大きい花毬に顔を近付けた。
「だって、綺麗だし、よく見たら一つ一つのお花がみんな違うし……。きっと雨の音を聞きながら楽しくおしゃべりしてるんだよ。」
 彼女はにこにこしながら私とはまったく逆の印象を口にすると、よく動く大きな目をくりくりさせてこう付け足した。
「ね、紫陽花ってきっとお空の虹がお花になったんだね。」
子どもの突飛な思いつきだと思ったのは一瞬だけで、次の瞬間には成る程、と心の中で唸っていた。
 紫陽花の青紫の花に、緑の葉。彼女の黄色い傘、赤いランドセル、肩から提げたオレンジの水筒。少々色は足りないけれど、確かに「虹」だ。
「あ、あたし、そろそろ帰らなきゃ……。ねえおばさん、また紫陽花見に来てもいい?」 私が頷くと、彼女−−私は勝手に虹子ちゃんと呼ぶことにした−−は、にっこり笑ってスカートの裾を翻して手を振った。その傍らで、自らの半身を失った地上の虹は、とたんにうなだれたように見えた。

「あ。」
 目の前で紫陽花が一枝折りとられ、虹子ちゃんは可愛らしい声をあげて、ぽかんと私を見上げた。まるで自分も痛みを感じたかのように、小さな眉を寄せる。大きな瞳に浮かべられたわずかな非難の色に、私は思わず苦笑を浮かべて彼女に枝を差し出した。
「これ。土にさしてあげると一月くらいで根つくの。持って帰って植木鉢にでも挿してみて。お水は忘れずにあげてね。うまくいけば大きくなって花も咲くわよ。」
 彼女はぽかんとした顔のまま、ぱちぱちと大きな瞬きをして、そしてみるみるうちに顔をほころばせた。
「えええっ。いいの?ありがとう、ありがとう、おばさん。」
高価な壊れやすい芸術品でも扱うかのように、虹子ちゃんは大事そうに枝を手にとった。
 −−その方が紫陽花も喜ぶと思うから。
心に浮んだそんな考えに、私は再び苦笑しそうになった。
 つい先日まで陰鬱な花だとしか思わなかったのに。不思議なことに、彼女に逢って以来青紫の花が何故か健気に見えてきていた。まるで天の川の向こうの恋人の来訪を待ちわびているかのように切なげで、時に透明な雫に身を濡らしている様子がいじらしくさえあった。
 全く、ものに対する印象というのは本当に変われば変わるものだ。そう、むしろ「ありがとう」というのは私の言うべき台詞だった。

 ゆっくりと溜息をつくと、白い部屋の中に広がって消えていく。白い壁というものは音さえ吸い込んでしまうものかもしれない。想い出すら吸い取って行くような視界の白から逃れるように、軽く目を閉じて頭をまくらに預け、再び当時に思いを馳せた。
 あの虹子ちゃんは、その後も時々我が家の紫陽花を訪れた。あの挿し木した紫陽花の枝がどれだけ伸びたとか、やっと花が咲いたとか逐一嬉しそうに報告してくれた。
 赤いランドセルはやがてセーラー服へ、ブレザーへと変わって行き、彼女が訪ねてくる回数も減っていった。そして、最後に彼女を見てからもう10年近くにもなる。
「年を、とるはずだわ……。」
 ぼんやりと天井を見上げ、誰もいない部屋で小さく漏らす。布団の上で小さく握る手にはたくさんのしわが刻まれている。入院してからは鏡を覗くこともほとんどなくなったが、きっとこの顔にもそれだけの月日が刻まれているのだろう。
 不意にドアが開く小さな音がして顔をあげると、そこから小さな虹子ちゃんが顔をのぞかせていた。
「……え?」
思わず目をこすっている間に、愛らしい顔は引っ込められてドアが閉まる。
−−これは、幻?
 遠い過去に迷い込んだのかのような錯覚を覚えて呆然とした私の耳に、今度は礼儀正しいノックの音が届く。
「はい?」
半ば夢見心地で返事をすると、ドアは静かに開いた。
「失礼します。」
 入って来たのはシンプルなブラウスとタイトなロングスカートに身を包んだ女性だった。
「……ごぶさたしています。昔、紫陽花の枝を頂いた……。」
 彼女は私の前に立つと、そう言って軽く微笑んだ。ベッドの中の私の姿に、息を呑むでもなく、憐憫の視線を向けるでもなく、静かにたおやかに微笑んだ。その後ろから先程の女の子がちらりと顔を出す。
「年をとるはずだわ……。」
 彼女に椅子をすすめて、私はもう一度呟いた。私の記憶の中の彼女はずっとあの小さくて、無邪気だった虹子ちゃんで。互いに懐かしい話をしながらも、私は記憶の中にある面影を探して、目の前の成熟した女性をしげしげと眺めていた。彼女は今度はちょっと困ったように微笑んで、口を開いた。
 「そうそう、頂いた紫陽花、嫁ぎ先にも持って行ったんです。そうしたら……。」
そこまで言って彼女はカバンの中から一枚のカードを取り出し、渡してくれた。
「実家に帰った機会にでもお渡ししようと思って持っていたんですけれど……。こちらに入院されているとお聞きして……。」
 そのカードにはうす紅色の紫陽花の花が押し花にされていた。思わず彼女の顔を覗き込むと、彼女はにっこりと笑って頷いた。
「ええ、赤い花が咲いたんです。話には聞いていたけれど不思議ですよね。」
 私はもう一度手許の紫陽花に視線を落とした。一つ一つの花が丁寧に押されて語り合うように毬を形作っていた。その下には少し黄色がかった緑色の葉。そして、右上隅にはサインペンで小さく虹が描かれていた。繊細に、細やかに作られたカードの中で、ここだけが稚拙で、そして瑞々しい。
「あたしがかいたの。」
 私の視線が虹に落ちていることに気付いたのか、彼女の後ろの小さな女の子が顔だけ出してはにかみながら、愛らしい笑みをこぼした。
「そう……。上手ね……。」
 独り言のように言いながら、胸が熱くなるのを感じていた。
 私があの時に感じたあの虹子ちゃんの瑞々しい感性や素直さを、この小さな女の子の中に見た気がしたから。
 なぜ私が紫陽花を嫌い、愛するようになったかが何となくわかったような気がした。
 紫陽花というのは人に似ているのだ。小さな要素が寄せ集まってできた大きな花は、自分の植わった土に合わせて、それでも己の色で咲く。そして、親から分かれた次の世代の枝も、受け継いだ資質を自分の色で表していく。ちょうど、彼女たちのように。

「……来年……、ぜひ生の赤い紫陽花を見て下さいね。」
 彼女は少しためらって、それでもさりげない口調でその先を続けた。
「……ありがとう。」
 その気持ちだけで十分よ、という言葉を飲み込んで、私は久し振りに微笑んだ。

 

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