●NEXT (No.11)


 見渡すかぎりに、海が広がっていた。浅瀬である。薄いグリーンの透明な海の底には、白い砂の隆起がどこまでも続いている。風はほとんどなく、波も穏やかで、液化したラムネの瓶のような色あいの海面は、降りそそぐ太陽光線を反射して、複雑な光の波形を描きながら揺らめいていた。ところどころに白い波がたち、広がっては緩慢に消失する。夏日を受けて穏やかに輝く海面は、どことなく胎児を包み込む羊水を連想させた。広大な海には、手足を弛緩させた一人の少年が浮かんでいる。学生服を思わせる白のカッターシャツ。手首には、デジタル式の腕時計。無機質な灰色の文字盤は、23:00を表示して止まったままだ。両腕を広げ、十字架にはりつけになったようなかっこうで、ゆったりと浮かんでいる。少年の背中側では、海水につかったカッターシャツが、熱帯魚の尾ひれのようにゆらゆらと揺らめいていた。表側は、海水を吸収してぴったりと肌に張り付いたシャツが、太陽光線に温められて、なまぬるい熱を肌に伝導させている。
 やがて少年は、誰かに呼ばれたような様子で、うっすらとまぶたを開いた。そして、生まれたばかりの胎児が、初めて網膜で光を感じた時のように、顔をしかめる。
 世界は、白く、まぶしい。

***


 うだるような暑さで眼を覚ました。全身にべっとりと不快な汗をかいている。さっきまで深い海の底に沈んでいたかのように呼吸が荒く、息苦しかった。どうやらこの熱帯夜に、服を着たまま眠ってしまったようだ。着がえ忘れた半袖のカッターシャツが、汗ばんだ肌にぴったりと張り付いている。マンションの一室には、よどんだ暗闇と蒸し暑い空気が充満していた。僕は、湿気と寝汗でしっとりと湿った枕から顔を上げると、簡素なパイプベッドから上体を起こした。サイドテーブルに置かれたデジタル表示の置き時計は、23:00を示している。反射的に、手首にまいたままの腕時計にも眼をやってしまって、苦笑する。僕の左手首にまかれたデジタル式の腕時計は、もうずっと23:00で止まったままだ。クーラーの設置されていないこの部屋は、熱帯夜特有のけだるい熱気でみたされている。ふいにのどの渇きを覚えたので、パイプベッドから下りて、ダイニングルームに向かった。どうやら電源を切り忘れていたらしいテレビのブラウン管が、真夏の海の色に似た青い光を放ち、薄暗い室内をぼんやりと照らし出している。台所に足を踏み入れると、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、三分の二ほど一気に飲み干した。それから、六畳間に引き返して、再びパイプベッドに寝転がる。 
 …ポチャン……ポチャン。
 いつからこの音がしていたのだろう。どうやら蛇口のしめ方がゆるかったらしく、シンクに置きっぱなしになっていたグラスに、水滴が落下しているようだ。だが、もはや水道代の節約のために台所に引き返す気力もなく、僕はゆっくりと夢の底に落ちていった。


***

「だから、現実と夢の境界をあいまいにする方法なんて、いくらでもあるんだよ」
 ホワイトの化粧板に輪を描いて、透明な水滴がきらめいている。いつの間にか、ぼんやりと視線を落としてうつむいていた僕は、はっとして顔を上げた。会話に熱中するうちに冷めきってしまったコーヒーを、プラスチックのスプーンでかき混ぜながら、彼女は言う。
 場所は、昼下がりの喫茶店だった。僕らのテーブルの左側には、大きなガラス窓が設けられていて、アスファルトを行き交う雑踏を、水槽に閉じ込められた熱帯魚を眺めるように観察することができる。コーヒーのカップが二つのった、安っぽい化粧板のテーブルを挟んで、僕は彼女と向かい合っていた。彼女とは、インターネットの、もう名前も忘れてしまったバンドのファンサイトで知り合った。むちゃな染髪を繰り返したせいで、バサバサになってしまった、わら色の髪。どんな人混みの中でも自然と眼を引きつけられる青色のキャミソールは、クーラーがきき過ぎた店内ではいっそ寒そうだった。彼女みたいな、痛々しいほどにやせてしまっているがりがりの身体つきなら、なおさら。ついさっきまで、相づちを打つ間も無くしゃべり続けていた彼女も、さすがに会話の種がつきたらしく、口をつぐんだまま、ぼんやりとホワイトのテーブルに視線を落としている。マリンブルーとホワイトの二色に塗り分けられた爪が、沈黙に抗うようにカチャカチャと音を立ててコーヒーを掻き回し続けていた。
 今まで、なんの話をしていたんだっけ?
 たしか、魔法を、かけて欲しいかという話だったと思う。
 僕の答えは、なんだったのだろう?
「君は、たしかメールで、永遠を見たいと言っていたよね」
 彼女は、ふといたずらを思いついたようにそう言うと、ゆっくりと顔を上げて、上目づかいに僕を見上げる。
「なら、死と引きかえに永遠を手に入れる方法を教えようか?」
 そして、もう名前も忘れてしまった彼女は、残忍な子猫のように僕に笑いかけた。

***


 どうやら、いつの間にかうたた寝してしまったらしかった。はっとして、ズボンの後ろポケットに入れておいた携帯電話で、現在の時刻を確認する。23:00。彼女との待ち合わせの時間は22:00だ。場所は、水族館の最奥に位置する巨大水槽の前。打ち合わせの際の電話で、こんな遅くに水族館に入れるはずないじゃないかと抗議すると、今夜だけは、特別にオールナイトで営業しているのだと言っていた。実際に、21:00頃までは、目の前で華麗な水中遊戯を繰り広げる水棲生物など、少しも目に入らない様子で、おたがいを見つめるカップルの姿がちらほらあったので、どうやら彼女の話はでたらめではなかったらしい。待ち合わせ時間ぴったりに出向いた僕は、巨大な水槽の前に設置されたスチールベンチに腰かけて、彼女を待った。遅刻の連絡も無いまま一時間も経つうちに、ついうとうとしてしまったようだ。すでに真夜中に近いとあってか、カップルの姿もきれいに消え去り、さすがに館内の人気は絶えていた。
 いつの間にか照明は消されたらしく、水槽の中には、真夏の夜を思わせる濃密な闇が広がっている。しばらくの間、なにも見えない水槽を、見るともなしに眺めていると、無限の奥行きを見せる暗闇に、ぼんやりと白く浮かび上がる物があった。しだいに水槽内部の暗さに慣れてきた眼をこらしてみると、水槽の奥の方に少年の死体が漂っていた。不自然な白さをさらす肢体は、一見して、ふざけて水槽に放り込まれたマネキン人形のようにも見える。しかしその少年は、無機物で作られた人形には持ち得ない、やわらかさとけだるさをもっていた。緩慢な水の動きに合わせてゆっくりと手足を滑らせる死体は、水の流れに従って自在にかっこうを変え、しだいに水と空気を隔てるガラスに向かって、少しずつ近づいてくる。青白い肌と同化したかのように見える白のカッターシャツが、まるで死んだ魚のひれのように、ゆらゆらと揺らめいていた。血の気を失った肌は、まるで白く発光しているようにも見える。
 そして、その周りを、先ほどまでは存在に気がつかなかった、青い熱帯魚が五匹、泳いでいた。少年の死体の周りで、小さな熱帯魚達は、祝福の遊戯を続けている。まるで死体と戯れてでもいるように。
 その光景を見つめているうちに、羊水で溺れる胎児、という言葉がふいに浮かんだ。

***


 …ポチャン……ポチャン。
 絶えがたい熱気が閉じ込められたマンションの一室で、僕ははっと我に返った。耳を澄ますと、機械的な規則正しさで水滴が落下しているのがわかる。暗闇の中にあっても、どこかぬめりのある輝きを放つ蛇口の下には、まるい縁のぎりぎりまで水を張ったグラスが置かれていた。マンションの一室。23:00。暑い日だった。さっきから少しも動いていないのに、肌は目に見えて汗ばんでいる。にわかにのどの渇きを覚えたので、僕は立ち上がると、台所までのそのそと歩いて行き、冷蔵庫を開けた。ひんやりと手の平に心地良いミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、シンクの底で蛇口から滴る水を受けていたグラスを取り上げる。そのままペットボトルを傾けて、ミネラルウォーターをグラスにそそごうとしたところで、汗ばんでいた手の平がぬるりと滑った。
 ガチャン。沈黙と慣れ親しんだ鼓膜をひっかくようなかん高い音をたてて、グラスは真っ二つに分断される。メタリックな金属光沢を帯びたシンクに、ついさっきまでグラスの形をしていた物体の残骸が二つ転がった。ぎざぎざに割れたガラスは、どちらも鋭利な断面をさらしている。ふいに鋭い痛みを覚えて手の平を見下ろすと、人差し指の腹に小さなガラスのかけらが突き刺さっていた。うずくような鈍い痛みに少し遅れて、傷口から滲み出た血液が、半球体を描いてゆっくりと膨張する。
 赤い血。
 その瞬間、奇怪な衝動が僕を突き上げた。僕は、シンクに転がっていた大きなガラスの破片を力一杯につかむと、ぎざぎざに割れた断面を、手首に突き立てた。弾力のある肌に、少しずつ飲み込まれてゆくガラスの先端から、どろりと赤黒い血が溢れ、手首を伝ってぽたぽたとシンクに滴り落ちる。
 これは、過去の記憶を再現した夢だ。
 傷は、消えない。
 …ポチャン……ポチャン。
 そして今も、いっそ機械的な規則正しさで水滴が落下し続けている。

***

 どうやら、ぼんやりとしていたらしい。とっさに自分が存在している時間と位置がわからなくなってしまい、慌てて手持ちの携帯電話で時刻を確認すると、23:00を表示していた。けれども、なぜ僕はこんな処にいるのだろう。場所は、真夜中の水族館だ。右側の壁に、等間隔に水槽が並ぶ無人の回廊。左右にのびる青色の壁も床も、ゆるやかなカーブを描いている。ポスターカラーを思わせる人工的な青色をしたリノリウムの床に、カツンカツンと靴音が反響する。とっくの昔に消灯されたのだろう。天井に並んだ蛍光灯に光は無く、回廊には、重苦しい暗闇が閉じ込められているばかりだ。息苦しいほどの閉塞感とむし暑さ。空気清浄装置が停止しているためか、人気のない回廊には、なま温かい空気が充満している。しかし、頭上に広がる天井が重苦しい暗闇に飲み込まれているのとは対象的に、右側に点々と続く水槽は、白々しく発光していた。上方に取り付けられたライトでこうこうと照らし出された水槽が、リノリウムの床に光と闇のコントラストを描いている。しかし、水槽の中に一匹も魚はいなかった。水底の酸素ポンプから放たれる気泡だけが、生命を宿しているような複雑な動きを見せて、水面に上昇する。
 僕は、自分がなぜこの場所にいるのかわからないまま、静まりかえった回廊を出口へと向かって歩いて行った。そして僕は、出口の手前に位置する、最後の水槽の前で足を止めた。僕の足の動きに合わせて、やけに大きく響く靴音も、不気味な余韻を残して消失する。人工的な白い砂が敷き詰められた水槽の底に、白いかたまりが沈んでいたのを見たからだ。
 白い砂の隆起。水槽の片隅には、青々とした水草も植えられている。よく見ると、水底に沈んだそれは、切断された人間の手首だった。白々しいダウンライトを浴びたそれは、美術館に陳列された芸術作品を連想させる。リアルすぎて、かえって偽物じみた光景だった。すでに一つ残らず死亡した細胞のせいでそう見えるのか、ろう人形を思わせる不自然に白い肌。奇妙になまなましい切断面。不自然に断ち切られた毛細血管と動脈。まがまがしい朱色をさらした筋繊維。どこか模造品めいた骨の白さ。
 どれくらいの時間が経過しただろうか。
 やがて背後から、カツンカツンともう一つの靴音が、聞こえた。

***


 背後に人の気配を感じて振り返ると、驚くほど間近に彼女の顔があった。
「あーあ、やっぱり殺しちゃったんだ」
 六畳間に置かれたテレビが放つ、青い光にぼんやりと照らし出されて、彼女は、品のない嘲笑の形に唇をゆがめて笑っている。僕はと言えば、さっぱり現在の状況を理解できず、混乱の境地に立っていた。この状況にいたるまでに僕がしたことと言えば、暑さにうなされて真夜中に起きてしまい、のどの渇きを癒そうと思って、冷蔵庫を開けただけだ。そして、今では、冷蔵庫の中に若い女の死体を見つけて、どうするべきかと途方に暮れている。なぜこの部屋に死体があるのか、なにも思い出せない。明らかに、記憶が混乱していた。冷蔵庫の中には、人工的な印象を抱く真っ白い光に包まれて、若い女の死体が、子宮内の胎児のように身体を折り曲げて、きゅうくつそうにおさまっている。よく見ると、左の脇腹にナイフで刺したような裂傷があった。死ぬ前にひどく出血したらしく、冷蔵庫の冷気でしっとりと湿ったジーンズが、傷口から溢れ出した血液で、どす黒く染まっている。けれど、不思議とまがまがしさはなく、悪趣味な現代美術のようにも見えた。脇腹の傷口に顔を近づけると、かすかに不快な腐臭が鼻腔を突き上げる。すでに腐敗が始まっているのだろう。だが、この様子だと、殺されてからまだ間もないはずだ。いや、もしかすると、僕が殺したのかもしれない。
 やがて、視線を上方に移した僕は、死体が身につけているのが、べっとりと血がこびりついた青色のキャミソールであることに気づいた。がりがりにやせた、飢え死にしかかっている野良猫を思わせる肢体。むちゃくちゃな染色と脱色を繰り返して、生気を失ってしまった、わら色の髪。そこまで視界におさめた僕は、やっと、目の前のそれが、この手で殺した彼女の死体であることを思い出した。ぞっとして背後を振り返る。じゃあ、君は誰なんだ、と震える声で尋ねながら。すると、彼女は、なまめかしい唇をみにくくゆがめて、けたたましく笑った。若々しい容姿からは信じられないほどに、よどんだしゃがれ声だった。それは、老木のうろを吹き抜ける真冬の夜風のようにうつろに、僕の思考をじわじわとむしばんでゆく。
「じゃあ、君だって誰なのさ。ねえ、知ってた? 本当の君は、あの夏の日に崖から飛び降りて、一度死んでいるんだよ。けれど、私が生き返らせちゃった。君は覚えてないの? 気がついたら浅瀬の海に浮いていたよね。あの時、びっくりした? あれね、全部私がやったんだよ。私も君と一緒に、偶然あの海にいたんだよ。小さな青い熱帯魚。本当に、覚えてないの? 君が死ななかったのは、私のおかげなんだから、君は私に感謝しなくちゃ。あのね、いちおう言っておくけど、そんなことじゃ、私の魔法をとくことはできないよ。私を殺そうとした罰に、君なんてずっとずっと、夢と現実の境界をさまよい続ければいいんだ。だって他でもない君が、この姿を借りて再会した私に、死と引きかえの永遠を望んだはずじゃないか。君が自ら切り落とした手首と引きかえに、私は永遠の時間を与える、そういう契約を交わしたはずだよ。つくづくかわいそうな子だよ。いかに愚かな幻から逃れようとあがこうが、全ては無駄なこと。お前が切り落とした手首の傷が癒えないのと同様に、世界最後の魔女がつむぎ出した鎖を断ち切る術は無いのだよ。元よりお前は、死と引きかえに永遠を望むべきではなかったのさ。お前達人間とは本来、百一の元素によって構成された不可視の真実と有限の不思議を糧として生きる者、それでも無限の幻を希求するのならば、それは羊水に溺れる胎児と同じ結末をたどるのは自明の理。それでもお前が、現実からの離脱と夢幻への還元を望んだのならば、生から死への一時の幻をさまよい、無限の海へと続く永遠の落下を続ければいいのさ」
 そう言いながら彼女は、マリンブルーとホワイトの二色に塗り分けられた爪で、望み通り手に入れた獲物をもてあそぶようにゆっくりと、僕の頬をなでた。
 もうずっと、僕の時計は、23:00を表示して止まったままだ。

***


 ずっと悪い夢を見ていたような気がした。
 僕は、ゆっくりとまぶたを開けた。真夏日だった。僕は、はるか下方に海を見下ろす崖の上に、手足をのばして横たわっていた。白い半袖のカッターシャツ。頭上には、地上に存在する生命の全てに殺意を抱いているかのような、傲慢な太陽。足元には、濃く黒い影が凝固して、うずくまっている。ごつごつと隆起する岩場が無防備な背中を痛めつける。眼下の海から吹き上げるなまぬるい潮風に、額に張り付いていた前髪がわずかに揺れた。シャツがぴったりと張り付いた背中を、不快な汗が伝い落ちてゆく。呼吸すらいとわしくなるほどに、暑い。僕は、決して寝心地が良いとは言えない岩場から身体を起こして立ち上がると、眼下に広がる海を見下ろした。雲ひとつ無く晴れ渡った空を映した海面は、粉砕した鏡のかけらが漂流しているかのように、ぎらぎらとまぶしい。強烈な光の乱反射に、網膜を痛めそうになって、僕は眼を細める。
 しばらくの時間、そうやって海を眺めていたが、やがて洗いざらしたスニーカーの底で地面を蹴り、疾走を開始する。
 耳をかすめる風の音。
 空気の抵抗感。
 次第に、加速する。
 風。
 光。
 ぐんぐん視界に迫る、
 青。
 そのまま、
 空と海の境界に向かって、
 飛翔する。
 回転。
 海の青。
 空の青。
 落ちる。
 落ちる。
 落ちる。
 そして、僕の存在は、この現実から、緩慢に、急速に、消失する。

 水は、冷たい。

 

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