●NEXT (No.14)


 眠れん。
 メッタに聴かないクラシック音楽のCDレンタルしてきて、それかけて。
 メッタに飲まない焼酎、割らずにイッキにかっ喰らって。
 とにかく無理矢理、枕に後頭部を押し付けて。
 んのに。
 さあ開け、眠りの国への大門よっつっても無駄。微動だにせず開門を待って15分経過。
 眠りの国への門が開くどころか。逆にぱっくりと開いたのは、俺の目。
 眠れんって。
 天井の闇の隅っこにじわじわとわだかまっているものを凝視する。わだかまっているものは、見えるものだ。わだかまっているものは、せせら笑う。ふははは眠れまい。
 奇異な想像はしかし、夢へと続くシッポではなく。漠然とした闇の中で溜息に変わる。
 天井に向かって吐き出す。酒くせぇ。わだかまっているものは薄れる。
 で、寝返り新記録を更新する頃には、カーテンの隙間から白い陽光と、いう寸法。

 毛布にくるまって、眠れない日々は不毛。

 朝。昨晩の焼酎はぎりぎり体内で分解できたようだ。朝一の小便で勢いよく体外へ。
 ふらふらと万年床に戻り、枕を睨みつける。俺の頭の形にへこんだ部分を、グーで殴る。
 寝付けないのは確かに俺自身の非だが、俺の脳ミソを寝付けさせないのはこいつだ。
 責任逃れだって、いえるもんならいってみろ。この糞まくら。駄まくら。罪悪感くらいは感じてんのか。
 俺はいつものように憤慨しながら身支度を整え、アパートを出た。
 大学へ行くのには原動機付き自転車を使う。スーパーカブ。
 運転しながら、目をしぱしぱさせる。我ながら少々危なっかしいなあとは思う。
 交差点にて。信号待ちで大あくび。今更。周囲のぬるぬるがそうさせるのだ。
 周囲の空気がぬるぬるしている。そう感じられるのは、季節のせいだけではあるまい。
 そのくせ、朝の陽光は遠慮なく眼球を刺す。どんな季節でもこの鋭利さは不変。
 不具合な目を光から守るため、太陽から目をそむける。通りに並ぶ店をだらっと、見るともなく見る。
 大学構内直前の交差点には、民家を挟むようにして、新旧色んな店が並んでいる。
 コンビニだのビデオレンタル屋だのは、新しい部類の店。
 派手な看板のそれらとは異なり、一見民家なのか店なのかわからないがよく見ると看板がへばりついているのでかろうじて店、といったものも建っている。
 見慣れた街並みだ。大した感慨も抱かず、だらっと、店を見る。
 そこで。
 不具合な目が、「む」と何かをとらえた。
 一見民家、ではなく、もうただの、民家。こんなところにこんな家があったっけ、と思うほど、普段見た覚えのない民家。
 忽然と出でた感が違和感を呼ぶ。
 こげ茶色主体の地味トーンの平屋。自己主張に飽きた感じの木々に挟まれた、ガラガラ音で開くようなガラス戸の玄関。昭和ロマン民家。
 セブンイレブンの隣で完全なる忘却をただ待っている。そう見える。
 しかし、見えている。
 交差点。大学に向かって左車線側で、信号待ちヒマ原チャライダーの視線を、原チャを購入した大学一年五月前半〜大学四年四月二十三日まで約四年間避け続けるとは。
 この家。すごい、というより、おかしい。
 おかしいと思い、よく見ると、ガラス戸に一枚小さな張り紙があるのに気付いた。
 さらによく目をこらす。
 「23よってらっしゃい。まくら貸します」
 と、読める。なんと達筆な。
 思った瞬間、俺の後ろに停まっていたトラックが、轟音とともに俺の右肘すれすれを走り抜けた。
 びくりとして顔を上げると、信号は既にエメラルドグリーンに変わっていた。
 なんと達筆なという感想は、ますますおかしいという感慨を経て即、原チャの左ウインカーを点滅させた。
 俺は呼ばれているのだ。23よってらっしゃい。ニイサンヨッテラッシャイ。ニイさん寄ってらっしゃい。
 そして浪人したので今年俺は23だ。そしてニイさんと呼ばれても何らおかしくない年恰好。
 風俗業の呼び込みか? まくら貸すって、まくらって名の女を貸すってことで、実は本当に風俗店とか? 
 んなわけねえよ。こんな大学通りに。
 だがまあ、駄洒落たセンスは割と好きだ。
 歩道の脇に原チャを停め、ゆっくりとまずは外から、張り紙民家の様子を伺う。人が住んでいたらびっくりだな、というくらいのボロさ。
 四隅を画鋲でとめられた張り紙は、しかしまだ不自然に新しい。墨、ちゃんと乾いてんのかこれ。ガラス戸の取っ手は、婆さまの手みたいにがさがさなのに。
 戸を無理矢理に開けた。埃っぽさに軽くむせる。土間からはすぐ、座敷が見えた。人の気配はない。
 薄暗い中に向かって、ごめんください、と小さく声をかけた。
 途端、どさり。で、びくり。
 何かが、落ちてきた。落ちたものより先に、天井は天井だけであることを確認する。
 深呼吸で動悸を静めて、落ちたものを見る。
 枕だ。足元に枕。
 まくら貸します。マクラカシマス。
 まくらは、枕か。貸すって、枕をか。
 何度か家の中に人を呼ぶが、応えはない。
 ふむ。23ヨッテラッシャイ、で寄って、まくら貸しますで、借りる。ふむ。
 ならば、借りて帰ろう。間違ってはない。
 俺は枕を拾い上げて埃をはたいた。しゃん、と涼やかな音が立つ。細かい豆が程よく詰まった、いい感じの枕だ。これは、俺の睡眠に革命を起こしてくれるのではないか。
 枕を小脇に抱え外に出た。原チャにまたがる。大学と反対方向の車線に乗る。
 枕は、家に置いてくべきだ。大学に持ってくのは、ちょっとな。

 で、その夜。いつもの糞まくらを布団の上から放り投げ、借りた枕を据えてみた。
 まるで初めからそこにいたかのようなハマりよう。素敵。
 俺はご満悦で茶碗に芋焼酎を注ぐと、イッキに飲み干した。かっと腹が熱くなる。
 ヴィヴァルディのCDをかける。布団の上であぐらをかき腕を組み、ヴァイオリンの調べに身をゆだねる。
 酒が回り始め、俺はそのまま枕に倒れこんだ。いい感じに、眠りに入る前の感覚が思い出される。
 よしいいぞ。眠れる。やっぱ枕が悪かったんだな、あの糞まくら、駄まくら。
 色々考え、うとうとし始めた。人の気配が隣に。夢のしっぽか。
 がば、と跳ね起きた。
 女が俺の隣で寝ている。
 すらりとした長い手足をゆるくまるめて、細長い髪をうなじに絡ませて。薄手の白いワンピースで。
 誰だ、どっから入った。って何で俺の隣で寝てんだ。美人だ。いやまず人か? 妖怪? いやでも、美人だ。美しい人と書いて。人だ。あたふた。
 「まくら」
 美人が、目をとじたままで小さくつぶやいた。
 「まくら、とって」
 日本語だ。日本人だ。日本人の美人だ。
 美人は確かに、手を頭の下に敷いているだけなので、寝にくそうだ。
 俺は言われるままに、放り投げた糞まくらを拾い上げ、美人に差し出した。
 美人は薄く目を開けると、ぱっと俺の手から枕を奪い、自分の後頭部にあてがった。そのまま、すうすうと寝息をたてはじめる。ヴィヴァルディ、これはどういうことだ?
 枕を並べて、美人と二人。
 天井の闇の隅にいるわだかまりの、高らかな笑い声が聞こえる。うははは美人の隣ではますます眠れまい。
 その通りだ。ってか美人というより、なんだかよくわからないものだ。なんだかよくわからない存在の隣で、眠れるものか不眠症が治るものか。
 手をのばし、触って存在を確かめようとしたが、ナイスタイミング寝返りではぐらかされた。少年誌ラブコメチックな展開。憤慨が高まる。なんなんだよ、もう。
思いっきり荒っぽく、借りた枕に後頭部を押し付けた。奇なものには畏怖より怒りだ。
 そして気付いた。奇は奇から現れたのだ。枕も奇だ。
 この枕め。貸しますっつーから借りてやったのに、なんだこの仕打ちは。くそう。
 お前も糞まくらだ。駄まくらだ。ちくしょう。
 糞まくら貸された。駄まくら貸された。ダマクラカサレタ。だまくらかされた。
 笑えねえ。
 「ちょっと、あんた」
 俺は半身を起こし、ゆっくり上下する女の背中に声をかけた。「おいって」
 女は手の甲で額をごしごしこすって、あくび混じりに答えた。
 「なに」
 なにって、「あんたこそ、なんなんだよ」
 「はぁ?」
 「はぁじゃねえよ、答えろって。妖怪か?」
 問うと、女はまゆ毛をハの字にしかめて、目を開けた。「はぁ?」
 「違うのかよ」
 「あんな節操ない連中と一緒にしないで」
 で、また俺に白いワンピースの背を向けて。
 はぁもう何がなんだか。めんど。
 俺は追究をやめて、再び枕に頭を預けた。闇のわだかまりを睨みつける。笑うな。
 「目を閉じなさい」
 と、隣から声がした。女だ。背中でしゃべる。「目を閉じないと眠れない」
 何をいう。「目を閉じても眠れないんだよ俺は」
 すると、女はくるりと寝返りをうって、俺の側を向いた。目は閉じたまま。
 閉じなさい、と女はまた、そう告げた。目を閉じているのにこの威圧感。タダ者ではないな。わかってるけど。奇なモノだ。
 威圧感に気圧されるかたちで、俺はいわれるままに目を閉じた。
 すると不思議なことに、閉じたのは目であって耳ではないのに、静寂が満ちた。
 包む、包まれる。
 すっと、割りバシをハシ袋から抜き取る感じ。袋は静寂。
 包む、包まれる。ふむ。
 静かだ。溶けてなくなる。消失感。
 ああ、今更、消失とか、馬鹿らしいな。やめよう。
 目を閉じれば、存在しない。今、見ていることが全て。
 女が、俺のすぐ隣でつぶやいた。
 俺は、口の中で繰り返す。メヲトジレバソンザイシナイミテイルコトガスベテ。
 妙な哲学だな。
 でも静寂は、本物だ。身体がゆっくり、ぬるぬるどろどろした周囲に溶けていく。
 感情が、えらくあわあわとした、掴みどころのないものに。
 隣の存在は奇、しかし存在それ自体は奇ではない。存在しているから。とか、そんなことを考えた。眠く、なってくる。

 眠れた?

 カーテンの隙間に白い陽光、毛布にくるまって朝。
 しばらく天井をぼんやりと見つめる。

 眠れた?

 ああ、眠れた。
 わだかまりは、俺の隣に凝縮されて寝息。女が、俺の隣ですうすうと眠っている。俺の糞まくらを抱きしめている。黒髪が頬に張りついている。
 俺は起き上がった。四肢が潤っている感じがする。
 俺は大きく伸びをし、奇なる美人をまたいで、カーテンを開けた。じゃっ、と。隣のアパートの壁に映る陽光を、顔をしかめながら見る。
 ああ、眠れた。駄まくらでは、なかった。だまくらかされては、いなかった。23歳のニイさん寄ってらっしゃいで、寄ってよかった。
 ゆっくり振り返る。美人と駄まくらは消えている。
 なんというか、案の定、という気がした。消失感とか、抱けん。
 消失っつーか、勝手にいなくなっただけだ。目を開けてるのに、存在しないとか、あり得ん。
 いる。いなくなっただけ、ここから。
 布団の上に座り、俺の枕の窪みを見つめる。俺の頭の形ではない。いくぶん小さめの。
 奇なるものが確かに存在したことの、証拠だ。
 寝ぼけ眼ではあるが、その窪みはしっかり見えている。

 その日の登校中に、前日に俺が寄った家は全く見えなかった。
 代わりに、目立たない地蔵が立っていたことを思い出した。
 俺が見たときは、あったんだがなあ。
 まあ、目を閉じればなくなるのだからな。そのようなものなのだろう。

 見えはしなかったが、ニイサンよってらっしゃい、という声は聞こえた。
 声では、ちょっとなあ。

 

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