●NEXT (No.16)


 十三歳の初夏、私の中のまだ小さな世界全てが夏の訪れを感じ始めていた頃、木漏れ日がふわふわと舞い降りる通学路は、青々と茂りだした木々の匂いで満ち溢れていた。私の制服はゆるやかな風の流れに身を任せてはたはたとなびき、微かな空気の流れは私の耳に楽しそうなささやき声を残していった。私は午前中の休日に別の道のように静まり返った通学路を歩いている。その頃の私の心の中には、常に言いようのないざわめきが執拗にまとわり付いていた。けれどもこの道を通るといとも簡単に、木々の葉はそれを優しく包み込み、嘘の様に心のざわめきは消失していった。そしてその後にはいつも胸にほんのりと残る温かい何かが残っているのだった。この頃、それにはまだ名前がなかった。
 私は休日も部活で登校していた。休日にここを歩きたかったから入部したのか、入部したからこの道を歩いているのか。その頃の私には一見、どちらもが当てはまるようで、どちらも的を得てはいなかった。
 中学校に着くと楽器の音が幾重にも重なって聞こえてきた。私は部室のある四階を一度仰ぎ見てから、急いで昇降口へと駆けた。部活はコンクール前で慌しくなっていた。私はまるで自分の事ではないような遠い目で慌しく動き回る皆を見ていた。私はまるで与えられたからという単純な理由をいかにももっともだと言わんばかりに、機械的に張り切り、自分の楽器を持って、課題曲の練習にひたすら励んでいた。
 個人練習に入って、好きな所に行けるようになった私は、誰もいない校舎の裏庭へと独り楽器と譜面を持って歩いていった。裏庭に着き、周りを見渡すと古く黒ずんだコンクリートの校舎は「また来たのか」と言わんばかりに寂しげに私を見下ろしていた。ここを包み込む静けさは決して温かくはなく、まるでひんやりとした石が私の肌に触れているようだった。
 私は裏庭の池の近くに置かれているコンクリートのベンチのようなものに腰を下ろした。これはベンチというべきか大きなコンクリートの直方体の置物というべきか他人に説明するときに良く迷う。これが何故ここにあるのかという事すら誰も知らない、そんなものだった。
 私は夏が近づくにつれて人を避け始めていた。人よりこの説明も付かないコンクリートのベンチに座っている方が心地良かった。近頃はベンチに横たわって、水色の空を見るのが習慣になっていた。流れる白い雲をただただ流れるままに校舎で雲が隠れて見えなくなるまで追っていくのが普通になっていた。そのまま寝てしまう事も良くあったので、この際、まくらでも持参しようかと思う程に頻繁に眠ってしまう日々だった。
 私は今日も例にもれず、いつの間にか眠っていた。けれどもこれが夢で嘘の世界を無意味に見ているとも思えなかった。私の中の小さな世界の地図の境界線は現実という名でも夢という名でも区切れてはいなかった。どちらも同じくらい私に影響を与えていた世界だった。この時はただ他の人が夢と言う、その世界にいた。
 気づくと馴染みのある教室にいた。ただいつもと違う事と言えば、誰もいなかった。私の目の前には昼下がりの日の光が窓から注がれ、暗がりの教室に並べられた机と椅子にほんのりと日光の黄色い光が反射している光景が映し出されていた。改めて教室を見渡すと端に誰かがいる事に気がついた。
「………あ…。」
 私は喉から出かかった声を無意識に塞いでしまった。それは小学校の頃、友達からしつこく聞かれて適当に言った好きな人。その彼がいた。普段は何事もなく彼に接しているのに、この時の私は夢である筈なのに、声をかける事を何故だか激しく躊躇していた。此処は何だか落ち着かなくて居心地があまり良くないように思えた。だからと言って、すぐに教室から出る事は叶わなかった。何故なら、私は振り返ることが出来ない為に、扉を見つけることが出来なかった。諦めて彼から一番遠い対角線の場所の椅子に座り、机に頬杖を付いた。ちらと見ると、彼はずっと窓の外を眺めている。それはあたかも近頃の私のように遠く遠くを見ていた。私は少しずつこの教室の雰囲気が通学路の雰囲気と似ているように感じ始めた。何かが変わったのか、私には見当もつかない。だが、とてもとても静かなのに温かい。
 私は決心をして立ち上がっていた。そして彼のいる場所にゆっくりと歩いていった。私は彼がどこを見ているのかとても気になった。
「…ねぇ…。」
 何も言わないで近づくのは気が引けたから、小さな声で声をかけた。その声は少し上ずっていたので、恥ずかしくなり私は貝のように口をつぐみ下を向いてしまった。
 静かだった。彼は何も言わなかった。まるで彼の周りの時間が切り取られて止まってしまったのだろうか。私は再び顔を上げて彼の座っている椅子の横の椅子に腰をかけて机に片肘をついて彼が見ている方向を覗き込んだ。
 雲一つない空が広がっていた。
 それだけだった。
 それだけ…?
 彼がいきなり立ったので、私は慌ててしどろもどろになった。しかし彼は私なんか初めからいないかのようにすたすたと黒板の方に歩いていき、チョークを持って何かを書き始めた。
『23』
 彼はそう黒板に書いた。
 そして相変わらず彼は私に見向きもせずに無言のまま扉へ向かって歩いていった。彼は扉に手をかけて少し開けた。私は黒板を見続けて一生懸命に彼の書いた数字の意味を考えていた。彼は扉を開ける手をふと止めて言った。
「…誕生日…どこで知ったの?」
 私は驚いて彼のいる扉の方を見た。だが、そこにはもう彼の姿はなかった。
 気が付くと私は裏庭のベンチの上にいた。ゆっくりと起き上がって顔を自らの両手で覆った。相変わらず裏庭の空気は肌にひんやりとしていたが、頭の中はそれとは反対にぼうっと熱くなっていた。
「…そんな…。」
 ため息混じりにその言葉を吐き出した。私自身の手で覆わた、もう夢ではない暗い視界の中に私はそれを見つけてしまっていた。
 裏庭の少し行った所にはあるものが存在している。それは彼が所属している部が使用している建物。おそらく彼は今もそこにいる。
 心のざわめきも、心をくすぐる温かいものも、全て同じ名前のものだった。
 恋という名の。

 

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