●NEXT (No.20)


 世の中には本当にどうしようもない、致し方ないことがあって、それは誰にでもあり、且つ、何時も何処にでも何度もあるものなので仕様がない。それゆえ、たとえば私が妻も子供もありながら、若い女に目を奪われる時分があったりとか、時折は同僚の誘いを断ってただひとりで酒を呷りたい気分になったりとか、取引先に金を貸したくても渋ったり剥がしたりしなければならない身分であることとか、それらのひとつひとつは本当に避け難いものであるので、どうにも抗しようがない。ケッシテワタクシドモノセイデハゴザイマセン……。それに附して、たとえば酔いすぎたときなどに自分の口からもれたコトバたちや、同じく喉から吐き出された吐瀉物などは、どんなに取り消したいと願っても、いかにせがんでも、訂正できる類のものではない。否、嘔吐した液体などは机や床を拭くことによって、消失せさしめることができるのである。であるが、私が汚物をもどしたという事実と、私の口蓋から飛び散ったコトバなどは、カタチをもって職場や居酒屋の机や床の上に附着して、丸く下半分がめり込んでいる。
 マサアキさん。
 以上のような理由により、たとえば私が疲れて遅く帰った家で妻にわけのわからないコトバを投げつけて当り散らしたり、とか、真夜中の通信販売のテレビ番組を視聴して、ウォーキングマシーンやぶら下がり健康機器などにいとも安易に財布の紐を緩めてしまうことなども、抗い難い事象なのである。部屋が器具で徐々に狭くなる。
 ソノヒノ……、否、その日のアフターファイブには、私は忘年会の出席を断って、池袋のバー「Circus」にてジンを飲んでいた。忘年会を欠席してバーにひとり酒を飲みに行く上司に、部下達はどのような印象を抱いているであろう。しかし、私は「Circus」に行くということを何人にも伝えていないし、同僚には、叔母の法事で、と言付けてある。冷静な感覚を持った人間であれば、私の叔母の法事が本年度は総計でもう二十三回にもおよんでいることをあやぶむはずである。だが、多くの人は他人の親類の葬祭事情になど積極的に興味を抱くはずがないので、そのことに関して指摘されたことは、まだない。もっとも、指摘されたところで、持ち前のユーモアのセンスを駆使して、そらとぼけて切りぬけられるであろう、ト、ワタクシコノヨウニジフシテオリマス。
 マサアキさん。
 店内は薄暗く、微小な音量でニューオーリンズジャズが流れていた。カウンターも壁も酒壜の並んでいる棚も、どれもがこげ茶色で、シックな雰囲気を醸成していた。所々にジャズのレコードのジャケットが飾ってあり、音楽に疎い私にも、ルイ・アームストロングの「What a wonderful world」の横顔やデューク・エリントンの額のしわには確かに見覚えがあった。誰かが飲んでいるカルアミルクの甘い匂いが鼻先をくすぐった。いわゆる、大人の隠れ家、といった感じでもなく、奥のボックス席には学生風の男達が五六人ほど、談笑を交わしており、わりあい活気があった、と言わねばならないだろう。結婚してもう十年以上にもなるが、結婚前や新婚のころには、こういった指向の店にもよく顔を出していた。近頃はひとりでの飲食といっても和食や居酒屋ばかりであったので、ここ「Circus」の古き良きアメリカへのオマージュが感じられるおもむきはかえって新鮮であった。
 タンカレーを二杯あけて、アクアビッツを頼んだころ、私は席をひとつあけた隣に若い女性がいることを発見した。何時から座っていたのだろう、私が店にはいったときは既にいたか、いなかったはず、いや、私が店にドアを開けたとき、私は頭の中のごちゃごちゃの部分を切りわけてタイルのように配列しなおしていたので、よくは憶えていない、まるでコンピューターをメンテナンスするときのデフラグのように頭の中のハードディスクをくるくる、不要なファイルを削除しますか? 論理エラーがあります、物理エラーもあります、くるくる、マサアキさん、断片化したファイルを結合します、くるくる、としていたところだったので、よくは憶えていないのである。
 二十歳くらいであろうか。いや十代かもしれない。女は三日月型の尖った目をしていて、化粧の厚く、真っ赤なルージュをひいていたが、眉までおとした前髪と肩甲骨あたりにまで届くまっすぐな黒髪を見ていると、生来の童顔の隠し切れなさも相俟ってか、極端に幼くも見えた。真紅のドレスと、これまた赤いパンプスが、かえって不器用な感覚を醸していた。
 女はコーヒーを、マサアキさん、飲んでいた。
 こういったときに声を掛けたくなるのは、いたって仕方のないことであり、男というのは大抵の場合、ひとりでいるのが好き、とのたまいつつもひとりのサビシサを癒してくれる女性を眼の端で探しながらヒトリデイルのであって、そこに同じくひとり佇んでいる女がすぐ側にいるのならば、そのヒトリを共有しなければならないという使命感が内にぐつぐつと沸いてしまうのも、言わばどうしようもないのであって、これら全ては私の所為ではない。かくして、相手の女性もヒトリをキョウユウしたいと思っているだろう、と男が思い込んでしまうのも、ワタクシドモノセイデハ……。
「コンニチハ」
 女は案外、人見知りをしなかった。人懐っこく、私の質問に答え、私に問い掛けてくる。シゴトのこととか。
「いや、銀行マンといってもほんとにしがない、うだつのあがらないただのサラリーマンですよ」
「でも、やっぱり、エリートですよね。わたし、銀行に勤めていらっしゃる方にお会いしたのは初めてです」
「とんでもない。不況ですから、たとえばもうすぐ新卒採用の時期ですがね、百人以上の学生に内定を出しても、みんな蹴っていくんですよ。大手メーカーや人材会社の滑りどめですよ、ウチは」
「わたし、金融のこととかよくわからないですけど、やはり皆さん頭がよろしいのでしょう?」
「まさか。みんなばかばっかりですよ。社員だって、政府の連中ですら何もわかってない、失業率だってまだまだあがり続けているというのに、グローバルスタンダードだの、キャッシュフローだの……、インフレターゲット論に関してはほとんど白痴的ですね。インフレターゲットをデフレ回復のために導入したことなんて、歴史上一度もないんですよ。お国はフリードマンとかハイエクをいまだに信奉して、どんどん小さな政府へと向っているみたいですが、そのまえに雇用や年金など社会保障をどうにかしろ、と。そもそも冷戦型の二文法的思考や市場原理主義のパラダイムの呪縛ガイマダニネヅヨクノコッテメイカクナリユウモナクアメリカノイッコクシュギヲセカイジュウガササエテイルゲンジョウガ……」
「あの、わたし、ちょっとお手洗いに行ってきます」
 女、放尿センガ為ニ席ヲ立チヌ。
 飲み過ぎてはいけない。飲み過ぎてはいけないし、飲んだら乗るな、乗るなら飲むな、それは十分承知している。でも、また、調子に乗って、取り消したいコトバ達が、また、ほら、カウンターの上に丸くめり込んで、イッパイアッテ、結構重そうである。鉛色のキンユウフキョウがころころと左の方へ転がっていった。楕円型のリョウテキカンワがゆら揺らめきながら、足元に落ちて、鈍い音を立てた。
 女はしばらくマサアキさん戻ってこなかった。
 タンカレーを二杯あけて、アクアビッツを頼んだころ、私は自分の足元に若い女性がいることを発見した。何時から座っていたのだろう、私が店にはいったときは既にいたか、いなかったはず、いや、私が店にドアを開けたとき、私は頭の中のごちゃごちゃの部分を切りわけてタイルのように配列しなおしていたので、よくは憶えていない、まるでコンピューターをメンテナンスするときのデフラグのように頭の中のハードディスクをくるくる、不要なファイルを削除しますか? 論理エラーがあります、物理エラーもあります、くるくる、マサアキさん、断片化したファイルを結合します、くるくる、としていたところだったので、よくは憶えていないのである。
 六歳くらいであろうか。いやまだ小学校に上がる前かもしれない。女の子は三日月型の尖った目をしていて、いっちょまえに薄く化粧を施して、真っ赤なルージュをひいていたが、眉までおとした前髪と肩甲骨あたりにまで届くまっすぐな黒髪を見ていると、産まれたての幼さの名残りも相俟ってか、極端に年端の行かぬようにも見えた。真紅のドレスと、これまた赤いパンプスが、かえっていとけなさを際立たせていた。
 女はコーヒーを、マサアキさん、飲んでいた。
 女は案外、人見知りをしなかった。人懐っこく、私の質問に答え、私に問い掛けてくる。
「ママは? どこへいったの?」
「ママ? あの女性のことだろうか。ああ、ママはおトイレに行ったよ」
「そう……。じゃあ、オジサン、今夜はあたしが愛してやるよ」
「随分たいそうな口を利くものである。何かの映画のセリフだろうか。この年頃の子供というのは、大人びたことをしたがるものだ。思えば私もこのくらいの年のころには、女性の陰部の名称をところはばからず口にしては、親を困らせていたっけ。あたしが愛してやるよ、と言いながらくすくす笑う女の子にはどこか妖艶な色香があった。この子がもう少し年を取っていたら、ソッコーホテルにツレコンデ、ブチコンデ……」
「オジサン、これ食べる? そういって女の子は齧りかけの板チョコを差し出した。あたし、好きなもの、いっぱい、あるんだ。チョコでしょ、ガムでしょ、キャンデー、あ、キャンデーはちっちゃいのも好きだけど、やっぱりおっきなペロペロキャンデーが好き、それから、ポテチはコンソメ味が好きだよ、うすしお味とかのりしお味はあんまりシゲキテキじゃないわ、それからね、グミでしょ、なかでもグミチョコが大好きである。初めて口にしたときには、グミとチョコレートとの融合は、何か柑橘系の果実とカフェインという取りあわせが、あまり相応しくないように感じたのであるが、何度か食するうちに、グミチョコはもっとも好きなお菓子のひとつになった。それからね、いっぱいおもちゃもってるんだよ。ほら、みて! このマリオネットはね、サーカスにいったときにママに買ってもらったんだよ。ピエロのと、フツウのとがあったんだけど、あたしはピエロのにしたの。名前つけてあげた。マリコちゃん。それからね、ほら、もうひとり、こっちの名前はマリコちゃん。それから、このちょっと足がもげちゃってるのが、マリコちゃん。それから、この鼻の長いのがマリコちゃん、それからぬいぐるみ。鞭打ち症のキリン、これがマリコちゃん、あと、虫歯のピラニア、これがマリコちゃん、あと、足を骨折マサアキさんしてるシマウマ、これがマリコちゃん、あと、声の出ないオオカミマサアキさん、これがマリコちゃん」
 風邪をひいて、四十度以上の熱を出したとき、手足がものすごく重たくなって、口の中が苦かった。ミカンを食べてもリンゴをすったのを食べても、苦い味しかしなかった。ベッドに横たわって、頭を氷まくらにくっつけていると、幻覚らしきものが見えた。宇宙じゅうの惑星という惑星が自分の中に落ちてくる、そんな感じを味わった記憶がある。そのときの感覚に似ていた。バー「Cicus」の店内は、踊るマリオネットとぬいぐるみで溢れかえっていた。遠くでサイレンの音にも似たアルトサックスの音色がかすかに響いていた。人形たちはスウィングのリズムにあわせてピルエットでくるくる回転し、ときに転び、ときにフェッテで宙を舞っていた。さながらバレエダンサーのようであった。ルイ・アームストロングの顔の前を、鞭打ち症のキリンが跳ねた。溶けかけのチョコレートやキャンデーのべたべたの甘い匂いが充満している。店内の空気がなんだか、気体から液体に変わりかけているような、ぬるぬるとした触感で頬を撫でた。羊水にぷかぷか浮いているみたいだ。そのうち、ほんとうに月がおりてきた。遠くから、どんどん、大きくなる。月のクレーターの穴ぼこ顔が、鼻先に触れた。身体の内側が唇からもれて、チェコのクレイアニメの粘土細工のように、裏返り、反転した。
 ふと見ると、警備服を着た四人の男達が私の四肢を取り押さえている。私はカウンターの上で抵抗して、暴れていた。左手に手錠がかけられる。
 突然、世界が青くなった。
 物理エラーガアリマス。
 物理エラーガアリマス。
 物理エラーガアリマス。
 物理エラーガアリマス。
 物理エラーガ

 

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