●NEXT (No.24)



「ママー、ぼくのチョコレート食べたでしょう?」
 今年の10月で5歳になる息子の裕太が声をあげた。
「食べないわよ。ママがチョコレート嫌いなこと知ってるでしょ?」
 振り向くと、カーペットの上に、袋入りの〈アルファベットチョコレート〉が
散乱している。 
「ないもん。ぼく食べてないもん」 
 口を尖らせ、ふくれっ面をしている。
「ママも食べてないわよ」 
 恭子は素知らぬ風を装い、窓ガラスに洗剤を吹き付けた。

 窓ガラスを拭いたのはいつだっただろうか。恭子は黄色とも茶色ともつかない
色の滴が、ガラスを伝って流れていくさまを見つめながら思いを馳せる。
 確か、1ヶ月ほど前のこと。台風上陸のニュースがあったのに、そんなこと気
にもとめないで念入りにガラスを磨いたのだ。翌日、大雨と強風で窓ガラスは瞬
く間に真っ黒になってしまった。それ以来、1週間に1度の窓拭きがバカバカし
くなり、1ヶ月に1回というペースに変えたのだ。
 夫はヘビースモーカーだ。そのため、ガラスやサッシ、カーテンがたちどころ
にタバコのヤニに汚染されてしまう。恭子はそんなにきれい好きというわけでは
ない。どちらかというと掃除は嫌いな方なのだが、裕太がアレルギー体質で、血
液検査をしたところ、ことにダニ、ハウスダストに高い数値を示すことから、ま
めに掃除をするようにと、医者から言い渡されたのだから仕方がない。夫にはベ
ランダか、台所の換気扇を回して吸うかどちらかにして欲しいと何度も注意する
のだが、「そうだな」と生返事をするだけで1度だって実行に移したことはない。        
 今朝、夫は仙台に出張だと言って出ていった。帰ってくるのは明後日の午後だ
という。これはいい機会だと思い、恭子はガラス磨きをすることにしたのだ。
「誰が食べたんだー。ないんだよー」
 恭子はうんざりした顔で雑巾をバケツに入れ、エプロンで汚れた手を拭きなが
ら、裕太の方に近づいていく。
「ないって、何がないの」
 膝をつき、横1列に並べられた〈アルファベットチョコレート〉に目を落とし
た。
「えっとね、AとIとN」
 生意気にもNをエンと発音した。 

 1年前から幼児向けの英会話教室に通わせている。それほど乗り気でなかった
のだが、裕太と同じ歳の子どもを持つ母親たちにせっつかれて通わせることにし
たのだ。
「なんだかんだ言ってもまだまだ学歴社会だし、早期教育が大事よ。本当はちょ
っと遅いくらいなのよ」
 同じマンションに住む渡辺さんから言われたのだが、それでも渋っていると、
「それに裕太くん。なんて言ったらいいのかなぁ。ちょっと変わったところある
でしょう。天才肌っていうか」
 と言われた。親として悪い気はしない。
 確かに、裕太は同じ年頃の子とは少しばかり変わっていた。文字を覚えるのも
数字や記号にも早くから興味を示した。教えてもいないのに簡単な足し算ならで
きる。
 だが、カーペットの上に横、あるいは縦1列にお気に入りのミニカーを一心に
並べたり、食べ物もうどんとスパゲティとラーメンしか食べない時期があり、ひ
どく心配したものだ。癇癪とこだわりが強く、一時期は自閉症ではないかと疑っ
たくらいだ。ところが、3歳児健診で異常なしと診断され、むしろIQが高いこ
とがわかった。
「やっぱり。その才能の芽を育てるのが母親の義務よ」
 渡辺さんは嫉妬心をちらつかせながらも、とくとくと早期教育の必要性を説い
た。
 結局のところ、駅前にある幼児向けの英会話教室に裕太を通わせることにした
のだ。

「裕太が食べたんじゃないの?」
 お徳用パックの〈アルファベットチョコレート〉が裕太の大好物なのだ。他の
チョコレートも食べないことはないが、人一倍、数字や文字、記号に興味があり、
さらに、大好きなチョコレートにアルファベットが刻まれているものだから、そ
のこだわり方は並ではないのだ。
「違うよー。AとIとNがいくつあるかちゃんと数えてたんだ!」     
 裕太は口をへの字に曲げ、チョコレートをわしづかみにすると壁に向かって投
げつけた。癇癪の強い子で、1歳を過ぎた頃から手を焼かされたものだ。
「シンノスケが盗んで食べちゃったのかもしれないわよ」
 アメリカンショットヘアーとチンチラの血が混じった雄猫を飼っている。ペッ
ト禁止のマンションだけど、外にさえ出さなければわからないし、他にも内緒で
犬や猫を飼っている住人がいる。ときどき、内廊下を歩いていると鳴き声が聞こ
えてくることがある。管理人さんもそのことに気がついているはずだ。見て見ぬ
ふりをしているのだろう。
「シンノスケが食べるわけない! ドライフードと猫缶しか食べないってママい
つも言ってるじゃないか! アルファベートは26文字なんだから三つ足りない
とアルファベートじゃなくなってしまうんだ。26引く3はいくつ?」
「23」
 まだ引き算はできないのだ。しかし、アルファベートとはまた生意気な……。
 だいたい、お徳用パックにいくつ入っているのかわからない。個数ではなくグ
ラム単位で詰めてあるはずだ。50個以上は入っているものと思われる。それに
26のアルファベットがそろっているとは限らない。だが、裕太はどのアルファ
ベットがいくつあるかきちんと数えていたという。それにしても、引き算をする
なら全体の数からなくなった数を引くのが妥当なように思うのだが、裕太にとっ
ては、何組かある、アルファベット26文字の一部がなくなったことが問題なの
だろう。

「いったい、誰に似たのかしらねぇ?」
 IQが同じ年頃の子よりかなり高いことを知ったときの夫は、いつになく上機
嫌だった。
「もしかしたら俺の血筋かもしれないよ。ほら、従姉妹の啓次。あいつ、頭はず
ば抜けてよかったんだ。文学にかぶれて、なんだったか、ランポーとかいう詩人
の真似事してどっかいってしまったけどな」
「ランポーじゃなくてランボーでしょう」
「そうともいう」
 夫も私もごくごく平凡な人間だ。IQがいくつあるのかも知らない。小学校の
頃、〈知能テスト〉があったことだけは覚えている。だが、親は何も言わなかっ
た。きっとたいしたことなかったのだろう。
「いいじゃないか。果ては博士か大臣かって」
「ただの人ともいうけどね」
「変な奴だな。素直に喜べないのか」
「嬉しいに決まってるじゃない。ただ……」
「ただ、なんだ」
「頭がよすぎる子って一つ間違うと変な方向に走ったりするじゃない」
「犯罪か?」
「まあ、そんなこと」
「そういうのを杞憂って言うんだよ」
 夫はマイペース型の人間で、プラス志向。それに比べ、恭子はどちらかという
と、先の先のことまで考えてしまうたちなのだ。 
「まあ、ゆったりと構えてたらいいんだ。おまえは考えすぎなんだよ」
 夫はそう言うと立ち上がり、パソコンのある4畳半の部屋へと向かうのだった。

 どうやら、内緒でホームページを立ち上げてるらしいことは恭子もうすうす気
づいていた。
 バケツを持って洗面所へ行き、ヤニと埃で汚れた水を流した。ハンドソープで
手を洗ってから、4畳半の部屋へ行き、パソコンに電源を入れた。ネットに接続
し「お気に入り」に入れてある「宇多田ヒカルファン個人サイト」をクリックす
る。ファンが集うサイトのようだ。プロフィールを見ると、ハンドルネームは
「タッチー」年齢は28歳と書かれている。五つもさばをよんでいる。
 若ぶっちゃって!
 恭子は夫よりも五つ年上の38歳。先月誕生日を迎えたばかりだった。
 趣味はと見ると、宇多田ヒカルの曲を聴くことの他に、デジカメで写真を撮る
こと、映画鑑賞、ドライブ。性格はナイーヴとある。
 嘘つけ!
 恭子はパソコンの画面に向かって叫び、せせら笑った。
 デジカメはあるにはあるが、使ったのは最初のうちだけだ。入社して間もない
若い女の子たちを片っぱしから撮っていた。その中にたった2枚、裕太の写真が
あるだけだ。1週間も経たないうちに飽きてしまったらしく、手に取ろうともし
なくなった。
 映画鑑賞についてだが、これも嘘っぱちだ。せいぜい裏ビデオを観るくらいの
こと。カッコつけちゃって何さ! とまたもや恭子はせせら笑う。夜、裕太と恭
子が寝静まったのを確認して4畳半のパソコンと古いビデオデッキがある部屋へ
忍び足で向かう。恭子は、ははーん、またかと思い、眠りにつくのだが……。
 ドライブだってそうだ。接待ゴルフがあるときに使うくらいで、スーパーで食
料をまとめ買いしたいからつきあってと言ってもなかなか車を出してくれない。
恭子は免許を持ってはいたが、ペーパードライバーなのだ。
 ナイーヴに至っては、呆れるどころか可笑しくて、恭子は大口を開けて笑った。
おおらかで、細かなことにこだわらない性格とでも言えば聞こえはいいが、神経
をつかさどる「ナイーヴ」という線がぷっつりと切れているのではないか? お
おらかではなく単に鈍感なだけだ。まあ、箸の上げ下げ一つに口を出したり、家
具に溜まった埃をツーッと指で撫で、どういうことだ! なんてことを言われる
よりもずっといい。欲を言えばきりがないが、もう少しなんとかならないものか
と恭子は思っている。

「ママー、どうしたの?」
 裕太が薄気味悪そうに顔を向けた。どうやら、笑い声が聞こえたらしい。
「なんでもないのよ」
 作り笑いを装って、恭子はまたパソコンの画面に目を向けた。
 掲示板には主に20代前半から30代前半の女の子の書き込みが多い。
 一家に1台はパソコンがあるというご時世である。パソコンが使えないと仕事
にはならない。だがそれゆえにまた、ネットならではの恐ろしい事件が起こって
いることはテレビや新聞で見聞きしている。とにかく、妙な事件に巻き込まれさ
えしなければいいと思ってはいるのだが……。
 さしあたっては、自分専用のパソコンが欲しいと事あるごとに夫にねだってい
るのだが、「誕生日に買ってやるよ」と言われてから、もう3年以上過ぎていた。
 別に自分のサイトを持ちたいなどとは考えていない。幼児英会話教室へ通わせ
ている母親たちは自分専用のパソコンを持っていて、メールで、早期教育、英会
話のサイト巡りをして情報交換しているようなのだ。メールマガジンも購読して
いる。専用のパソコンを持っていないのは恭子ぐらいのものだった。子供にも1
台あてがっているという者もいる。携帯電話は持っているが、それでメール交換
するのはたかがしれている。Iモード向けのサイトはあるにはあるが、そんなも
の、ほとんど役に立たない。

 また、恭子はいまだにカナ変換でしかキーボードを打てない。独身時代にワー
プロ専用機を使っていたなごりなのだ。毎日、こつこつ、ブラインドタッチの練
習をした。当時、勤めていた会社は残業続きだったので専門学校に通う暇もなく、
仕方なく通信教育で勉強した。独学と言ってもいいだろう。テープを聴きながら
「は・き・ま・く……」というように、動かしやすい人差し指を使うことから始
まった。こんなことでブラインドタッチを習得することなんてできるわけない、
と半信半疑で、それでも根気よく続けていると、いつの間にか指が動くようにな
った。まるでいっぱしのピアニストでもなったかのような錯覚に陥り、恭子はグ
レン・グールドよろしくハミングしながらキーボードを叩き続けた。そして努力
の甲斐あって、念願のワープロ技能検定2級に合格したのだ。だが、あれだけが
んばったのに、今ではローマ字変換が主流である。カナ変換と口にすると、歳が
バレそうで気恥ずかしく、人前では黙っている。
 悔しいことに、夫はローマ字変換。いちいち、モード切り替えするのも面倒だ。
第一、メールアカウントも持っていない。私も使わせてよと言うと、
「仕事で使う重要なデータを保存しているんだ。おまえが誤って操作してデータ
を消失したなんてことになったら大変だ!」
 と、なかなか触らせてはくれないのだ。
 それだけじゃないでしょ! と言いたいところだが、こっそりホームページを
覗いていることを知られるのは癪だ。むしろ、このことは何かあったときの切り
札としてとっておこうと恭子はもくろんでいるのだ。

「ママー『あをによし』の次の句はなんだった?」
 恭子はまたかと呟き、ため息をつく。
 渡辺さんは子供に〈百人一首〉を暗記させている。
「かるたと同じよ」
 そう言うと、渡辺さんはニヤリと笑った。
 負けず嫌いな性格で、IQが高い裕太に追いつけ追い越せと子供のお尻を叩い
ていると、近所ではもっぱらの評判だ。渡辺さんの家に行ったときは英会話か
〈百人一首〉をやると決まっているらしい。
 おかげで、裕太も「季語」とか「枕詞」とは何か、漠然とわかってきている。
「あ、奈良の都は、だったよね?」
 そんなこと私だって知ってるわよ!
 恭子はそのたびにイライラし、裕太の顔を睨みつけるのだが、「だって、わか
らないことがあったらなんでも訊きなさいっていつも言ってるじゃないか」と、
理にかなったことを言い返すのだから、余計にイライラが高じてしまう。

 恭子はパソコンの接続を切り、終了キーを押した。立ち上がり大きな伸びをし
た。
 久しぶりに床も拭きあげようか。
慢性鼻炎持ちの猫のシンノスケはよくクシャミをする。そのたびに粘っこい鼻
水が飛び散り、そのままにしておくと床や家具にべったりとくっついてなかなか
とれなくなってしまうのだ。
 恭子は浴室にある洗面所で、バケツに水を入れ、その中に液体洗剤を注いだ。
そして、水拭き用と乾拭き用の雑巾を持って浴室を出た。
 まずは、夫がよく出入りする四畳半の畳を拭きあげよう。
 四つんばいになり、よく絞った雑巾で畳を拭き始めた。畳の目に沿って丹念に
拭いていくと、すぐに雑巾が真っ黒になった。膝をつき、汚れた雑巾をバケツの
中で洗っていると、パソコンの横にあるゴミ箱に目が止まった。
 明日は可燃ゴミの日だわ。
 恭子はもうずいぶん、パソコンの横に置いたゴミ箱のゴミを捨てていないこと
に気づいた。おそるおそる中を覗いてみた。
 すると、テイッシュペーパーが山積みになったその上にセロファンの包みがあ
った。
 〈アルファベットチョコレート〉のセロファン紙だ!
 そうか、犯人は夫だったのか……。
 確か、なくなったアルファベットは「AとIとN」と裕太は言っていた。三つ
のセロファン紙を取り、目を凝らしてみたが、どの包みがAかIかNなのかわか
るはずもない。このことを裕太に言うべきかどうか恭子は迷った。しかし、誰が
食べたのかわからないままだと裕太はしつこく訊いてくるだろう。

 恭子は雑巾をバケツに投げ入れ、再びパソコンの前に座り電源を入れた。ハー
ドディスクが立ち上がる音がせわしなく鳴り響く。
 モード切替はせずに、恭子はホームポジションに指を置いた。これからコンサ
ートを始めるピアニストのように、深呼吸をしてから「チョコレート」と打って
みた。が、ローマ字変換なのでアルファベットと数字とカナが混じった奇妙な単
語とも言えない文字が画面に現れた。
 今度は人差し指でA、I、Nとキーボードを叩き、変換キーを押した。すると
どういうわけか「奈美」という文字が画面に浮かび上がった。
 女の子の名前じゃないの!
 夫が単語登録をしたのだろう。恭子はじっと画面を見つめながら考え込んだ。
 試しにOutlook Expressをクリックしてみたが、パスワードが設定されていて
開くことができなかった。10代あるいは20代の女の子とメール交換でもして
いるのだろう。しかし、本当にそれだけのことなのだろうか……。
 夫が帰ってきたらどういうことか問いつめてやろう。チョコレートのこと、ホ
ームページのことも……。何か疑わしいことがあれば、それを理由にパソコンを
買わせることだってできるかもしれない。こわばった恭子の顔が一挙にほころん
だ。
「ママー、ぼくのチョコレート食べたのママでしょう!」
 恭子は裕太の声を無視して、他に単語登録をしたものはないかと、夢中でキー
ボードを叩き続けている。 

 

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