●NEXT (No.39)


 わたしは朝ごはんを作っていた。
 季節は冬で、住みなれたアパートの外には、昨日の夕刻から冷たい雨が降り続いていた。白くなった窓の上を、いくつもの水滴が、下に向かってつつつと垂れ進んでいる。わたしは布団のなかから手を伸ばして、灰皿の横に置かれた目覚し時計を握りしめた。時刻は午前7時半。いつもならバス停に続く長い下り坂を歩いている時間だが、あいにく今日は日曜日で、会社へ行くどころか布団から出る必要もとくになかった。わたしは布団の外に足を出して部屋の温度を測った。一瞬にして冷気が足を舐めてきたため、急いで布団の中へと引っ込める。わたしは今日一日をどうやって過ごすかを考えようとしたが、すぐに首を横に振った。せっかくの日曜日を、何かすることで潰すのは嫌だった。寒いなら、このまま布団の中にいればいいのだ。雨が止めば買い物に行ってもいいし、小便がしたくなったらそれで出てもいい。どちらにしろ、わたしのほうから動き出す必要なんて、まったくない。わたしはただ布団の中で、外に出る機会を待ってればいいのだ。そうしてわたしは、狭いキッチンで、てきぱきと朝ごはんを作っているもう一人のわたしを見ていた。
 わたしは中学生の頃に家庭科の授業で作った青いエプロンを着て、ゆで卵を茹でながら腕時計をチェックしていた。鍋からは白い湯気が昇って天井から換気扇へ流れ込んでいる。火を止めたあと、お湯をキッチンに流してから水を入れ、そのなかで丹念に殻を剥いた。剥き身の卵を包丁で横割りに切り、水に浸してあったレタスとともに皿に盛った。次にわたしは冷蔵庫から鶏肉のささみを取りだし、筋を抜いたあとにマヨネーズとからめ、前の晩に使い損ねたセロリといっしょにフライパンで炒めた。焼き鳥にも似た淡い匂いが部屋の中に漂いはじめる。
 わたしはしばらくそのわたしに見惚れていた。ああやってちゃんと朝ごはんを作っているわたしを見たのは何ヶ月ぶりだろう。わたしは寝転んだまま枕もとに置いてあった煙草とライターを手探りで捕まえ、わたしの作業の邪魔にならないように、心持ち静かに火をつけた。記憶を徐々に紐解いていくと、やがて去年の冬に突き当たった。ちょうど一年ぐらい前、そう、わたしと別れた彼氏との半同棲生活が終わりかけていた時代だ。大学にも行かず、家で一日中わたしはかれといちゃついていて、そして毎晩のようにセックスをしていた。朝目覚めると、わたしは寝ているかれの横を抜け出して、朝食を作った。そのときだけはわたしはかれに背を向けていた。後ろのほうでかれが目覚めた事に気づいても、知らん振りしたまま料理を続けていた。そしてそのとき、かれは布団の中で煙草を吸いながら、料理をするわたしの後ろ姿を見ていたに違いない。ちょうど今のわたしのように。
 鶏肉に火が通ってきたことを確認すると、わたしはフライパンの上から塩コショウをさっさと軽く振りかけた後に火を止め、炒めた鶏肉とセロリを卵の横に盛る。冷蔵庫の上に乗せてあったスーパーの袋から食パンを2枚取り出し、洗濯機の上のトースターに放りこんでノブを「4」の値まで回す。パンは8分ぐらいで焼きあがるだろう。
 わたしを見ながら、かれは布団の中で何を考えていたんだろう。不意に胸のうちにそんな疑問が湧いた。わたしとセックスしている間、わたしといちゃついている間、わたしが朝ごはんを作っている間に、かれはいったい何を感じていたんだろう。気がつかないうちに煙草の灰は長くなっていて、灰皿に落とそうとする前に、ぽとんとまくらの上に落ちて散らばった。あそこでもう一人のわたしが朝ごはんを作っている。わたしは、あのわたしのことをどう思っているんだろう?
 トースターが、ちんという音を立てた。わたしはトースターの中から焼けたパンを取りだして、平べったくつるつるとした皿の上に乗せた。ふたたび冷蔵庫を開け、半分使いきってあるバターと、まだ開封していないジャムの瓶を選んで、卓袱台の上に乗せる。もう朝ごはんの調理はほとんど完成していた。邪魔になった包装類を丸めてゴミ箱の中に放り込む。棚からフォークを2本持ってきて、鶏とセロリの炒め物の皿の上に配置する。乱雑に置かれている皿たちを綺麗に整列させ、そして、まだベッドの中で煙草を吸っているわたしを見る。
 わたしは煙草の火を灰皿にもみ消して、ベッドから抜けあがり、わたしの真正面に座ってフォークを手に取る。トーストにバターは身を委ねるように溶けていたし、鶏肉からは暖かい湯気が立っている。それは何かを思い出させてくれるような暖かい趣のある朝食だった。わたしはトーストを齧り、鶏肉とゆで卵を一緒に刺して、口に運んだ。そうだ、コーヒーが飲みたい。コーヒーを沸かそう。でも、考えが実行に移される前に、もうひとりのわたしがタイミングよく立ち上がってコーヒーを淹れに、キッチンへと歩いていった。わたしは静かにそのわたしを見ていた。そりゃそうだ、彼女はわたしなんだもの。わたしの考えていることを、一番良く分かっている人なんだ。
 わたしは両手にマグカップを持ち、ゆっくりと朝食をつついているわたしのもとへと戻る。右手に持っているカップを差し出すと、わたしははにかんでそれを受け取り、少しだけ口に含む。そう、わたしは無償の親切をされるのが苦手で、その度にいつも照れてしまうのだった。でも、そんなわたしを遠くから見ると、とても可愛く、微笑ましいものに見えた。わたしは照れているわたしを見るのがとても好きだ。
 わたしはマグカップに半分コーヒーを残して、卓袱台の上に置いた。とても美味しかった。わたしは彼女に何か言おうと思った。相応しい言葉はいくつも見つかったが、結局のところ、それは一番シンプルで、率直なものに落ち着いた。


 「とても美味しかった」
 わたしは言った。
 「そう、ありがとう」
 わたしが応えた。


 本能が、わたしの唇を求めていた。わたしは体の位置を少しずつずらしながら、わたしの身体へ近づいていった。
 わたしは彼女の肩をゆっくりと抱き寄せ、その額にキスをする。
 わたしは顔を上げて、わたしの顔を見る。


 「キスして」
 わたしは言った。
 「うん」
 わたしが応えた。


 わたしはわたしの唇に、そっと唇を重ねた。わたしがわたしの髪の毛を掻きあげ、もっと深く抱き寄せる。わたしは髪を撫でられるのがとても好きだった。わたしは22歳で、今年の12月で、23歳の誕生日を迎える。その間、わたしは色んな人に髪の毛を撫でてきて貰ってきた。でも、わたしに撫でられるのはその時が初めてで、不思議な感じとともに、幸福感がわたしの心を潤していった。わたしはかれの事を思い出した。そうだ、この部屋の中では、わたしがかれなのだ。わたしは、かれがしていたことを、もう一度わたしに対して繰り返しているのだ。そう思うと、かれが抱いていた想いを、わたしはありありと感じ取ることができるような気がした。そう、いま、わたしはかれに成り代わって、わたしを抱きしめてる。わたしとわたしは自然に目を閉じて、抱き合いながら布団の上へと倒れこんだ。わたしはわたしを抱きしめながら、そしてわたしはわたしに抱きしめられたまま、次第に薄くなっていく時間を惜しんでいだ。外に降る雨の音だけが、空虚で実体のない世界を、現実の世界に繋げていた。
 合わせた唇の感触が、わたしから失われはじめ、そして頬に触れる髪の匂いが、鶏肉の匂いが、コーヒーの香りが、わたしの感覚からだんだんと抜け落ちていった。終いには、その感覚さえもが消失していった。記憶が闇の中に吸い込まれ、雨降りの音も溶け込んでいく。わたしには分かっていた。いま、わたしとわたしは、再び一つのわたしに戻っていくということを。わたしはもうすぐに消え、そしてわたしは残るのだ。
 どっちのわたしが残るのだろうか? わたしはそんなことをぼんやりと思った。抱き寄せているわたしなのか、または抱き寄せられているわたしなのか。でも、結局どちらが残ったとしても、それは「わたし」であることに変わりはない。だから、このまま残るにしても、消えるにしても、その流れに任せよう。わたしは思考回路を閉じ、実際に流れに身を任せていった。


部屋の外では、冷たい朝の雨が降り続いていた。

 

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