●NEXT (No.41)


「PPPPPP」
矢崎学はうるさく鳴り続ける目覚まし時計を叩く。二度寝してしまったようだ。ぼんやり寝ぼけまなこで顔をざぶざぶ洗う。ひどい頭痛がした。
「頭痛がするほど飲んだっけ」
矢崎は、ふらふらと家を出た。身体の疲れはとれたのに、頭はすっきりしなかった。公園に向かってのんびり歩いてゆく。
(しばらく公園のベンチに座っていたらすっきりしてくるだろう)
 矢崎はいつもと違う道に入った。遠回りになっても急ぐ用は無い。細い路地に入ると、気持ちの良い風が背中を押すように通り抜けていった。大きな通りにでると一軒のビデオレンタル屋が見えた。
(たまには、いつもと違う所で借りるのもいいかもしれない。)
「いらっしゃいませ」
色白の綺麗な女性店員が笑顔で迎える。矢崎は、自分の顔がにやけるのを感じてわざとらしく咳払いをする。新作から順に見てゆく。見たいものは、すべて貸し出しになっていた。
「ちぇっ。何だよ。本数少ないじゃねえか」
矢崎は思わず声に出した。女性店員は、ちらりと矢崎を一瞥しただけで表情に変化はなかった。
「ん? 何だこれ」
『夢レンタル』と書かれたプレートがある。矢崎が不審に思っていると、さきほどの女性店員がやってきた。どうやら、貸し出されていたビデオが返ってきたらしい。女性店員は、『夢レンタル』のコーナーで立ち止まり、貸出中というプレートをはずす。
「あの。夢レンタルっていったいどういうビデオなんですか?」
「ああ、そのままの意味ですけど。このビデオを観てから眠ると、ビデオのテーマにそった夢を見るんです。一度ご覧になっては?」
ビデオは、20種類あった。すべてテーマが違う。一番は「のん兵衛道」二番は「詐欺師」三番は「出世」などであった。ただ、あまり見たくないものもある。八番の「落し穴」と十五番の「かかあ天下」だ。どういうビデオなのか想像するだけで恐ろしい。
(そういえば、ここ何ヶ月間夢を見ていない気がする。)
矢崎は、ビデオを選び始めた。
「お、これなんて面白そうだ。『キセキ』なになに、『見た後にはきっと、自分のまわりや自分の中で変化が起こるはずです。』」
「一週間貸し出しが出来ますが、いかがいたしましょうか」
「明日返却でも良いんですけど」
「では、一泊二日とさせて頂きますが、よろしいですか?」
「はい。お願いします」
矢崎は、そそくさとビデオレンタル屋をあとにした。矢崎は家に着くと、さっそくビデオをセットした。<このビデオを見るにあたっての注意点>という文字が出る。
『注意点1 ビデオは必ず一人で見てください。
 注意点2 けして、夢の内容を他人に話さないでください。
 注意点3 ビデオは、止めずに最後まで必ず見てください。
以上のことを必ず守って、見るようにして下さい。これらの点を無視した場合、何が起きても制作者側は一切責任を持てません。では、お楽しみください。』
「ふん、ずいぶん厳重じゃないか」
警告もひとつの「売り」なのかもしれない。胸が高鳴ってくる。ビデオは静かに始まった。
白い鳩が何羽も熱いアスファルトに影を落としている。真白いワイシャツを着た男はベンチに座って新聞を読んでいる。噴水のおくから小さい男の子を連れた若い女が歩いてくる。黄色いワンピースを着ていた。逆光で顔は見えない。その女は、男の前で立ち止まった。口論しているのか、仲よさそうに話しているのかすらわからない。顔もおろか輪郭すらぼやけていて、どんな顔をしているのか全く分からなかった。矢崎は、テレビのボリュームを上げた。
(ちくしょう。聞こえねえな)
女は男の頬を叩いたようだった。どうやら喧嘩しているらしい。女はとうとう泣き出した。顔を両手でおおっている。小さな男の子が男の手を握った。男は男の子を抱き寄せる。なんともほほえましい映像だ。
「だけどよ、どこが奇跡なんだよ」
矢崎は首をかしげた。これから、どんな奇跡が起きるのか期待も出来そうではなかった。それから、男の子を真ん中にして手をつないで公園の中を歩き始めた。女の幸せそうな横顔が一瞬見えた気がした。
「容子? まさかな。一瞬似ていただけだよな」
矢崎はにわかに心がざわめきだした。益田容子。去年自動車事故で亡くなった恋人だった。まだ23歳だった。社会人として、ひとりの女性としてこれから、という矢先の事故だった。
(容子と順調に付き合いが続いていたらきっと結婚したんだろうな。)
矢崎は目の奥がじんとしてくる。
仲の良さそうな三人の影が次第に伸びて、暮れかかった街に溶けるように消えていった。夕日の残像が目に焼きついてはなれなかった。矢崎はビールを一気飲みした。また明日も二日酔いになるかもしれない。ビデオは夕暮れの街とともにエンディングを迎えた。矢崎は下りかかったまぶたを必死に上げながら、ビデオを巻き戻す。明日返さなきゃと思いながら、矢崎は眠りに落ちていった。矢崎はその夜夢を見た。
 矢崎は公園のベンチに座っていた。春めいた空気は眠気を誘う。遠くから、花柄のワンピースを着た女が近づいてくる。顔は鬼のような形相で、矢崎の頬を打つ。
「私のこと、何だと思ってるのよ!」
「ごめん、俺よく覚えてなくて……」
「言い訳くらい用意してなさいよ」
「うん。ごめん。俺が軽はずみだった。許してくれ」
「私は怒ったら怖いのよ」
矢崎を睨みつけるように言った。矢崎は頬よりも心の奥が痛かった。
「うん、ごめん。ありがとう」
「ばかじゃないの、ありがとうなんて。」
「うん、もう絶対しないって約束する」
容子は泣きそうな笑みを浮かべた。

「夢か。」
矢崎は二日酔いでふらつく身体を強引に起こす。何度忘れようとしても、あのときの容子の顔は忘れられない。矢崎が飲み会で隣に座った女の子と浮気したのが容子にばれた。謝り倒して一応許してもらった。今ではそれも思い出だった。
(容子がいなくなったのが未だに信じられない)
雨の日の事故だったと思う。記憶があやふやだった。よほど、ショックだったのだろう。一つだけ覚えているのは、容子と会う約束をしていたことだ。
矢崎はビデオを自転車のかごに放り込むと、よたよたと走らせた。救急車のサイレンに、一瞬びくりとして握っている手に力が入る。
(また、事故かな……)
「カランカラン」
「いらっしゃいませ」
昨日の女性店員が、同じ笑顔で迎えてくれた。矢崎は先に返却を済ませ、『夢レンタル』のコーナーへ行った。
(何を借りようかな……)
六番の『水色』というタイトルのビデオに目が留まる。
(このビデオにしよう)
「一週間貸し出しが出来ますが、いかがいたしましょうか」
「明日返却でも良いんですけど」
「では、一泊二日とさせて頂きますが、よろしいですか?」
「はい。お願いします」
全く昨日と同じやりとりをしていたことに店を出てから気づく。マニュアルでもあるのだろうか。自分が先に「明日返します」といったら店員は焦るのではないだろうか。ふっと矢崎はそんな妄想をして笑いがこみ上げてきた。
「以外に余裕あるじゃないか」
矢崎はコンビニで昼食を買って、自転車のかごに入れた。何となくビデオを見る。いったいこのビデオは誰が制作したのだろう。頭をよぎったが、お弁当の匂いで我に返る。
「まあいいか。お腹もすいたし」
空を見上げると灰色の雲が浮かんでいる。何時間後かに一雨くるかもしれない。遠くで救急車のサイレンが聞こえてくる。今日は嫌にサイレンの音を聞く。矢崎は、耳にひどく残る音に不安になった。否応なしに容子の事故を連想してしまうからだ。矢崎は嫌な考えをふるい落とそうとした。一年たった今でも、容子の死を受け入れずにいる。
夢の世界に早く逃げ込みたかった。部屋につくなりビデオをセットした。
水色一色だ。透き通るような水色。水色の画面にゆらりと大きな影が映った。いくつもの気泡が画面の下から浮いてくる。大きな鯨が頭の上を旋回する。
(水族館か? 何だか懐かしい)
水族館は、多くの家族連れで賑わっているようだった。子供たちが、小さな袋を下げている。
(金魚か。俺もよく買ってもらったな)
少年が、小さな赤い金魚をもってはしゃいでいる。少年は何かに足を取られて、転んでしまった。飛び出した赤い金魚が足元で跳ねている。少年は泣きながら、両親に連れられてどこかへ消えた。赤い金魚は、宝石のように静かに光っていた。
(あれ、そういえば)
 矢崎はビデオを巻き戻すと、閉まっておいた一冊のアルバムを取り出した。そこには、矢崎と容子の仲の良さそうに写っている写真があった。水族館に行ったときの写真だった。汚れていて見にくかったが、矢崎が恥ずかしそうに抱いているものにはっとした。
「水色のまくらだ。犬の形をした……」
自然に笑みがこぼれた。
「この犬のまくら、ふざけて容子が作ったまくらだ」
矢崎の22歳の誕生日に、腕時計の他に用意していたものだった。矢崎が子供の頃、母に作ってもらった犬のまくらを真似たのだ。旅行や保育園に行くとき、肌身離さず持って行ったことを容子に話した。
(あいつ、気にいってたな)
矢崎は、寝台の中にもぐりこんで笑った。まくらは当然水色の犬じゃない。後頭部が再び痛んだが、今は気にならなかった。矢崎は幸せな時間を抱いて深い眠りについた。
 矢崎は大きな水槽の前にいた。矢崎はガラス越しに、自分の姿をぼんやりと見ていた。水に溶けて、体温のない人形のように見えた。青い世界にひとりだけ取り残されたような気持ちになる。矢崎は苛立ちに似た焦りにかられていた。誰かいないのかと、何度も叫んだ。矢崎は、居たたまれず水族館を出た。外は雨だった。時々、自動車のヘッドライトが矢崎の顔を照らす。まぶしくて目をつぶった。細めた目の間から、一台の自動車を見た。矢崎が乗っていた自動車と同じだった。水色の犬のまくらが矢崎の足元に転がっている。どろだらけになり、ところどころ穴が開いて綿が飛び出している。自動車は猛スピードで走り、悲鳴のようなブレーキ音が闇に響いた。赤い花が散った。
『いくら大事にしていたって、壊れるときは壊れるのよ』
 矢崎は、がばりと起きた。ふいに思い出した言葉。容子が、壊れた時計を指して言った。誕生日に貰った時計だった。二度と時を刻むことなくなってしまった。
(これじゃ、まるで俺が容子を殺したみたいじゃないか。)
心の中で、静まり返った痛みが再び襲い始める。肩をぎゅっと抱く。ふるえが止まらなかった。
(俺が殺したんじゃない!)
矢崎はたまらず叫ぶ。鏡に映る自分の顔は信じられないくらい老け込んでいた。
 今日の朝食もパンと牛乳だった。矢崎はビデオを自転車のかごに乱暴に入れると、力任せでこぎ続けた。しばらく坂道を必死でこいでいると、淡いピンクの花が視界に飛び込んできた。
「桜の木か」
矢崎は、自転車のブレーキをかける。まだ、満開とは言えなかったが楽しむには十分綺麗だった。
『桜の樹の下には何が埋まっていると思う?』
容子はそんなことを矢崎に聞いたことがあった。容子が「桜の樹の下には」という短編小説を読んだ後だったらしい。
(今なら、何て答えたかな。以前は『思い出』とかくさいこと答えたんだっけ。)
矢崎は、意識を手放してしまうほど桜の木には何か底知れぬ力があると感じていた。人を狂わせてしまうような。
「カランカラン」
「いらっしゃいませ」
矢崎は迷わず、『夢レンタル』のコーナーへ向かう。
(何借りようかな。お、『桜晩餐会』ってのがいいな。今の時期にぴったりじゃないか。これにしよう)
「一週間貸し出しが出来ますが、いかがいたしましょうか」
「明日返却でも良いんですけど」
「では、一泊二日とさせて頂きますが、よろしいですか?」
「はい。お願いします」
矢崎は、同じセリフを言うことを面白く思うようになってきた。
(いつかきっと違うこと言ってやる)
 矢崎はばたばたと部屋の中に入って、窓をガラリと開けた。ひんやりとした部屋の中に、少しぬるんだ空気が流れてくる。ひらりと桜の花びらが舞い込んだ。
(どこかに桜の木があるんだろうか)
コップに冷たい牛乳をなみなみと注いで、パンをほうばった。三つ目のパンをぱくつきながら、ビデオデッキにビデオをセットする。静かにビデオは始まった。
 ピンクの桜の木がひっそりと立っている。ゆっくりと、公園の奥に植わっている木に向かって進んでゆく。大きな枝垂桜のようだった。桜の木の前に少年がしゃがんでいる。小さなシャベルで木の根元を掘っているようだ。少年は、ポケットから赤いビー玉を取り出すと土の中に大事そうに埋めた。ポケットからぱらぱらと赤いビー玉がこぼれ落ちた。よく見ると、それはビー玉などではなく赤い金魚だった。土の上でぴちぴちと跳ねている。跳ねていた金魚がやがて動かなくなった。それを見守ると少年は新しい穴を掘って、一匹ずつ穴に埋めていった。何かの儀式のようだ。
 花びらが風に舞っている。薄ピンクの花びらが少年を柔らかく包んでいた。少年は花びらが舞い散る中倒れこんだ。いつの間にか傍らには喪服を着た女が座っている。女は泣き崩れた。花びらは勢いよく散ってゆき、少年の姿を隠してゆく。花びらと花びらの間から少年の白い肌がのぞく。何分もしないうちに、あっという間に少年の姿は見えなくなった。女はゆっくり立ち上がると少年に背を向け闇の中へ消えていった。いっせいに花は散ってゆく。
 そして、ビデオは真っ白になってエンディングが流れ出した。矢崎は気絶したように眠りについてしまった。
 矢崎は夢を見た。青空と桜に見とれていた。はらはらと、ピンクの花びらが散ってくる。花びらは矢崎の足を埋めてゆき、あまったるい香りに酔いそうになった。どんどん矢崎の身体が埋まってゆく。何度も動こうとするのだが、金縛りにあったように身動きがとれなかった。矢崎は崩れ落ちた。口の中といわず目の中や耳の中にまで花びらは入ってくる。吐いても吐いても、楽にならない。
(誰か助けて……。誰か俺を見つけてくれ)
祈りはとどいたのか、遠くから人の声がする。
「おい、気味悪いこというなよ。誰がそんなこと言ったんだよ」
「あら、よく言うじゃない。桜の樹の下には屍体が埋まっている、って」
「言わないよ。小説の読みすぎなんじゃないの。」
「ふふ。でも、私なら本当に愛しているひとを殺して埋めるわ」
「恐ろしいこと言うな」
若い男女は、矢崎が埋まっている近くを通り過ぎた。
(助けてくれ)
矢崎の声は花の中に埋もれていった。
 矢崎は、ゆっくり目を開けた。夢はビデオの内容に良く酷似していた。矢崎はのろのろと窓を開ける。ひらりと桜の花びらがふとんの上に舞い降りた。
(花びら?)
何の気なしに、自宅の庭を見る。
「桜の木? あるじゃないか。庭に立派なのが!」
矢崎は、庭へ行こうとした。
「まてよ、桜の木の下に何か埋まっているのか?」
いっきに鳥肌が立つ。
(まさか、容子の死体を俺は埋めたのか? いや、俺は殺してなんかないはずだ)
「まさか、そんなばかな。あれはただの夢だし。俺はここにいる。何も埋まってやしないよ。」
(でも「赤い色」には何かひっかかる。赤い金魚? いや、そんな昔じゃない。最近なはずだ。何を見た? 赤い何を……)
矢崎はデスクの上の写真に目をやる。なぜ今まで気が付かなかったのだろう。そこには赤いワンピースを着た容子が微笑んでいた。
「俺が容子を殺して木の下に埋めたというのか。そんなはずない」
矢崎はステンレスのスコップを持って庭に出た。ざくりと土は掘り返される。湿り気を帯びた土は、ぷんと少し枯れ葉が腐敗した匂いがした。しばらく掘っていると、何かにスコップの先が当たった。矢崎は、嫌な予感がして、手で土をよけてゆく。
「ひっ!」
矢崎はしりもちをついた。真っ白な腕が見えた。次に赤い色の服。矢崎は震える手を叩きながら、掘り進めてゆく。真っ白な顔が徐々に浮かび上がってくる。矢崎はごとりとスコップを落とした。
「何でだ? どういうことだ? 俺が埋まっているなんて」
土の中から桜の香りがたちこめてくる。まったく腐敗していないようだ。マネキンみたいな作り物めいた色をしている。矢崎は、桜の花の匂いと何ともいえないショックでその場にうずくまってしまった。
(じゃあ、ここにいるのは誰?)
 
 矢崎はビデオレンタル屋へ急いだ。
「おい! あのビデオの製作者に合わせてくれ! 聞きたいことがあるんだ!」
女性店員は、困った顔をして首をふる。
「出来ません。それは、一切公開出来ないんです」
「おい! あのビデオ夢を見せるだけなのか? 本当は、現実に起こったことじゃないのか?」
「一切お答えできません!」
女性店員は叫ぶように言った。矢崎は彼女の肩をつかんで乱暴に揺する。
「現実なんだろう!」
「ビデオレンタルは一週間貸し出しできますが、どうなさいますか?」
「何言ってるんだよ、おい」
矢崎はなおも激しく彼女の肩を揺さぶる。
「ビデオのへんきゃく……ビデオは必ずひとりで……ビデオは」
女性店員はぶつぶつとつぶやいていたが、しばらくすると何も言わなくなった。矢崎は壊れた人形のような女を突き放すと、ビデオを全部抱えて店を逃げるように走り去った。遠くで万引き防止のベルが鳴っている。
「もう一度最初から見るんだ」
矢崎は、近づいてくる光の恐怖に震えながら自転車のペダルに力を込めた。桜の花びらが矢崎を責めるように散ってくる。
(いつから、入れ替わった? 俺が死んだのか? 容子は助かったのか?)
次々と疑問が浮上してくる。
(俺が容子を自動車で跳ねたんじゃないのか?)
自動車のヘッドライトが近づいてくる。矢崎はぼんやり運転手の顔を見ていた。
「容子」

 耳元でざくざくと地面を掘る音がする。もうろうとする意識の中で、何が起こったか必死に考える。
(女?)
女はぶつぶつと何かを言いながら、穴を掘っていた。
「容子……? 何を」
「あなたが悪いのよ」
容子の白い顔が月に照らされている。真っ赤なスカートから、泥だらけの脚が見えた。
「何をするつもりだ」
矢崎は声を絞り出した。後頭部に手をやるとぬるりとした液体が手のひらについた。思わず目をつむった。後頭部だけじゃない。足の骨も折れているらしい。
「あなたが私を傷つけるからよ」
「容子、何を言っているんだ」
「浮気したじゃない。私が一番あなたのこと好きなのに! あなたが、あなたが悪いのよ!」
「そのことは前に謝ったじゃないか。もうしないって」
「ばかね。もうしないんじゃなくて、出来なくなるのよ」
容子は泣きながら笑っている。こんなに人間の顔はゆがむのかというほどだ。こんなに醜い顔をしていただろうか。
「止めてくれ。どうしたら許してくれるんだ。お願いだから殺さないでくれ!」
「往生際が悪いわね。もう手遅れよ。私の心の平穏を取り戻すにはこうするしかないの」
「すぐに、見つかってしまうよ。俺を殺しても容子は罪に問われるだけだよ」
矢崎は痛みと戦いながら、必死に訴える。
「罪なんて、全部『桜』のせいにしてしまうわ」
容子は正気であることをとうに放棄していた。
「死んでよ。私の愛した男として死んでよ」
容子の目から涙がこぼれた。最後の良心が言わせた言葉だったかもしれない。容子はスコップを強く握り締めて高く振りかざした。矢崎は目を閉じた。
(23歳で死んだのは俺の方だったのか……)
頭に強い衝撃がきて、矢崎の意識が消失(きえう)せた。

「おい、気味悪いこというなよ。誰がそんなこと言ったんだよ」
「あら、よく言うじゃない。桜の木の下には、って」
「言わないよ。小説の読みすぎなんじゃないの。」
「ふふ。でも、私なら本当に愛しているひとを殺して埋めるわ」
「恐ろしいこと言うな」
若い男女は、矢崎が埋まっている近くを通り過ぎた。

桜の樹の下には愛した男の死体が埋まっている……

 

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