●NEXT (No.43)


 腕枕していたコロの頭をどけて、僕は姿勢をうつ伏せに変えた。「ヘーゲル読解入門」という本を読もうと思ったからである。
 著者はアレキサンドルコジェーブというロシア人、ラカンやバタイユという思想家に影響を与えた哲学者ということで、二十三歳、大学を卒業する年に買った本であった。
 僕が大学を卒業した一九九一年はバブルの真っ最中で会社の説明会場で新車が当たる抽選会が行われたり新入社員の研修をハワイで行ったり、つまりは特に悩まなくても生きていけるのだと誰もが確信できる時代であった。多分それが僕が就職を選択しなかった保証のようなものだったのだろう。あれから十二年、僕は兄の死をきっかけに田舎へ戻り、両親と一緒に暮らしている。
 一九九一年でもう一つ思い出すことは湾岸戦争が開始された年だということだ。テレビゲームと称された戦争。バグダットの夜空に光る閃光、それらの光の一つ一つが街を破壊するものであることを我々日本人は想像しなければならないとある評論家達は言ったが、誰もがそれを対岸の火事としか考えていなかった。世間はバブルを楽しむことに忙しく、僕はというと僕自身の情緒の不安定を取り納めることに没頭していた。
 自分とは何者か。何故、自分はこの世に生まれてきたのか。直感的に言えば自分の存在とは何かを僕は悩んでいたのだと思う。そして悩むということはそれだけ自分が今いる必然性を確かめられなかったのだと思う。
 この本の代表的なフレーズは主と奴の弁証法というものだ。主とは主人のこと、奴とはその奴隷。例えば今、僕の傍らで眠るコロと僕の関係のようなもの……ではない。
 奴隷とは主人のために働くもの。しかしコロは僕のために働いたこともいや、労働というものさえしたことがない。労働しているのはむしろ人間側で、餌を作って与える、散歩に連れて行く、体を洗ってやるなどとコロのために働いている。餌の原料もまた人間の労働によって作られる。労働とは自分が消費するのではないものを作り出す行為であり、コジェーブのいう主人とは働かないものなのだ。ならばコロが主人かというとそうではなくて、主人とは命を賭けて戦うものだそうだ。それも自分の命を守るために戦うのではなく、相手に自分を認めさせるために戦うのだそうだ。
 この時代の哲学によく出てくる言葉に即自・対自というのがあって、即自とは私があるということを感覚的に知っている私のこと、対自とは鏡に映る自分を自分として把握するように知っている私のことだ。コロに鏡を見せても特別な反応を示さないように動物たちは対自を持たない。一方、人間が鏡を見る一番の理由は他者の目に映る自分を気にするからで、つまり鏡を見つめる私の視線には私を見つめる他者の視線が重なっている。容姿に関わらない、例えば自分はこんな職業に就きたいなどという自己像においてもやはり自分を評価する他者の視線が関係しているはずだ。
 空腹を満たすだけの欲求ではない欲望と言われるものはこのように他者の視線を介在させている、他者の承認を欲望しているのだ。そして対自とはこの欲望の主体だと言える。
 しかしこの欲望は逃げ続ける。満たされることがないのだ。私のものではないのだから。コロが小さく唸った。
 コロは夢を見ているようだった。瞼の奥を忙しく動かし、鼻にしわを寄せている。
『コロ』
 コロはすぐに反応し、瞼を開いた。少し驚いた様子で、ばつが悪そうに僕を横目で窺う。
 コロの目に映る僕を僕は想像が出来ない。相手が人であれば目を合わせた途端に浮かぶ僕の顔がある。人の目は視線を跳ね返すのだ。見ているのではなく見られているという感覚、羞恥心。人と人はそのように対峙する。けれどもコロに対しては羞恥を感じることがない。どんな格好でいてもコロの前では許される。
 コロは欠伸を一つして再びとろけるように眠りに落ちた。四肢を前に投げ出して腹を露わにしている。僕はその胸に手を当てる。ゆったりとした鼓動が続く。
 水の中の水のように、動物の生をそんな風に表現したのはバタイユではなかったか。森の中を散策するコロは風を嗅ぎ、草わらに鼻を突っ込み、導かれて歩く。自然と交わり、まさに水の中の水のように世界に混じり込んでいる。
 しかし犬は同時に人間の世界にも足を入れている。僕はコロに強要する。道路を横切る前には一度、止まること、前から犬が来たときには不用意に近付かないこと、あまり遠くに離れたときにはお座りをして僕を待つこと。全てヒモをつけないで散歩をするためのルールであったが、コロは従順に従った。それは子犬の頃に散々、叱りつけた成果であった。子犬のコロは俯いて僕の怒りが去るのを待っていた。うなだれた肩はやたらに人間くさかった。多分、犬は憂鬱を知っている。
 憂鬱とは欲望の満たされなかった時に陥るものだ。望んだ私と今の私との差異を苦しむこと。ディルと名乗る男の憂鬱を思い起こす。
 インターネットのペット好きが集まる掲示板でフロ猫というリンクをクリックしたのは昨日のことだった。何を期待するのでもない反射的な動作だったのだが、画面に現れたのはバスタブの底で怯える仔猫と血塗れの尻尾の切れ端、それに植木ばさみを持つ手であった。さらにもう一枚、マウスのホイールを降ろすと今度は針金のようなもので首の辺りを吊された仔猫。壊れた眼差しから仔猫は死んでいるようにしか見えなかった。首の下にはCDもぶら下がっていて、円盤には『僕は敗北主義者』と刻まれていた。そこまで見て、それがディルというHNで世間を騒がせた者の犯行写真であることに僕は気づいた。
 嫌悪感が即座に湧いた。バスタブの中からこちらを眼差す仔猫、そこにディルと名乗る男が立っていたのだ。だから猫の眼差しに湛えられた恐怖は僕に向けられていたのであり、僕の眼差しはその時、ディルと重なったのだ。
 なぜディルはそのようなことをしたのか。猫が嫌いならば人知れず殺せば良いだろう。彼はあの画像をネット上でリクエストを問いながら撮影したのだとも聞く。彼の残虐さは猫に向けられたと言うよりもそれを見るこちら側に向けられたのだ。彼もまた他者の欲望を欲望したのだ。彼は何を認めさせたかったのか。「私は敗北主義者」であることを認めて欲しかったのか。仔猫という無力な存在に自分を投影させていたのか。無力さを証明するために自分の分身として猫を虐殺したのか。

 二つの欲望する主体がいる。どちらもが相手に自分を認めさせたくて戦いを始める。認め合う友愛的な関係ではなく、どちらかが相手に自分を認めさせ、どちらかが相手を認めさせられる関係である。死を恐れずに戦った側が主人、死を恐れた側が奴隷となるのだが、ここで何故、死への恐怖が勝敗を分けるのかというとこれは対自同士の戦い、つまりあるがままの私の生存を巡る戦いではないからだ。生存より重要な価値、例えば名誉のために死ぬというような戦い、人間特有の戦いなのだ。
 このような動物にはない行為のことを否定性とコジェーブは表現する。否定性を行使することが人間的振舞いであるとコジェーブは言うのだ。例えば野性は肉をそのまま食べることで自然と繋がっている。人はそのまま=所与の存在を否定し、焼いたり煮たりと形を変えて消費する。自然を変えずに生きてきたのでは人間の進化はなかった。自然を否定し作り変えることで人間は文明を作った。この否定性の最たるものが死なのだとコジェーブは言う。所与としての肉体の死を賭けて戦ったものを主人と呼ぶのは肉体の征服者という意味も兼ねているのだ。奴隷とは肉体への執着を捨てきれなかった肉体の奴隷という意味。
 ところで主と奴の闘争で最終的に勝利するのは実は奴の方である。その理由の一つは主人は勝利することで自分を認めさせるべき対等な相手を失ってしまうからだ。
 だからアメリカは殺さないように努めるのだ。殺してしまえば自分たちを承認する相手がいなくなるのだから。そしてまた彼らが自分たちを受け入れたのは死への恐怖からではないと主張するだろう。死を恐怖するものは奴隷であり、奴隷の承認には価値がないのだから。彼らが受け入れたのは民主主義であり、民主主義は平等を元としており、だから自分たちが主人なのでも彼らが奴隷なのでもなく、この戦争の勝利者となるものは唯、民主主義のみである。死を想起させる兵器をちらつかせながらアメリカはそう言うのだ。
 そして九月十一日の自爆テロリスト達。
 彼らは大義のために自らを消尽させた。これは主人の振舞いに近いのではないか。存在自体が死を招来する彼らは死を恐れる奴隷達の労働によって死の可能性を溜め込んだ兵器よりも妥協がない。彼らは死を恐れぬという態度によって絶対の自由を享受する。しかしその自由の後には何も残らない、いやそこを超えたはずの肉体へと彼らは回帰する。
 僕は深夜のNHKを思い出す。黒煙を上げた世界貿易ビル、その背後を通り過ぎ、旋回する旅客機がビルに激突し、炎を上げる。コックピットに座る彼の目前に迫った無数の窓ガラス、それは青空を映していたのではないだろうか。青空の中から自らの乗る旅客機が巨体を顕わしたのではないだろうか。最後には自分の姿さえ映し出されたのかも知れない。それに彼は迫るのだ。その時、その姿は他者の視線を失った姿だったのではないか。他者に眼差されることを意識しない自失した姿だったのではないか。それは自分であることも怪しい。何故なら私とは他者の前に立つことで可能な対自であり、その体はもはや他者の前に差し出されることのない像、単なる肉体。死とは対自=意識が肉体から離れること、だから最後に見た私は既に死んでいる私。
 主人はやはり勝つことが出来ない。

……労働において、そして労働によって奴は自然に…隷属しており、他方奴によって用意された者を享受することで事足りている主は自然に対して全く自由であるように見える。だが実は…充足はそれ自体ただの消失でしかない。なぜならばこの充足には…堅固かつ安定して存続するものが欠けているからである…この無為徒食の享受は欲望の「直接の」充足の結果として生ずるのではあるが、たかだか幾ばくかの快楽を人間にもたらすことができるだけであり、完全かつ決定的な充足を人間に与えることは決して出来ない。それに反し、労働では欲望は抑制され、消失もまた停止されている…奴は自己自身の欲望を抑制しなければ…自己以外の他者のために労働することは出来ない…他方、所与の物は…変貌せしめられ、破壊を延期され、費消のために用意される…人間自身が現実に客観的に自然的存在者以上の者で…あるのは人為的な対象を作り出した後であり、人間が自己の人間的かつ主観的な実在性を自覚するのはただこの実在する客観的な所産においてである……(「ヘーゲル読解入門」より)

 僕の労働、それは小学校で中国から来た児童に日本語を教えることであった。
 教育とはまさしく他者のために奉仕することだろう。コジェーブに従うなら僕の実在性を主観的に確認出来る契機とは当児童が日本語を理解し発話できるようになることである。
 ところで言葉とは自己を表現する媒介である。これはコジェーブのいう労働と同意になる。主観=気持ちは客観=言葉に媒介されて世界に自身を表す。言葉を持たないものは世界に存在しない、確かに即自としての肉体は存在するが、対自としての私はそこにない。
 私を世界に表出するために僕らは言葉のルールに従うよう強制されている。或いは言葉に隷属しているといってもよい。しかし彼女は僕にあまり従わなかった。日本語のルールを積極的に覚えようとはしなかった。
 授業の間、彼女は始終、俯いていて髪の毛などを弄っていた。僕がプリントを渡すと塗りつぶせるところを徹底的に塗り潰していった。車のイラストがあればライトやウィンドウ、Bという文字があれば二つのアーチの間を、勿論、丸という丸は虱潰しにだ。シャーペンの芯はよく折り、筆箱の消しゴムを探すのには手間取る。一文字間違えても文節ごと消して書き直した。フリートーキングもほとんどしないというか諦めていた。僕が初めて日本語教育の経験を得た韓国では社会人達が我先にと日本語を話したがり、質問をしたがったものだったので、こんな彼女にどう対処すればよいものかと暫く戸惑った。
 かといって彼女は友達たちとの交流がなかったわけではない。身体による表現を彼女は多く使用した。叩き合い、蹴り合い、笑顔、怒った表情。
 何故日本語という私のものではないルールに従わなければならないのか、そんな不満を彼女は抱えていたのだと思う。彼女は来たくて日本に来たわけではなく母親の再婚で連れてこられたのだから。そしてまた自分の言葉ではない日本語に囲まれて、また自分の思うように使えない日本語で話す必要に苛立ったことだろう。それしかないのか、中国語では駄目なのか。僕自身が韓国語を知らずに韓国に渡ったので彼女の窮屈な気持ちはよく分かった。免許取り立てで車を走らせるような不安感といつもついて回る言い残したという不満足感。特に感情を整理しないままに口を開きたがる子供にとっては言葉に遮られるというストレスは何にも増して大きいものだろう。
 ところで子供というものはあまり従わないものだということを僕は小学校で学んだ。
 従うということはその先に利益を目論んでの行為である。その先の利益、これに従えば自分に得のある結果が待ち受けていると思うからこそ人は従うのだ。けれどもその先に子供は関心を示さない。今ここの興味に惹かれる。直接性、動物的な直接性だ。いや、動物も成熟すれば例えばコロが僕の言葉に従うようにルールを覚える。直接性がより強く現れるのは子犬、仔猫の頃。彼らの示す好奇心、警戒心の強い野良猫であっても辛抱強く通えばまず仔猫からこちらに慣れてくる。
 ミーという仔猫がいた。その名前は喉が悪いのかミャアと鳴くことが出来ずミーミーと鳴くことから僕が名付けた。白い体毛に黒の虎縞が入った綺麗な仔猫であった。餌より先に僕の膝で寝転がることが好きな甘えん坊で一時期、僕はコロよりも可愛がっていた。けれども野良猫の最後はあっけないもので、ある日、僕はミーを路上に横たわる姿で見つけた。体は堅くなり始めていて、口から血を流していた。考えられるのは車に跳ねられたということで、ミーと出会い遊んだのは僕が車を停めていた駐車場でであった。
 道路は車が走るところ。小学生なら登下校を指導する先生に何度も聞かされること、コロならば僕によって何度もしつけられたそれをミーは知る術がない。そして無力に殺される。法を知らない好奇心が殺される。
 ディルが仔猫を標的にしたのもこの好奇心故に捕まりやすかったからではないだろうか。そしてディルはこの好奇心をも憎んだのではないだろうか。容易く他へ関心を示す仔猫の無防備さを憎み、羨んだのではないだろうか。
……敗北主義者……僕は敗北主義者……
 敗北したのはこの現実の法にであり、仔猫が容易く車に轢かれるように自分も法に押し潰されている。現に彼は逮捕された。
 あの画像に強く衝撃を受けたわけを僕は今一度、考える。言葉だ。CDに刻みつけられた言葉が僕に衝撃を与えたのだ。
 その言葉は残虐な画像に似合わず素直な自己の表出に思えた。見る人の嫌悪を買う行為をしておきながら彼は言葉に従順に従ったのだ。僕の帰りを待ちわびていたコロが玄関で僕を一心に見つめる眼差し、そんな無垢な印象を僕はその言葉に感じた。

 二学期の中頃から僕は彼女の日本語を聞くようになった。それは授業中ではなく休み時間の友達との触れ合いの中でであった。正直複雑な気持ちを僕は抱いた。ある程度は話せるのに何故、僕には強いられなければ話さないのだろうかと。けれども僕はこうも考えた。僕の仕事はそれなりに成功しているのだと。
 彼女は友達を呼ぶとき『おい』といい、相手が答えなければ『無視すんな』という。つまり彼女は認められたがっている。日本語を使うことで自分の承認を求めているのだ。彼女の認められることへの欲望、手の届かないところに友達がいても『おい』と呼べば振り返り笑いかけてくれることの奇跡、関心が自分に向けられていることの幸福。
 僕はそれ以降、日本語勉強のための教材から彼女の実際の学校生活により関係のある教材へと変えるようにした。例えば学芸会の催し物のシナリオを教材に使ったり、社会、理科など今まで一緒に受けてこなかった授業を受けさせ、その準備的な勉強をしたりと。
 美しい日本語、正しい日本語の習得が問題なのではなく、私の気持ちを代理する日本語、私がここにいることを証明する日本語、他者に向けられた日本語を彼女は必要としている。

 三月二十八日、離任式。僕たちは壇上で向き合い、彼女が日本語を話す。
『今まで日本語を教えてくれてありがとうございました。先生のおかげで日本語を色々話せるようになったし、食べ物の名前をたくさん知ることが出来ました。前は分からなかったテレビも今は楽しんでみることが出来ます。友達とお喋りが出来るようになりました。』
 彼女は僕の与えた日本語で自分の気持ちを表現する。そして僕は彼女の日本語に僕の労働を見る。僕が世界に実在する客観的な証拠。

 僕は本を閉じて仰向けになる。コロの頭の下に腕を差し入れるとコロが物憂げに唸った。
 僕の腕を枕に眠るコロの満ち足りた表情。
 コロの満ち足りた表情を眺める僕の幸福をコジェーブの本は説明していない。人はどうして動物を飼うのか。
 痴呆老人にペットを飼わせることが治療に役立つという話を聞いたことがある。それはアメリカの病院での話だったが、彼らによれば犬猫を飼うことで患者達が主人という役割を担うことになり、これが患者達の自立を促すという話だった。如何にもアメリカ的だなと僕は思った。つまり自分が何者であるかを絶えず確認しなければ済まない性分。
 僕は今、コロと水の中の水のように交わっているのだと思う。対自的な関係でもなく、関係の成立しない即自でもなく、私も彼もないような連続性のなかにいるのだ。
 或いは親和性といってもよいかも知れない。植物が土の中に根を伸ばすように、ミーが安らぎを求めて僕の膝の上に身を伸ばすように、全ての生命は他に浸透しつつ生きている。
 もう一度、ディルのことを考える。彼は仔猫という他と交わろうとしなかった。仔猫の中の好奇心、自分に向けられた関心を無視し、仔猫を死体へ貶めてしまった。『私は敗北主義者』という言葉で仔猫を絞め殺したのだ。その言葉はあまりにも従順であまりにも卑屈、あまりにも断定的に過ぎて言葉によって自分を表すのではなく言葉に自分が限定され押し込められている。他者への欲望を持たない言葉は死んだ水、流れを止められた腐った水、孤独なバスタブの中で仔猫が殺される。
 そしてここから遙かに離れた場所で一つの断定が街を破壊している。僕らが見るのは顔のない兵器によって一方的に殺される顔達だ。

参考文献:「ヘーゲル読解入門」(アレクサンドル・コジェーブ 著 上妻精・今野雅方 訳 国文社発行)

 

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