●NEXT (No.47)


 真っ暗な空に、小さな星が瞬いている。
 肌寒い夜だった。気が付けば、地べたに仰向けにされていた。肌を刺すような金属の感触がうなじにあって、その温度が背筋を凍らせる。
 ここはどこだろう。
 考えるより先に、解答が耳に響いてきた。鐘を打ち鳴らすような、警告音。遠く聞こえてくるその音は、耳慣れた踏切のそれだった。
 咄嗟に、起き上がろうとして──千切られるような痛みに、呻き声を漏らす。
 手首を、針金で縛られていた。両腕を目一杯広げさせられた状態で、枕木に括りつけられていた。
 どうして、線路の上なんだ。
 久し振りに、学生時代からの親友に呼び出された。当然のように、酒を酌み交わした。正体を失うほどに飲んだ覚えはない。けれど、記憶はそこで途切れている。
 視野一杯に広がる星空には、既視感がある。
 深夜零時を目前にして、間もなく、この上を終電車が通過する。恐らくは冷徹な車輪に断首され、自分は死ぬことになるのだろう。
 どうして、こんな羽目に。
 不自然な大の字の姿勢のまま、どうにか頭を上げた。視線の前──鉄柵の向こう側には、予想に違わぬ人物がいた。
「お前なのかよ……」
 友達だと思っていた。
 それが自分の勝手な思い込みだとしても、こんな仕打ちを受けるような覚えはない。
「なんでだよ! 言えよッ」
 友人だと信じていた男に、声を限りに怒鳴っていた。
 剥き出しの怒りをぶつけられても、男の表情はぴくりともしない。けれど引き結ばれたような唇が、僅かに開いた。
「冬也。お前は狡い」
 彼のその声は、疾走する電車の轟音にかき消された。そして吹き上げられる、血なまぐさい人工の風。
 失われた対象に向けて、届かないはずの言葉は繰り返された。
「狡い」
 と、だけ──。

***

 みそ汁の匂いと、柔らかい人の気配がしていた。
 多分、朝だった。
 判然としない頭を振りながら、生暖かい布団を押しのける。レールに縛り付けられた自身の上に、走り込んできた電車。無慈悲な凶器と化した車輪に、首から先を切り落とされて──
 水上冬也は思わず、確かめるように首筋を摩っていた。
 その時、不意にドアが開かれた。
「なんだ冬也、目、覚めてたんだ」
 扉の向こうから顔を出した冴木七美が、意外そうな声を出した。
 七美とは、一年ほど前から同棲している。そのうち結婚するんだろうな──と漠然と考えている、冬也の恋人だった。
「朝ごはん、できてるよ」
「サンキュー。いつも、ありがとな」
「どうしたの? 悪い夢でも、見た?」
「なにが」
「だって。冬也がお礼言うなんて、雪が降っちゃうよ」
「なんだよ、それ……」
「それに、なんだか変な顔してるし」
「変な……って、どういう意味よ?」
「心配事とか、何か、あるんじゃないの?」
「七美こそ、心配性なんじゃないの?」
 冬也は、笑い飛ばした。七美の勘の鋭さに、内心では舌を巻きながら。
 本当に。
 あれがただの悪夢だったなら、どんなに良かっただろう。けれど、現実だった。首を刎ねられた、あの感覚。衝撃。喪失感。
 何も手を打たなければ、十数時間後には実現してしまうはずの、未来だった──

***

 ──どんな情けない悩みでも、大丈夫だからね。私、冬也のことを愛しちゃってるんだから。
 冗談めかした口調で、だけど真剣な瞳で、七美からそう言われた。そんな彼女の愛情を、冬也だって信じたかった。けれど全てが仕組まれていたと知ったその後でも、変わらない感情を抱いてくれるだろうか。
 疑ったこともない友情の消失は、冬也に想像以上の痛手を与えた。
 どうしても諦め切れず、危険を冒しても、その真意を問わずにはいられないほどに。
「どうしたんだよ。お前から連絡してくるなんて、珍しいよな」
 冬也のことを線路に磔にした親友──脇坂大樹は、屈託のない笑顔を向けた。
「それにしても。他に場所、なかったのかよ?」
 背広姿のサラリーマン二人が顔を突き合わすには不似合いな、安価が売りのファーストフードだった。しかも時間は昼時──、学生やら子供連れの主婦やらで店内はごった返している。
「思い出すだろ? 昔を」
 電車で轢き殺されることになったあの時、久し振りに会う流れになったのは、終業間際にかかってきた大樹からの電話が切っ掛けだった。
 だから今度は、昼休みを狙って冬也からかけた。
 前後不覚に酔わされたのは、きっと何かを盛られたせいだろう。それなら、セルフサービスのほうがいい。それに混雑していれば、人目があるから無茶はできないと踏んでもいた。
「お前のセンチメンタルに付き合うのはオレぐらいだから、感謝しろよな。……ったく、せめてファミレスにしてくれよ」
 冬也の意図を知らない大樹は、文句たらたらだった。
 その表情はかなり不満げだったけれど、殺意のような感情はかけらも見出せない。
「それで? こんな所に呼び出して、どんな用事だよ」
 大樹のほうから切り出されて、冬也は途端に考え込んでしまった。
 ──どうして俺のこと、殺そうとしたんだよ?
 そう訊ねるのは、流石にためらわれる。
 ──知ってるんだぞ。俺のこと、殺したいほど憎んでるんだろ。
 十中八九、否定されて終わりだ。
「俺さ……」
「なんだよ」
「俺……、七美にプロポーズしようって考えてるんだ」
「へえ……」
 興味なさそうな相槌だった。けれどその表情が一瞬固まったのを、冬也は見逃さなかった。
 不自然に長い沈黙の後で、大樹は言った。
「そんなこと、どうしてオレに言うんだよ。そういう話しは、本人にしてやれよ」
「だってお前……、七美のことが好きだろ」
 殺人も厭わないほど、大樹から恨まれているのなら。その理由は、彼女のことしか考えられない。
 図星を指されたためなのか、大樹は苦々しげに顔を歪めた。
「お前さあ。もしも、そうだとして……七美とのこと、諦めるわけ?」
 真剣顔でそう問われて――冬也は、言葉につまった。
「それにあいつは、お前を選んだんだよ。それが全てだろ。オレのことより、七美を幸せにしてやってくれよ。あいつ、これまで色々あったからさ……」
 七美の両親は、ひどく不仲だった。そのことで彼女は、ずっと苦しんできた。そんな悩みなど微塵も見せずに、いつも笑っていたけれど。
 七美は言わなかったけれど、冬也は知っていた。大樹に話していたというのは、意外だったけれど。
 いや、そんなことはないか。
 大樹もまた、両親の離婚を経験していた。同じ痛みを経験しているからこそ、理解しあえる。だからこそ魅かれ合う、最初から覚悟していたことだった──
「オレは七美が幸せなら、それで満足なんだよ。だから、気にすんなって」
「俺が……七美のこと、お前から奪ったんだとしてもか?」
「奪うって……」
「俺は、お前から七美を奪うために……手段を選ばなかった。それでもか?」
「何、言ってるんだよ。冬也。七美がオレのものだったことなんて、一度もないぞ」
「七美の心をお前に向けないために、俺は……」
 言いかけて──、冬也は口篭もった。
「なんだよ。言いかけてやめるなよ」
 正直に、真相を喋ることができない。
 言葉にするのも憚られるような真似をしていたんだ──と、冬也は強く自覚させられた。
 だから、言った。
「欲しいものを手に入れるためなら、最大限の努力をする。俺は、そういう男だよ。七美の心を繋ぎ止めるのにも、持てる能力を全て使った。……それが、間違いだったのか?」
「そんなの……、誰でもそうだろ」
 大樹は、憮然とした声を出した。
「どうしたんだよ、冬也。オレに対して妙な罪悪感を持ってるみたいだけど、お門違いだぞ。オレは別に、お前には何の含みもない……」
「時間を、遡行したんだとしてもか?」
 冬也は、吐き出すように言った。
 線路に縛り付けられて、終電車に轢かれそうになったあの時も──遡行した。過去へと時間を溯り──不本意な現実から、回避しようと考えた。
 冬也だけが持つ、能力。
 七美のことも──、本当ならば大樹の恋人になるはずだった。それを二人が出会う前に立ち返り、冬也が奪い取ったのだった。
「ソコウ? ……なんだよ、それ」
「ドラエもんの引き出しだよ。できるんだよ、俺には。今日の記憶を持ったまま、昨日の自分に戻ることが。……お前、知らなかったのか?」
 知っていると思っていた。
 だから、それが許せなくて──自分のことを殺そうとしたんだ、と。
「今日は、エイプリルフールだったか? オレをからかうにしても……もうちょっと、信憑性のある話ししろよ」
「嘘じゃない。本当に俺には……」
「はい、はい。お前がSF好きなのは、もう解ったから」
 全く、信じていなかった。
 だからだろう、大樹ははっきりと言った。
「欲しいもの手に入れるのに努力するのは、誰でもそうだろ。努力もしない根性なしのほうが、オレは嫌いだね。冬也。だからお前は、間違っちゃいないよ」

***

 この次は三人で会おう──と約束をして、大樹とは別れた。
 ──しっかりやれよ。
 言外に、そう激励されていた。
 瞼の裏に焼き付いている表情とは、どうしても結びつかない。虫けらを見下ろすような、凍てついたあの視線──
 職場に戻ってからも、仕事が手につかなかった。習慣化している残業を辞退して、冬也はひたすら家路を急いでいた。
「お帰り。随分、早かったんだね」
 迎えてくれた七美は、極上の笑顔だった。
 食卓には冬也の好物が所狭しと並べられて、生花まで活けられている──
「今日って、なんかの記念日だった?」
「違うけど。……いいでしょ、たまには」
 彼女は上機嫌で、にこにこしていた。
 口元にいつも微笑みを浮かべている、七美はそんな女だけれど。それにしても、今日の彼女は度を超している。
「ねえ、食べようよ? 今日のキンピラは、力作なんだよ」
 部屋が胡麻臭くなるから──と、普段は滅多に作ってくれない。そんな独特な匂いを放つ炒め物が、鉢一杯に盛られていた。
「それにね。じゃーん!」
 言いながら七美は、紙袋から一本の瓶を取り出した。
「キンピラに、ワイン? 食い合わせ、悪いんじゃないの」
「気にしない、気にしない」
 七美は、笑っていた。
 心配事でもあるんじゃないの──と訊ねてきた、あの朝の表情とは随分違っていた。悩み事があるらしい冬也の気持ちを盛り立てようと、明るく振る舞っているんだろうか。
 不審に思いながらも、冬也は腰掛けた。
 食べてみて──と箸を差し出されて、細切りにされた牛蒡をつまむ。
 ぴりりとした刺激的な味が、口の中に広がった。
「美味いよ、これ」
「本当に?」
「もちろん。だけど本当に、どうしたんだよ」
「あのね。電話があったんだ」
 照れ笑いで、七美が言った。
「誰から?」
「大樹くん。冬也の悩み、聞いちゃった」
 そう言われて、合点がいった。
 あれは大樹から本心を引き出すための口実だったけれど……、頃合いかも知れなかった。
 七美は背筋を伸ばして、冬也の言葉を待っている。
「ばーか。そんなに待ち構えられて、言えるかよ。照れるだろ」
「えー。なんでよ、言ってよ」
 頬を膨らませる七美を横目に、目の前の金平に箸を運んだ。ぴりぴりとした辛味が、舌の裏まで熱くする……
 ──結婚、してください。
 覚悟を決めて──言葉にしようとした時、ぐらりと世界が歪んだ。
 口の中が、燃え上がるようだった。
 椅子からずるりと滑り落ち──、力無く床に横たわる冬也のことを、七美が見下ろしていた。
 あの時の大樹と、そっくりな瞳をしていた。
 それは虫けらを踏み潰す、感情のかけらもない冷たい視線だった。

***

 星が瞬いていた。──見覚えのある夜空、あの時と同じだった。
 手足を、動かすことはできない。
 レールに頭を預けながら、暗闇の中に、小さな輝きを見つめていた。
 今度はもう、鉄柵の向こう側を確認しようは思えなかった。勇気がなかった。そこに誰がいるのか、解ってはいたけれど──
「冬也。あなたは、狡い」
 聞きたくはなかった、声がした。
「どうしてだよ」
「あなたは狡い。本当なら私は、大樹の恋人になるはずだったのに。あなたが時間を溯って、私の運命を歪めた……」
「電話って、そっちだったのかよ」
 今はもう、大樹が知っていた。
 冬也が、時間を遡行できることを。あいつだから話した、あいつだけに話した。信じては、いなかったようだけれど……
 七美の耳に届くことだって、考えておくべきだった。だけど大樹が他言するなんて、考えてもみなかった。
「七美。殺したいほど、俺が憎い?」
「憎い。私は、あなたが憎い……」
 七美の口から、そんな言葉を聞くなんて。
 仮面夫婦を演じ続ける両親に苦しめられながら、恨み言一つ、言ったことはなかった。心の中にある傷みを奇麗に隠して、曇りのない笑顔を見せる。そんな七美の健気さが愛しかった。それなのに──
「嘘だ。お前は、七美じゃない……」
 ──ばかだなあ。冬也ったら私のこと、そんなに愛しちゃってたんだ。
 全てを知っても、冬也の知っている七美なら、そう笑ってくれるだろうと信じていた。
 ──そういうお前を許してやるのはオレぐらいだから、感謝しろよ。ったく……
 大樹ならきっと、そう言ってくれるだろうと甘えていた。
 それは、身勝手な思い込みかもしれない。だけど冬也の知る二人は──
「七美には、憎いなんて言えないよ。それじゃ、まるで別人だろ。なんでだよ、七美……」
 涙まじりの冬也の言葉に、押し殺したような笑い声が響いた。
「お前の言う通り、私は冴木七美ではないよ」
 その声は、七美そのものだった。
 けれど──口元に浮かぶ歪んだ嘲笑は、彼女のそれではなかった。
「七美じゃないなら……、誰だ?」
「私は、時を司る者だよ。人は私を、死神と呼ぶね」
「死神。そんな奴が、なんで俺を……」
「お前が、狡いからさ。死は、何者にも平等に訪れる。時は、誰の上にも平等に流れる。お前はそれを、歪めているだろう?」
「…………」
「お前は嘘だと言った。だがな、お前は憎まれているんだよ。冴木七美にも、脇坂大樹にも、……この世界の生きとし生ける者、全てからね。だから、私が来た。お前にはもう明日がないと、教えるためにね。お前が何度時を溯ろうと、その度に私が、恋人の、親友の、親兄弟の、隣人の姿を借りて、お前を殺しにくる……」
 鐘を打ち鳴らすような踏切の音が、どこからか響いてきた。
 冬也は、理解していた。
 冬也の狡さなど知るはずもない無辜の人々を乗せた、終電車。その車輪こそが、死神の鎌だったのだ──と。
 そして──、地面を轟かせながら電車は通過した。
 支えを失い転がる、胴から断たれた首。死神は、冥府に持ち帰ることができたのか。それとも、冬也が過去へ逃げ果せたのか。
 それは、誰にも解らない。
 針金で縛められた、左手首。そこに纏い付いている腕時計のデジタル表示だけが、音もなく、23:59から0:00へと切り替わった。

 

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