●NEXT (No.48)


 亮(とおる)と二人である日、山歩きに出かけた。紅葉の季節にはまだ少し早かったけれど、峠の道の澄んだ空気が美味しい。
 胸一杯に山の冷気を吸い込みながら、ゆっくりと歩いているうちに、すっかり忘れていたはずの何かの一文を思い出した。それはあるエッセイの一節だった。

 秋の日の何処までも高い空を見上げる。遠い日に、家の庭の片隅に一本だけ
忘れられたようにして立つ柿の木を思い出す。秋も深まると、柿の実も落ち着
くし、葉も涸れ果てて、裸の幹と僅かに落ち残る柿の実が、青空に寂しく揺ら
いでいた。
 今も、不思議なくらいにその光景は瞼にくっきりと浮かんでいる。手を伸ば
せば、揺れる柿の実に触れられそうなくらいなのである。
 が、決して、触れることなどできはしない……。

 なんの変哲もないエッセイに過ぎない。
 そもそも、エッセイがそのあと、どういった展開を見せていたのか、まるで覚えていない。ただ。最後の、「触れられそうなのに、決して触れることなどできはしない…」という話の切り返しの部分だけが妙に印象的だったのだ。
 亮にエッセイのことを話しても仕方ない。読んだはずのないことは、聞くまでもなく分かる。私にしても、ネット上の誰かのホームページの中に見つけて、読み流したエッセイに過ぎない。今までだって、一度だって思い出したことなどないはずなのに、妙に感傷的な気分だから思い浮かんでしまったのだろうか。
 でも何故か柿に拘りたい気持ちが燻っているのだった。
 「ねえ、柿だけどさ。」
 「えっ? カキ? カキって、あの食べる柿か? その、山とか里にある。それとも海の幸の牡蠣かな。」
 「うん、その里の柿のほうよ。果物のね。海の牡蠣じゃないよ。」
 「で、その柿がどうしたってんだ。俺は今年はまだ、食ってねえぞ。」
 「だから、食ったかどうかじゃなくてさ。」
 「お前は食ったのか?」
 「だから、食べたかどうかじゃなくて、亮さん、見たことある?」
 「お前さ、柿くらい誰だって見たことあるだろうさ。そんなにバカにしたもんじゃないぞ。」
 「あの、だから、今年、秋になってってことよ。何処かで見たかしらって聞いてるの。あの、店先で、というんじゃないのよ、念のため。」
 「いんや、見てないし、食ってない。」
 「まだ、食うことに拘ってる。最近、あまり見かけないわよね。都会じゃ、まず期待できないし、田舎にあるって言ったって、そうそう何処にでも都合よくは生えてないだろうし。」
 「ま、そうだな。で、柿がどうしたんだ。見なくて寂しいってか。それとも、今から食いに行こうかとか。」
 「あなたね、頭から食うことは払いのけてよね。だからさ、なんとなく、秋の青空を見てたらさ、何となく秋の風景ってんで、田舎の風景をちょっと思い出しのよ…、柿の木がポツンと立っているっていう…ね。」
 「お前の田舎って何処だっけ、秋田だったけな。秋田にも柿はあるのか。」
 「あるわよ、バカにしたもんじゃないわよ。柿だって栗だって。」
 「いや、別に柿がなくたって恥でもないだろうさ。」と亮。
 「だけど、私には柿のある風景って、最近になって何故か原風景みたいに感じられるのよね。」
 「おお、原風景と来たか。すると次は、心象風景あたりかな。」
 亮は私が失恋したことを知っている。失恋した相手のことも知っている。彼は私の気持ちが感傷的になるのを苦手お喋りで防ごうとしているのだ。
 彼は私が一人で旅に出ると知って、俺が付き合ってやると言って、勝手に連いてきたのだ。
 邪魔になる相手でもないので、邪険にする必要も感じないし、好きにさせておいた。
 実際、彼はいい人なのだ。彼にはちゃんと彼女もいる。でも、人が落ち込んでいると、見て見ぬ振りができないのが、亮なのだ。あとで、私と一緒に山歩きしたことが彼女に知れたらどうするのだろうと、私としては、そっちのほうが心配だ。
 最近、亮のほうも、彼女とギクシャクしているというし。
 私は亮が彼女のことをブリリアントな女だぜ、と無邪気に話した事を覚えている。彼女は薔薇か、そう、椿の花。いずれにしても、夏、真っ盛りの花。
 私は、きっと彼にはダイコンの花か、菜の花…、冬の花なのだ。
 
 「ねえ、柿って、花が咲くのかどうか知ってる?」
 亮には答えられそうにないと踏んでの質問だった。
 「えっ? 柿の花? 柿の種なら知ってるけど、柿って花が咲いたっけかなあ。」
 彼は大真面目に考え込んだ。そういう彼が大好き! きっと、彼女もそんな彼の一面に惚れているに違いない。だから、不釣合いなツーショットなはずのに、彼女は彼を放さないのだろう。(亮って罪な奴なんだ。罪だ、罪だ、罪なんだ。)
 私の<つみ>という言葉が聞こえたのだろうか、亮が不意に、
 (つみ、か。積み、摘み、罪、数字で言うと、23だな。)
 「えっ? 何?」
 「いや、柿の実が生るくらいだから、花だって、咲く…んだろうな……。」
 真剣な彼の表情が滑稽だけど、可哀想になって私はすぐに助け舟を出してしまった。
 「うん、ちゃんと咲くの。柿の花って、ホントに地味で可憐。あまり人には言わないけど、私、柿の花って好き。もう、目立たないのよ。咲いてたって、誰にも気付かれないくらい。よっぽどジッと見詰めないと気が付かないかもしれない。でもね、私、その健気さというのかな、控えめなところが好きなのよ。」
 「なんだか、お前の性格と正反対って気がするけど。」
 「ええっ?! どうして、私って、そうでしょ。可憐で健気で。」
 「何でも、しゃしゃり出るお前の何処が控えめなんだよ。」
 私は段々、ムキになってきてしまった。この私がでしゃばりだなんて。何も本心の言えない私が。でも、興奮すると自分とは正反対の性格が表に出てしまう。これじゃ、拙い、逆効果だ。
 そうは、分かっていても、口を抑えることが出来ない。
 「何、言ってんのよ。あれは、私の仮の姿。世間を欺く仮面なの。ホントの私って、プチフルーよ。」
 「えっ? プチブルだって。」
 「もう、ザ・ピーナッツの可愛い花よ、プチット・フルールじゃない。あのね、私、あなたがザ・ピーナッツのデビュー40周年記念のアルバム、買ったの、知ってるんだからね。」
 あーあ、言っちゃった。
 「ぎょえぇ、どうしてそれを。」
 「彼女にも秘密にしてるとか?」
 「ぐ!」
 「で、認める? 他にもいろいろ知ってるのよ。」
 「ああ…、確かに君は苛斂(誅求)だ……。」
 私は、忘却の海の波間に浮かんでは消失していく記憶の赤い糸くずを手繰り寄せようとしていた。いつか、何処かで間違いなく自分にあったこと……。
 断片的な場面がすぐそこまでやってきている。
 吊るし柿。そう、吊るし柿の透き間から私は窓の外に拡がる秋の山並みを眺めていた。あの時、私は一人だった? それとも傍に誰かが居た? 夢枕に誰か知っている人が立っていたのに、思い出せない、そんなもどかしさが苦しかった。
 「じゃ、さ、柿という名前の語源って知ってる?」
 ほとんど、彼への拷問だった。寂しさを彼に意地悪することで紛らわしている……。それとも……。
 「そんなもん、俺が知るわけねえさ。」
 「そんなこと言わないで、考えるの!」
 「考えて分かるもんなのか。」
 「ほとんど、駄洒落の世界なんだから、あなたの得意分野じゃない。」
 「そうか、駄洒落でいいのか。だったら。」
 と、亮はまた目一杯、考え始めた。しかめっ面のような、でも、何処か憎めない表情を浮かべて徹は懸命に考え込んでいる。そんな彼が好き! 

 「カキ、カーキ、そうか! カーキ色から来てんのか。んなわけねえな…。牡蠣と柿じゃ、あんまりだしな。そうか! 分かった。ガキの頃、悪戯で皆(みんな)よく食う実だからガキで、それじゃ、語呂がよくないからカキに転訛したとか……」
 「ちょっと、望み薄のようね。あのね、色よ、色。赤と黄色でしょ。だから<あかき>で、カキだって」
 「お前、ぶっ飛ばされたいか。俺だって、そんな駄洒落は飛ばさないぞ。だいたい、なんだって、勝手に<あかき>から<あ>を抜くんだ。そんな違法な駄洒落なんて、俺は絶対、認めないぞ!」
 「御免。これって、ネットでの受け売り。でも、結構、信憑性があるみたいよ。」
 彼が意外なほどに怒っていることに私は驚いた。拙い! 怒るようなことじゃないでしょ、と言いたいけど、私は話の矛先を変えることにした。ここは引きの一手だ。

 「でね、あのね、柿って言ったら、柿本人麻呂じゃない。」
 「そう来るかな、ちょっと無理があるんじゃないか。」
 「そうでもないの。柿本人麻呂伝説って全国にあるじゃない。人麻呂って、カキの木の下に出現した神童で、カキの木の又(また)から生まれたという伝説だってあるの。」
 「なんだよ、それじゃ、竹から生まれた桃太郎だっけ、それとも、金太郎だったっけ……。」
 「それを言うなら、かぐや姫なんじゃない。」
 「そうか、柿本人麻呂って、かぐや姫の親戚みたいなもんなんだ。なんだ、枯れ木に花でも咲かせたのか。ん? あれは花咲爺さんか。」
 「それはどうか分からないけど、ま、謎の人というか、集団のようね。」
 「えっ? 集団? 柿本人麻呂って一人じゃないのか?! 人麻呂じゃなくて、麻呂、麻呂、麻呂ってか。」
 「というか、実際に柿本人麻呂もいたんでしょうけど、彼に率いられる柿本集団がいたらしいのよ。柿本衆というかね。」
 「なんだか盗賊の頭目みたいな奴なんだな。」
 取り留めのない話をしているうちに、カキから垣を連想して、吊るし柿を見た場所を思い出した。
 それは王禅寺だったのだ。そこのとある洒落た茶屋である男と一休みしたことがあった……。その茶屋の格子窓の外に干し柿が吊るされていたのだ。でも、その時の相手が誰だったか、覚えていない……。

 「じゃ、柿の花言葉って知ってる?」
 「んなもん、俺が知ってるわけないじゃないか。いい加減にしろよな!」
 「だから、ちっとは考えなさいってぇの。自然美だって。」
 私もせっかちになってきて、すぐに答えを自分で出してしまった。
 「えっ? 自然美、へえ、変わった花言葉のような、でも、言われてみると、柿の木にぴったりのような。」 
 「そうでしょ、私も柿の花言葉が自然美と知った時、誰が考えたのか知らないけど、最高だと思ったわ。」

 その瞬間だった。王禅寺の茶屋店で相席していたのは、亮だったことを思い出した。10年にもならない前のことだ。私と彼との、いや、私の初めてのデートだった。あまりに切ない想い出だから、思い出さないようにしていたのだ。彼はあれっきり他の女に目移りしてしまった…。
 自然美! 私たち二人の自然美は、あの日の姿にあったのだ……。
 「あなた、柿の花って、見たことないの?」
 「柿の花ね…、見たことあるような、ないような……。」
 「都会っ子のあなただけど、きっと見たことあるはずよ。淡い、クリーム色の花。自己主張めいたことはしないけど、健気に咲いてるのよ。」
 彼は黙ったままだ。
 「ううん、あなたは、間違いなく見てるはずよ!」
 「えっ」と、一言。
 あとは、亮は、やっぱり黙り込んだまま。今こそ、何か言って欲しいのに。
 「ねぇ、私って柿の花だと思わない?」
 私は思い切って本音を口にしてみた。
 私って、やっぱり、出しゃばりなのかも知れない。
 でも、女の私にここまで言わせるの?
 すると、亮が言った。
 「分かってるよ。だから俺達、ここに来てたんだったよな。」

 

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