●NEXT (No.50)


……1……
 踊り場もなく三階まで続く階段。見上げるとひっくり返りそうな程に、そして振り返ると転げ落ちそうな程に急な階段。
……2……
 それは小さかった渉には段差が大きくて母親に手を取られ数えながら登った階段。
……3……
『ふかく息をして……ゆっくりはいて……もう一回、ふかく息をして。』
……4……
 渉は今、風呂の中に頭を沈めて数えている。
……5……
 明日、潜水のテストがあるからだ。
 他の友達たちは一分二分は当たり前。何せこの街は海に面していて、夏の遊びといったら素潜りでサザエ等を獲るくらいなのだ。
……6……
 都会育ちの渉は海で泳いだこともないし、プールに行ったことも数えられる程度。
 夏に海で水泳の練習をしようと約束した祖父は今、入院している。祖母もまた看病のために病院にいるのでこの家に渉は一人っきり。
……7……
 水の中で渉に聞こえるのは心臓の音、血液の流れる音。見えるのは瞼の奥の暗闇、少し赤みがかかっていて暗室の暗闇に似ている。
……8……
『父さんと母さんが渉のためにお金、たくさん残してくれたからな。大学まで行こうな。』
 渉が祖父母の家に越してきたのは今年の春。隣町には父方の祖父母がいて、そちらだと学校も移らずに済んだのだが、渉は生まれ故郷を離れたかった。
……9……
 ガス爆発だった。三階が吹っ飛び、父親は路上で発見された。母親は赤黒く焦げた姿で渉の上に覆いかぶさっていた。スッポリと覆いかぶさられて渉は火傷一つしなかった。
『あの子が命がけで助けた子だもんね。ちゃんと育てないと。』
 とてつもない轟音であった。頭の中全てをそれは満たした。暴力的に押し込まれて、頭が破裂すると渉は恐怖した。恐怖を押し流して音は高まり、渉は絶えきれずに気を失った。轟音の果てに無音が続いた。奈落のように底なしの無音だった。後頭部が欠けて中身が漏れ落ちていくような脱力感。渉は唐突に叫びながら覆いかぶさるそれを押しのけて立ちあがった。そして母親を見た。
 母親の黒髪が縮れて塊になっていた。
 焦げた服から覗く乳房はきつね色だった。
 熔けて小さくなった両の耳が奇妙に思え、左の腕は炭のように細く脆く、その先には縁の熔けたカメラが握られていた。
……10……
 昔は三階にあるスタジオに多くの人が訪れた。背が高く手足の長い彼らは街で見る人々とは違う雰囲気を持っていた。父親の覗くカメラの前に立ち、真新しい服を着飾りポーズをとる彼らを見ているのが好きだった。フラッシュの光を浴びる彼らを見ているのが渉は好きだった。その光は物の本来の色を取り戻し、表情から陰りを吹き飛ばしてくれるのだ。渉も何度か彼らに混じってその光を浴びたことがあった。ゾクリとする感触があった。擽られるような、一皮剥かれ、新しい私が現れるような快感があった。
『真夏の太陽と同じ光なんだ。』
 夕食後、父親が現像作業をする暗室にもよく遊びに行った。父親はそこで学校のことなどを渉に聞いた。渉は答えながらも父親の作業に目を奪われていた。特に現像液に沈んだ印画紙が絵を浮かびあがらせるのを見ているのが好きだった。
 思えば両親が一緒に時間を過ごすことは少なかった。父親は三階のスタジオに、母親は二階の住居に多くいて、渉は父親と一緒にいることが多かった。
 いやまだ一人で三階への階段を登ることが出来なかった頃には渉は母親に連れられて登ったのだ。母親もまたカメラの前に立てるほどに美しく華やかな人だった。けれどもいつしか階段を登る渉の隣にその姿は見えなくなり、台所で食べきれないほどの料理を作っては捨てる母親の姿が目立つようになってきた。
……11……
 渉の家の構造は一階が車庫や倉庫で、二階が住居、三階がスタジオとなっていたが、一階二階へ上がるための入口とスタジオへ上がるための入口は別に設けられていた。つまり二階から三階へ上がるための階段が正式には作られていなかった。尤もそれでは不便だと母親が屋根裏へ上がるときに使うような収納式の階段を後から作らせたが、父親はそれほどに家庭と仕事場を繋ぐことを嫌がっていた。
 収納式の階段、これは台所の天井にあった。
 実際によく使ったのは渉であった。以前のようにモデル達が出入りしなくなってからの、つまり仕事がなくなってからの父親は前にも増して二階に降りてこなくなり、渉にも上がってくることを許さなくなった。不在でもないのに三階へ通ずる階段の入口に鍵を掛け、母親から合い鍵を取り上げてしまった。
 だから渉は収納式の階段を使ってスタジオへ忍び込んだ。また逃げ出すときにも使った。父親が帰ってきたことは三階への入口のドアが開いたときに鳴るカメラのシャッター音のチャイムで分かったのだ。
 もちろん中学一年になり、身長が160を超えた渉であっても収納式の階段をこっそりと広げ、また折り畳むことが出来るわけがなく、母親が陰から忍び込む姿を覗き込んでいることは分かっていた。黙認、いや偵察のために自分を送り込んでいるという腹づもりさえ感じられた。
『スタジオどうだった?』
 母親は時折そう尋ねる。
『うん、散らかってた。でもお父さん、上で寝てるんだね。ベットあったよ。』
 母親は複雑な表情を浮かべ、そしてふっと気が抜けたように小さく笑った。
『お母さんのこと、嫌いになったのかな。最近、お父さんのこと分からなくなってきた。』
『でもさ、デジカメもあったよ。邪道だとかってあんなに嫌ってたのに。それにコンピュータ。三階にあるんじゃ僕使えないよ。』
『駄目よ、それ触っちゃ。またいつかみたいにお父さんのもの、壊しでもしたら台所の上の階段まで通れなくなっちゃうから。』
 口では脅し文句を述べながら瞳が困惑に揺れていた。
……12……
 母親の言う渉がかつてした失敗とはフラッシュバルブという電球のようなものにヒビを入れてしまったことだ。
『これで焚くと割れちゃうかもしれない。』
『え、じゃあどうしよ。』
『大丈夫よ、お父さん、使わないから。』
『本当に。使わないの。』
『うん、このフラッシュもこれを使うカメラもどちらも骨董品なの、置いてあるだけ。』
『驚いたんだ。いきなりピカッて光るから。』
『これはフラッシュバルブっていってね、この中の金属が燃えて強い光を出すのよ。』
 電球の形をしたものの中に糸状のアルミニウムがたくさん詰め込まれている。父親の留守にスタジオに忍び込んだ渉は奥の戸棚にそれを見つけた。取り上げて光に当ててみると中の金属がキラキラ輝いて綺麗だった。しかし何のために使うのか分からず考えているとその隣にあったカメラに目が行った。カメラのボディには煙突のように突き出ている円筒があって、その先端に懐中電灯のようなものがついていて、豆電球の代わりに金属片を封じ込めたこの玉がついていた。
 それではこれはライトのようなものなんだろうかと思いながらフラッシュバルブをポケットに入れて今度はカメラを手に取ってみた。父親を真似てファインダーを覗いてみると四角に切り取られた部屋の光景には賑やかだった頃の記憶を擽るものがあって、渉は楽しくてファインダーを通して部屋のあちらこちらを覗き回った。そのうち、自分のポーズはさまになっているか気になって鏡に向かって構えた。フィルムが入っていないのは分かっていた。だからシャッターボタンを押したのだ。
 次の瞬間、猛烈な光が眼球に噛みつくようにファインダーの四角から飛び込んできて、思わず渉は尻餅をついてしまった。咄嗟にカメラは腹に抱えるようにして守ったのだが、ポケットのフラッシュバルブはガラスにヒビが入ってしまったのだ。
……13……
 そろそろ息をとめていることが苦しく、いや不安になってきた。
……14……
『渉君は水が怖いんでしょ?』
 今年から補助教員として授業に入っている若い女の先生は渉にそう言った。
『水が怖いっていうか息が出来ないのが……』
 水泳の授業で溺れかけた日の放課後のことだった。慌てて息継ぎをしたために水を飲み込んでしまったのだ。
『じゃあここに寝て練習しようか。』
 補助教員に呼び出しを受けたのは保健室。
『え、寝るの?』
『そう。たくさん息をする練習、深呼吸の練習をしましょ。』
 瞬きしない黒い瞳に見据えられて渉は白いベットに向かうしかなかった。そして横になっても尚、彼女の眼差しは渉を捉えて離さなかった。その見下ろす瞳に母親の瞳が重なる。
……15……
 同じように渉の母親も人の目を正面から見据える癖があった。二重瞼の黒目がちな瞳で射るように渉を見つめるのだった。
 そんな瞳を前にしての食事は喉に詰まるようで三階に逃げ出したくてしょうがなかった。けれども母親が視線を自分に向けておきながらその関心が別のところにあることも渉は分かっていた。三階の物音、そこに母親の全神経は向けられていた。
 歩き回る足音、女の笑い声、ロック音楽。
 以前は夜に一人で仕事をすることはあっても他人を入れることはなかった父親。しかもロックをかけているということは撮影をしているのであると母親も渉も分かっていた。この夜の撮影は週に二、三度行われるようになり、日曜や休日にもロック音楽がかけられるようになっていった。
 母親は何を撮影しているか分かっているようであった。そしてそれが意にそぐわないものであることは表情から察せられる。しかし渉には確認のしようがなかった。暗室には現像されたフィルムが何一つなかったからだ。
 母親の表情に笑みの浮かぶ日が次第に失われていき無言の眼差しに射すくめられる日々が続いた。息苦しくて苦しくて渉は逃げ出したいのだが逃げる場所がない。父親は三階で自分ではない若い女と楽しげに過ごしている。父親にはもう自分は必要ないのか、母親は自分を愛していないのか、居場所がなかった。
 空気が足りない。
……16……
 心臓が足掻いている。空気を求めて慌てている。胸にある二つの風船が膨らんでいく。不安を溜め込んで膨らんでいく。
……17……
『でも深呼吸と息継ぎと関係あるかな。』
 補助教員に見つめられ続けることが息苦しくて、渉は口を開いた。
『あるわよ。渉君は胸で息をしてるから長く続かないのよ。長く続かないから潜ってるのが怖くなって焦って顔を上げるから今日みたいに溺れちゃうの。それに深呼吸が上手くできれば心が落ち着いて恐怖心がなくなるし。』
 仰向けに横たわる渉の両手を補助教員は掴み上げ、腹の上で組ませた。ひやりとしてしかし何処か吸い付いてくるような肌の感触。
『じゃあゆっくり息を吸って、お腹を膨らまして、お腹に息がたくさん入っていくってイメージするの、もっともっと深く深く。』
 言われるままに息を吸い込む渉の耳には多少、苦しげな呼吸の音が聞こえる。
『はい、はいて。たくさんはいて。お腹の中身がなくなるくらいにイメージしながらはき続けて。もっともっとながーくはいて。』
……18……
 祖父は呼吸困難で病院に運ばれた。
 学校から帰った渉を迎えたのは玄関ドアに貼られた紙切れで、そこに書かれた病院名をタクシー運転手に告げて渉は駆けつけたのだ。
 肺に水が溜まったのだという祖父は病室で様々な器具を取り付けられて眠っていた。
『驚いたでしょ。』
 隣に座る渉に祖母はそう語りかけたきり、無言で祖父の顔を眺め続けている。
 ガラスの向こうはナースセンターで看護婦達が忙しげに立ち振舞っていたが、渉達のいる集中治療室に物音は何一つ届いてこない。人工呼吸器の緩慢な作動音だけがそこにあった。
……19……
 病院、病室、白い壁、白いシーツ。
 爆発事故後、左足をギブスで固め、渉は病院で半年あまりを過ごした。左の鼓膜も破れ、暫く片方の空間が詰まったように感じられた。
 精神的な状態はというとやけに白かった。お菓子を食べても大好きな漫画を読んでいても心が鈍いというか、立ちあがる感情がなかったのだ。白いシーツ、白い壁、白い印画紙のようにまっさらで浮かぶものがないのだ。
 見舞いに来た人々は最初は不満げな表情を浮かべたがそのうち訝り、或いは事態を察して涙を浮かべたりもした。けれども渉には何故、彼らが哀れむのかが理解できなかった。
 白い時間が過ぎた。白い時間をベットに横たわって退屈することもなく過ごした。
 ある日、一人の女子高校生が訪れた。
 会ったことのない人だった。
『高橋渉君だよね。』
 それなのに自分の名前を知っている。でも病室のドアに名前は書かれているから知っていて当たり前か、思考だけは淀みなく流れる。
『お父さんは由紀夫さんでしょ?』
……父さんの知り合い?
『新聞で見てもっと早くお見舞いしようと思ったんだけど、これお土産。』
 紙の手提げ袋を枕元の棚に置く女子高生の髪の毛が渉の鼻先で流れ、記憶がピクリと疼いた。
『私さ、昔、お父さんに写真、撮って貰ったんだけど……その……ネガとかも残ってないんだよね。みんな焼けちゃったんだよね。』
 その瞳、目元、鼻、口、顎から肩にかけて。
 渉は探した。自分の記憶の中に、目の前の女子高生と合致する像があるはずだという確信があったのだ。何処かで見たはずなのだ。会ってはいなくても何処かで見た女なのだ。
『どちらさんですか?』
 背後に立つ祖母を見て女子高生は慌ててお辞儀をし、その脇をくぐり抜けて姿を消した。
……20……
 学校から帰ると三階入口のドアが少しだけ開いているのが目に付いた。渉はドアに近寄り、隙間にするりと身を滑らした。ドアを大きく開けると三階でチャイムが鳴るからだ。
 階段は薄暗く誰もいなかった。しかしそれは死んでいるのではなく眠っていた、微かな寝息を内で立てていた。渉の中の記憶、母親に手を引かれて登った記憶、笑い声に溢れていたスタジオへ胸を躍らせて駆け上った記憶。
 ゆっくりと噛みしめるように階段を登り、渉はスタジオのドアを開けた。すぐに机の上のコンピュータとケーブルで繋がれたデジタルカメラに目が行った。最近はこればかり使うから暗室にフィルムがないんだな等と思いながら渉はいたずらにマウスを動かした。
 作動音と共にコンピュータが目を覚まし、モニタ一杯に女のヌード写真が現れた。
 渉は驚いた。驚いてそのまま立ち尽くした。
 若い女だった。可愛らしい顔をしていた。肩に触れる程度の髪、張りのある乳房、余分な肉のない腹、そして白いパンティ。
 と再び画面が黒に落ちた。
 金縛りを解かれて渉は視線を落とした。すると机の上の銀行通帳が目に付いた。おもむろに開いてみると、一万円の入金が夥しく続いている。名前も様々だった。
 このヌードの女が時折、聞こえてくる笑い声の主なんだろうか、推理が頭をよぎると急に腹が立ってきた。乱暴に投げ捨てた通帳がマウスに当たり、再びモニタに女の写真が現れた。よく見ると画面の下に30、31、32、33、4と続いている。渉は31をクリックした。女はパンティを脱いでいた。32、女はベットに横になっていた。それはスタジオにあるベットであった。33、両の乳房を両手で鷲掴みにする女。4、女はセーラー服を着て微笑んでいる。
 渉はモニタを離れ、ベットに横になった。少し股間が強ばっていた。手で押さえようとするとさらに血流が増した。
……ここであの子が裸になったんだ……
 そう思うと股間は痛いほどに膨れあがり、渉は姿勢をうつ伏せに変えた。顔を覆う枕からほんのりと父親のものではない体臭がした。
……21……
 シャッターが連続して切られた。
 とそれはチャイムの音だと渉は気づいた。
 傍らに母親が立ち、渉を見下ろしていた。何故か笑みを浮かべていて、片手にカメラを携えている。本体の横にライトのようなフラッシュを装備したカメラ。
『お父さんを驚かしてあげよ。』
 突然のことだったが母親の久しぶりの笑顔を見て渉は嬉しくなった。俯せの姿勢から起きあがろうとする渉をしかし母親は押しとどめ、いや、その頭を枕に押し付けた。
 ふざけているのか、自分が声を立てるのを制止するためにしているのか、初めはそう思ったがいやにその手には力がこもっていた。顎が喉に差し込み、息が出来ない。
 傍らで母親は数えていた。渉の手を引きながら階段を登ったときのように数えていた。
……22……
『はい、息をとめて!』

……いち……にい……さん……し……ごお……ろく……なな……はち……くう……
 女子生徒達の歓声が水に溶けている。
 渉は胎児のように体を丸めて沈んでいる。
……じゅう……じゅういち……じゅうに……じゅうさん……じゅうし……
 数えながら追いかけている。母親の声を追いかけている。自分よりも先に数え、先に一段踏み上がる母親の声を足を追いかけている。
……じゅうご……じゅうろく……じゅうしち……じゅうはち……
 何故だか表情が思い出せない。見上げても背中と後ろ髪があるばかりで母さんは振り向かない。三階の父さんばかりを見つめている。
……じゅうく……にじゅう……
 僕を守ろうとしたのか。殺そうとしたんじゃないのか。僕が邪魔だったんじゃないのか。
……にじゅういち……
 苦しかった。体の中で苦しみが暴れていた。
……にじゅうに……
 そして最後の段。
……にじゅうさん……
 フラッシュが焚かれる。全てがその光に照らされて白くなる。全てが消失する。
……にじゅうよん……
 渉は顔を上げ、目を開いた。
……にじゅうご……
 白の向こうから青空がゆっくりと現れる。
……にじゅうろく……にじゅうしち……
 真夏の太陽の光が渉を新しくする。
『やったわね、渉君!一分越えたわよ!』

 

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