●NEXT (No.52)


 夜間外来の最後の患者は常連の喘息患者だった。清さんと呼ばれている初老の男で、身長は170ほどだが、身体はレスラーのようにがっしりとして、驚くほど厚い胸板をしている。喘息発作で苦しいのか、清は身体を上下に揺らしながら大きな息をしていた。生まれつき我慢強いのか、鍛え上げたものなのか、痛みや苦しさの感覚が麻痺しているように、どんなに苦しくてもオレンジの色眼鏡をかけた浅黒い顔はいつも無表情だった。聴診器を当てるまでもなく、胸からはヒュー、ヒューという喘息の呼吸音が聞こえている。
「清さん、何時もの注射でいい?」
藤村達人の問いに答える代わりに、清が微かに頷いた。いつも清は口をきかない。病院にやって来て太い腕を突き出し、注射を受けると黙って帰っていく。無表情で無口の清は鉄仮面と看護師たちから呼ばれていた。
 清の手には両方とも指が三本しかなかった。二本ずつ自分で切り落としたのだ。そうやって極道の世界から抜けてきた。喘息持ちで役に立たなくなったから辞めさせられたのだと、外科外来の看護師、溝口清子は説明していた。溝口は勤務十五年のベテランで、矢崎病院の生き字引的存在だった。清が自ら足を洗ったにせよ辞めさせられたにせよ、今は喘息に苦しんでいる、ただの初老の寡黙な患者に過ぎなかった。
 注射が終わると長袖を下ろし、袖口のボタンを留めて清が立ち上がった。背中から肩、上腕にかけて一面に彫り物がある。そのせいか、一年中シャツは長袖だった。
「楽になった?」
藤村の問いに清が軽く頷いた。固く閉ざされた口の左隅がほんの少し上がって微笑んだようにみえる。唇が緩んだのは、注射が効いて楽になった証だろう。
 何も話さない清の気持ちが判るようになったのは、一年ほど付き合ってからだ。いつも清は化粧のきつい中年女に付き添われて病院にやって来た。当直のある夜、夜中の十二時を回ってからいつものように二人揃って顔を見せた。その夜の患者は女の方だった。朝からみぞおちが痛み出し、売薬の胃薬を飲んだが収まらず、夜中になると下腹まで痛くなってきたと訴えた。腹を触ると下腹部全体を痛がり、右の下腹が固く触れた。典型的な虫垂炎の所見だった。藤村は清に手術が必要なことを告げ、同意書にサインを求めた。清は金釘文字で堀田清と署名し、太い右親指で拇印をついた。女の苗字は清のものとは違っていたが、患者との関係の欄に清は夫と記入した。
 手術は深夜一時から始まり、一時間かかって終了した。藤村がベッドを押しながら外科病棟に戻ると、廊下のソファで清が一人ぽつんと座って待っていた。母親に待つように言われた小学生がその言いつけを素直に守っているみたいだった。手術が無事終わったと藤村が告げると、清の唇の左隅が無言のまま少し上がった。本当の所は判らないが、清が喜んでいる気がした。思い違いかもしれないが、助けてくれたことへの感謝の表れではないかと感じたのだ。ただそう感じて、信じただけだったが。

 注射を終えた清を見送ると藤村は椅子から立ち上がった。これでようやく家に帰れる。ブラインド越しに外を覗くと、どっぷりと暮れた闇の中、細い雨がしとしとと降り続いている。頼りなげな街灯の明かりに照らされて、雨に濡れたアスファルトが光っている。梅雨も終りだというのに、雨は一向に止む気配がなかった。この雨が上がれば、からりとした夏の陽射しが照りつけるはずだった。
 突然、空っぽの駐車場に車が一台入って来た。若い男が車から降り、乱暴にドアを閉めた。どうやら患者らしい。これでまた帰れなくなった。不幸にして藤村の予感は的中し、しばらくすると表紙だけの真新しいカルテが事務所から届けられた。
 溝口が名を呼ぶと、若い男が身体でドアを押し広げるように入ってきた。何も言わずに肥満気味の身体を診察室の丸椅子にどさりと下ろした。カルテに記載された二二歳という年齢の持つべき輝きは顔から消し去られ、目の下には黒ずんだ隈ができている。とろんとした男の目が藤村に向けられた。目の焦点が合っていない。診察室に緊張感が張りつめた。
「どうしました?」
藤村が尋ねた。
「腹が痛いんだよ。Pを打ってくれ。あれしか効かないんだ」
ぼうっとした目が藤村の顔に据えられている。
「まず、きちんと検査して腹痛の原因を調べないと注射はできないよ」
「病気は判ってる。慢性膵炎なんだ」
「どこで膵炎って診断してもらったの?」
「市民病院さ。三ヶ月入院してた。まだ痛いっていうのに無理やり放り出されたんだ」
「なるほど。膵炎の原因はアルコールかね」
「まあ、そんなとこだろ。毎日ボトル一本、空けてるから」
「どうして市民病院に行かなかったの?」
「注射してくれないからさ。もういいだろ。早く打ってくれよ」
「そうはいかない。まず診察だ」
ベッドに横になり腹を開けるように、藤村が指示した。男は無言のまま動こうとしない。男の虚ろな目に熱が籠って、きらりと光った。
「診察なんかいいんだよ。注射しろって」
「診察しないと、薬は出せないのよ」
溝口が後ろから加勢するように言った。
「診察なんかどうでもいいって言ってんだろ」
苛立ちを募らせながら、男が怒鳴った。
「怒鳴ることはないでしょ」
溝口が負けじと言い返す。
「苛つくんだよ。先生、早く注射してくれよ」
慢性膵炎の唯一の症状は腹痛だ。痛いからと多くの膵炎患者が鎮痛剤を欲しがり、しばらくすると薬物依存になった。
「今日だけでいいから、注射してくれよ」
男は執拗だった。このまま注射して引き取らせるのは簡単だ。だが、注射してもらえたとなると、必ずまたやって来るだろう。ここで踏ん張らなくては付け込まれるだけだ。
「駄目だよ」
静かに藤村が答えた。声とは裏腹に心臓はどくどくと高鳴っている。
「腹が痛いんだよ」
「駄目だ。打てない」
「糞ったれ」
男は立ち上がると、上から藤村を睨みつけた。眼には異様な光が満ちている。相手を威嚇しようとチンピラが見せる目つきだった。
「おい、注射しろって言うんだよ」
「できない」
藤村が突っぱねた。身体が強張り、口の中がからからになった。
「くそっ」
男は椅子を蹴飛ばすと、もう一度藤村を睨みつけてから出て行った。ドアが大きな音を立てて激しく閉じられた。一瞬部屋の空気が揺れ、すぐに静寂が戻った。心臓が高鳴り、動悸が続いている。思うように身体が動かなかった。しばらくしてから少しずつ力が抜けていった。
「怖かったあ。先生の顔、引きつってたよ」
溝口が声をかけた。
「参ったなあ」
ようやく手が自由になってきた。指先が細かく震えている。
 ほっとしたその時、ドアがまた開いた。凍りついた顔で溝口と藤村がドアを見つめた。オレンジ眼鏡の喘息持ちがのっそりと部屋に入ってきた。
「清さんか。びっくりさせないでよ。ああ驚いた」
溝口の声には反応せずに、清は何時ものように黙って椅子に腰を下ろした。
「また喘息が起こったの?」
藤村の質問に清が黙って頷いた。
「注射するわね」
指示を聞くまでもなく、溝口が清の注射薬のカクテルを始めた。何時もの夜間診察の、何時もの患者に藤村はほっと安堵した。
 
 清の注射が終わって着替えを済ませると、藤村は診察室を後にした。何時の間にか、時刻は九時を回っている。外は相変わらずの雨模様だった。受付で清が支払いをしていた。傍にはいつもの女が立っている。
 表に出た途端、藤村はいきなり胸座をつかまれて壁に押し付けられた。
「てめい、どうして注射をしないんだ」
口臭のきつい息が藤村の顔に吹きかけられた。さっきの薬物中毒だ。次の瞬間左の頬に強い衝撃を受け、後頭部がしこたま壁に叩きつけられて、がんという音がした。一瞬世界が明るく光り、すぐに真っ暗になった。
「おい、聞いてるんか」
頭の上から薬物中毒の声が聞こえた。殴られて後ろに倒れ、壁で頭を打って脳震盪を起こしたらしい。後頭部がずきずきと痛んだ。意識が戻ると目の前に薬物中毒の顔があった。口角に唾の沫が溜まっている。胸座をつかまれ、身体が前後に揺れた。
「こら」
突然、野太い男の声が響いた。身体の揺れが止まり、急に胸が楽になった。目を凝らすと暗闇で二人の人影がもみ合っている。ぼうっと浮かんだ人影は薬物中毒と清のようだ。清が薬物中毒の襟首をつかんで、引き離してくれたのだ。薬物中毒の右手が尻のポケットを弄り、何かを取り出した。手の中できらりと光った。ナイフだと気づいた瞬間、藤村の全身が凍りついた。
「清さん、危ない」
 藤村の叫び声に清が振り向いた。薬物中毒は両手でナイフを握って腰だめを作り、清のみぞおちに突き刺した。スローモーションのようにゆっくりとナイフを引き抜き、もう一度刺した。反射的に飛び出した藤村が薬物中毒に体当たりを食らわせた。遠くで女の悲鳴が聞こえた。薬物中毒は飛ばされ、もんどりうって倒れた。清は自分でナイフを引き抜くと、不思議なものを見るようにじっとナイフを見つめてから、どさりと膝から崩れ落ちた。清に駆け寄ると藤村は傷の上に手を当てて押さえつけ、清さんと大声で呼びかけた。だが、清からは何の反応もない。溝口の姿を認めた藤村が叫んだ。
「溝口、人を呼べ。手術室に運ぶ」
溝口が病院に駆け込み、ストレッチャーと共に事務員を連れて戻ってきた。皆で清をストレッチャーに載せるとそのまま手術室に運び込んだ。

 手術室に清を運び込むと、すぐに心電図の電極が胸に貼り付けられた。モニター画面に細かく震えるような波形が現れた。清の心臓はすでに止まりかかっていた。
「心臓にカテーテルを入れる」
藤村は麻酔も消毒もせずに、いきなり太い針を右の胸に突き刺した。注射器をゆっくりと押し進める。さっと黒い静脈血が引けてきた。針の中を通してカテーテルを心臓まで進めた。カテーテルから昇圧剤を全開で落とし、心臓マッサージを繰り返した。藤村の手の下で清のあばらがポキ、ポキと音をたてて折れた。清の呼吸が突然止まった。
「挿菅の用意」
溝口が慌てて気管に入れるチューブを用意する。心臓マッサージを溝口に代わってもらい、藤村は清の枕元に立った。顎を引き上げて保持し、人工呼吸用のマスクを当てる。バッグを揉むと清の胸が盛り上がった。藤村が二回空気を肺に送り込み、溝口が五回心臓を押す。二人で数回心肺蘇生を繰り返してから藤村が告げた。
「挿管する」
マスクを外し喉頭鏡で口をこじ開けて、チューブを気管に挿入した。チューブを麻酔器につなぎ人工呼吸を開始する。ナイフで傷ついた内臓が心配だったが、この状態では何もできない。何せ、心肺停止状態なのだ。
 藤村は採血して清の血液型を調べるように検査室に依頼し、輸血用の血液を病院中からかき集めろ、と指示した。
「先生、血だらけよ」
溝口に言われて服を見ると、清の血が飛んで胸の辺りが血だらけだった。きっと顔にも血がついているだろう。そう言う溝口の白衣も真っ赤に染まっている。清が刺されてから半時間が過ぎていた。溝口と代わり最後の望みを託して心臓マッサージを続けた。
 さらに三十分経ったところで、溝口と再び交代した。藤村が清の瞼をそっと指で広げて瞳孔を調べた。瞳孔に光はなくペンライトで照らしても、洞穴のような暗闇が広がっているばかりだった。脳死状態だった。十一時まで蘇生術を続けたが、状態は変わらない。何かできることはないか、もう一度よく考えてみたが、何も思い浮かばなかった。藤村は溝口に心臓マッサージを止めるように指示した。心電図の波形が一本の真っ直ぐな線になって流れていった。藤村は壁時計で時刻を確認し、二三時五分心停止、とカルテに記載した。清の身体はまだ温かかった。目の前に身体はあるが、もうここに清はいないのだ。

 翌朝は綺麗に晴れ上がった。清の司法解剖が行われる医大の法医学教室に藤村は出かけた。医学部の校舎の一番奥に司法解剖室はあった。校舎の回りには夏草が生い茂り、隣のグランドにまで広がっている。グランドの此処彼処には連日の雨で水溜りができていた。吹き抜ける初夏の風が優しく草を揺らしている。
 ストレッチャーに載せたまま遺体を道路から搬入できるように、解剖室にはゆるい傾斜のコンクリートのアプローチがつけられていた。そのアプローチの下に、白いバンが横付けされている。バンから少し離れた所で警官と思しき背広姿の男が数人、手持ち無沙汰の様子で煙草をふかしていた。
 藤村が解剖室に入ると、ゴム長の長靴に胸まで隠れる大きなエプロンをつけた中年の男が、ホースで水を撒いてブラシで床を擦っていた。解剖で飛び散る血がこびりつかないようにしているのだ。部屋の真ん中には大きなステンレス製の解剖台が置かれ、白い布で覆われた清の死体が物のように載せられていた。磨りガラスを通して入る陽光で部屋は明るかったが、それでもまだ足らないのか蛍光灯が灯され、無影灯にも光が入っていた。換気扇がブーンと大きな音を立てて回っている。窓の反対側には階段状の立見席が設けられていた。すでに十名ほどの医学生がぼそぼそと小声でなにやら話しながら、解剖の開始を待っている。
 藤村も学生の横に立ち、待つことにした。外にいた警官がどやどやと部屋に入って来て、学生の後ろの列に陣取った。しばらくすると白髪の法医学教授が白衣姿の若い助手を伴って入って来た。教授はすでに緑色の解剖衣に着替えている。白衣の助手が一番前の席で記録用紙を広げた。教授は解剖台の前に立つと、「黙祷」と声をかけ、静かに合掌した。見学者達もそれに倣って目を閉じ、手を合わせた。遺体の覆布が外されると、がっしりとした清の全裸の遺体が現れた。ナイフで刺されたみぞおちが黒く染まっている。
 教授はナイフの傷跡を確認するとゾンデを通して傷の方向を探ってから、一気に首下から骨盤までメスを入れた。肋骨がめりめりと音をたてて剥がされると、心嚢と肺が現れた。心臓を包む心嚢がドッジボールのように膨らんでいる。慣れた手つきで心嚢を切り開くと、真っ黒な血液がこぼれだした。教授が血液を柄杓ですくい取り、ゴム長の男が差し出すメスシリンダーで計量した。
 ナイフは心臓に達していた。みぞおちから突き上げるように刺したために、あばらには当たらず心臓に到達したのだ。刺されてすぐに心嚢に血液が溜まり、心臓は動かなくなっただろう。一瞬の内に脳への血流も途絶え、意識を消失したはずだ。苦しみを感じた時間はそう長くはなかったろう。 
 心嚢に溜まった血液の計量が終わると、心臓が摘出され、肺が取り出された。取り出された臓器は測りに掛けられて、重量が量られた。教授はもそもそと所見を呟きながら、解剖を続けている。最前列の助手が一言一句聞き逃さぬように、必死に所見を書き留めている。部屋には次第に血液と臓器の匂いが立ち込めだした。
 解剖は順調に進められ、腹部に手が入れられた。胃、小腸と消化管が外され、膵臓、肝臓、腎臓と内臓が次々に取り出されていく。後ろで見学していた警官の一人が、そっと席を外して出て行った。臓器が取り出されると、身体の中は空っぽになった。何もなくなった空間に紙ガーゼを詰めて、皮膚が縫い閉じられた。解剖は一時間ほどで終了した。

 藤村が外に出ると、先程出て行った警官が膝に手を当てて俯き、草むらに向かって嘔吐していた。仲間の警官が背中を擦っている。藤村は新鮮な空気を胸一杯に吸い込んで、臓物の匂いを肺から追い出そうとした。深く息を吸うと、微かに草の匂いがした。生きている草の匂いだった。草花さえ生命が宿っていると思うといとおしかった。生命とは何と美しく、儚いのだろう。冷え切った身体が太陽の陽射しで少しずつ暖められていく。明るい陽の光を浴び、艶やかに光る草を見ているうちに気分が落ち着いてきた。藤村は煙草を取り出し一服つけると、深く肺に吸い込んだ。鼻について取れなかった解剖室の匂いが、煙草の香りに打ち消されていく。
 解剖を終えた清の遺体が白い木棺に入れられて運び出されて来た。藤村は遺体がバンに載せられて走り去って行くのをじっと見送った。
「藤村先生ですか?」
突然、後ろから呼びかけられた。振り返ると、痩身の男が立っている。顔馴染の県警の刑事だった。
「ご無沙汰してます」
礼儀正しい刑事の挨拶に藤村も会釈を返した。
「古手の極道が一人、亡くなりましたなあ。まだ五六ですよ。あいつのことは若い頃から知ってましてねえ。暴れん坊で傷害や恐喝で三回ばかり捕まえました。ところで今回の事件で先生は目撃者っていうお立場です。ちょっとお話をお聞かせ願えませんか?」
「判りました」
刑事の申し出を了承し、藤村は刑事の車に向かって歩き出した。刑事が尋ねた。
「ところで先生、堀田とはどういう関係なんです?いや、随分一生懸命、治療に手を尽くされたって聞いたもんですから」
やくざは金だけで動く。暴行されている自分を見かね助けようとした清は、もはややくざではなかった。藤村は立ち止まってしばらく考えてから口を開いた。
「僕の患者で命の恩人です。過去のことは知りませんが」
そう言うと藤村はまた口を閉ざし、俯いたまま歩き始めた。

 

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