●NEXT (No.55)


 雪の降る季節。会社の窓から見える歩道には、傘を差した沢山の人が積もった雪の上を歩くのが小さく見える。何時だろうとこの街は賑やかで、私はうんざりしていた。
 夕方五時になったので。主任に軽く挨拶をし、帰路についた。
 雪に降られながら駅まで歩く。ちっぽけな劇場にある照明のような夕日が積もった雪を照らしていた。
 何も考えず電車に乗る。規則正しいリズムに揺られていると眠たくなる。そんな時は、席が空いていようと立ち上がり、ドアにもたれかかる。お気に入りのブリオーニのスーツに皺がいこうがかまわない。
 外に赤い光が見えた。ぽつぽつといろんな建物の光が入る。なぜか赤い光だけが気になる。いつもそうだ。赤は血を想像させる。この、のんびりとした空間でのその思考が、頭に蛆虫が湧いたかのように気分を悪くさせる。こんな時はいつも、乗客のほうへと目をやり観察する。すると気分が落ち着くのだ。
 辺りを軽く見回すと、座っている老人がこちらを見ているのに気が付いた。老婆のじっと見つめる、その遠慮のない視線が、さらに私の気分を悪化させ、いらつかせた。老人は臙脂色の着物をまとっていた。丁寧に整えられた白髪頭。顔はうっすらと化粧がされており、だが、よく見ると、無表情のしわがれた顔が、私を少し畏怖させた。老婆は声にならない声でつぶやいた。それはすぐには理解できない言葉だった。引き寄せられるように耳を傾けたとき、今までいたはずの乗客がいなくなっていることに気付いた。
 幻覚でも見ているのかと思い、焦ったが、走る電車の音と、外を流れる景色を見て、確かに現実だと確認した。混乱しそうにはなったものの、気にしないように努めた。老婆は不適な笑みを浮かべながら私に近づいてきた。ゆっくりとした足取りが、尚も私の恐怖をかき立てる。老婆がつぶやきながら私のすぐ近くまで来たとき、その言葉を理解した。それは、知るはずも無い、私の名前だった。
 私はこの老婆を知らない。初めて見る顔なのだ。慄然とした。得体の知れないその老婆から、逃げるように走り出した。他の車両へ移れば何とかなると思った。だが、どの車両にも他の乗客はいなかった。がらんとした電車内が、今日ほど恐ろしいと思ったことは無かった。
「助けてくれ」と心の中で何度も叫んだ。車掌の元へ行けば! いや、違う。この電車はいつもの線路の上を走っているのだ。車窓から見える風景がそれを証明している。それならば駅に止まるのを待てばいい。そう考えると、少し安心し、景色をゆっくりと眺める余裕も出来た。老婆の姿が見える気配も無い。シートに腰を下ろし、あの女性に思い当たる節が無いか、記憶のページをめくる。だが、それらしき記憶の断片すら見つからなかった。
 やがて、車掌の、あの独特の口調で停車駅が告げられた。深い、安堵の吐息が出て、しばらくすると駅に到着した。家から四駅も離れていたが、私は飛び出すように降りた。ホームには人は誰一人としていなかったが、気にはならなかった。笛の音が聞こえた後、走り出す電車を無為に見る。老婆がいた。光の漏れる車内から、私をじっと睨んでいるように見えた。私を見るその目は、殺意に似た憎しみが込められているように感じた。
 電車が視界から消える。私は立ち竦んでいた。言い知れぬ恐怖が、私をまた襲っていた。考えると錯乱しそうになる。目を瞑り、深く呼吸し、心を落ち着かせてから、ゆっくりと辺りを見回す。ただの静寂さえ不気味に感じた。時折吹く風は冷たく、あの老婆の、干からびた、体温を感じさせない肌を思い出させた。
 冷静になると、階段、改札へ何とか足を動かすことが出来た。改札口から出る。人がぽつぽつと目に入った。
 道路を挟んだ正面には、コンビニの明かりが煌々と点いており、中にいる数人の客達が、明かりに群がる蛾のように思え、滑稽でしかし、数秒眺めると、私も照明に引き寄せられた。その明るい粒子は、私にとっては安息をもたらしてくれる、暖炉に炊かれている火のようなものだったが。
 雑誌を立ち読みし、体が温まってきたのを実感すると、店を出た。歩いて帰ろうかとも思ったが、ここからだと、恐らく一時間ほどかかる。星を見る気にはなれなかったので、駅前に停まっているタクシーで帰ることにした。
 鍵を探すため、ポケットに手をやりつつ階段を登ると、ドアに何か挟まっているのに気がついた。取りあえず掴み、部屋へと入る。中は、少しだけ外の空気より暖かく感じた。だがそれで温まれるはずも無く、凍えたくない私は暖房をつけた。
 服を片付け、落ち着くと、ドアに挟まってあった紙の封を破り、中を見た。

 老婆と会ってしまいましたね

とだけ書かれていた。
とたんに、あの時の、脅えが蘇り、また、この手紙に対しても恐怖を覚えた。背後に誰かがいるような気配を感じ、振り返ったりもした。
 その時、静まり返っている部屋に、短い金属のぶつかる音が響いた。一瞬、息が止まりそうになった。その音は、ドアのポストに何かを入れた標だった。

 恐る恐るドアへと近づく。覗き穴から廊下を伺うが、何も映るものは無かった。ゆっくりとポストを開ける。いや、開けてはいけないような気がした。だが、開けなければ何も始まらないのだ。安心することさえ出来ない。
 鈍い金属のすれる音が、途切れ途切れに聞こえると蓋が開いた。

 中にあったもの----それは「手」だった。

 恐怖で押し潰されそうになった。切断されたものかと思ったが、誰かがポストに突っ込んでいることが分かった。すぐに自分の手を蓋から離そうとしたその時、ポストに入っている白い腕が私を掴んだ。その冷たさは人間のものとは思えなかった。自分でも聞いたことの無い悲鳴を上げ、地面に尻餅をついた。振りほどこうとしても、その白い手の力は尋常ではなく、私の腕をきつく握る。あまりの恐ろしさに、叫び、発狂し、ドアを何度も蹴る。
 手を掴む向こうにポストから覗き見る影があった。それは、一瞬で、あの老婆だと分かった。
じっとこちらを見つめるあの異様な眼差し。郵便受けの小さな隙間から見えるその目は暗く、虚ろで、だが、憎しみのようなものは、はっきりと感じ取れた。恥ずかしいことに、私はそこで失神してしまった。
 目が覚めたのは陽も昇った時だった。夢の中でも聞こえた固定電話の気障りな音で起こされる。昨日のことも思い出さないまま電話を取った。それは会社からで、既に二時間も遅刻していた私を叱責するものだった。背中が重く、風邪の前兆のような疲労感があったので、休むと言った。愛想の無い返事が返ってきた。だが、どうでもよかった。
 テレビをつけ、少しのんびりとすると昨日の出来事を思い出した。
「一体……何なんだ……」そう呟く。ふと、あることが疑問になった。
老婆と会ってしまいましたね。というあの手紙、あれは何を意味しているのだろう。宛名も差出人の名前も無いそれは、老婆が入れたものではないはずだ。あの老婆にそんな人間じみたことが出来るとは思えない。ならば、一体誰が……
 私は手紙を入れた人物と接触する必要があると考えた。こちらから探さずとも、また何らかの行動があるはずだ。手紙を入れてきたのだから。早く会いたい。私を老婆の呪縛から解放してくれ。そう願った。
 昨日の電車での出来事を思い出す。乗客がいきなり消えたように感じた。あれは何だったのだろうか。普段から、あの時刻のあの地域、決して満員というわけではないが数人は座っている。ほかの車両は知らない。最初からいなかっただけなのだろうか……電車での出来事は私が気付かなかっただけだ。と考えることにした。
 部屋で何もすることが無いというのは苦痛だ。しばらくすると、呼び鈴が二回鳴った。手紙を入れた主だと期待した。覗き穴から確認したが何も見えなかった。用心しつつドアを開ける。しかし、廊下には誰の姿も無かった。ただ、一枚の紙切れが落ちているだけだった。もしやと思い、すぐに拾う。鼓動が速くなるのが分かった。部屋に戻り、封を切る。中から出てきたものは手紙……それにはこう書いてあった。

  老婆の恐怖から逃れることは出来ない。やがて来るのは自身の死。私には老婆が見える。だが、老婆は私には無害だ。
  老婆に殺された者は五人。正確には、老婆に呪い殺されたのだ。あなたも殺されるだろう。だが、私は知っている。逃れる術を。
  一握の光明があなたに射してきた。あなたは助かるかもしれないし、助からないかもしれない。私はあなたに直接会うことは出来ない。
  信じる信じないはあなたの自由だ。もし、信用し、死にたくないと願うのなら、明日の午前二時に駅前の電話ボックスに来るがいい。

 どういう事だこれは? 呪いなんてあるはずも無い。馬鹿げた話だ。と思いたかった。しかし、現実に起きているのだ。私の目の前で老婆が微笑んだのだ。信用するしかない。これにすがるしかないのだ。 
 時計を見た。二時まで十四時間もある。どうやって時間を潰そうかと思ったその時、ふと脳裏にある疑念が沸きあがった。
 何故、深夜を指定したんだ? これは何かの演出なのか? それに、五人死んだだと? こいつは何か企んでいるんじゃあないのか? と。真っ先に考えたのが、霊感のあるタチの悪い空き巣。老婆が見えるのをいい事に、呼び出し、部屋を物色する。次に、怪しさをわざと醸し出し、高価なインチキ除霊グッズでも売りつける。三つ目が、こいつ自身が仕組んだ大掛かりな悪戯……ありえないな。自分自身を嘲笑した。私は軽率ではない。慎重だ。空き巣というのが、くだらないが、最も厄介だな。これは友人に待機してもらえばいい。そう思った。
 私はこれが最悪の結果を招くことになるとは、この時、知る由も無かった。
 友人の高橋に早速電話をした。彼はフリーのしがないカメラマンで時間はたっぷりとあった。訳を話すと「いいだろう。家に待機ってのはつまらなそうだが、行ってやるよ」と言ってくれた。「最も、俺が望むのは一波乱だぜ? 心霊写真でも撮れりゃあいいな」と付け足したが。
 本当は一人で電話ボックスに行きたくなかった。高橋と行きたかった。深夜二時の電話ボックスなど霊の溜まり場じゃないのか? と、信じていなかった霊を頭のどこかで認め始めていた。他の友人は生真面目な奴ばかりで、この話を信じないだろうし、深夜に出歩くことは無いとわかっていた。鼻で笑われるとも思った。
 外に出ると、辺りには白い雪が積もっていた。ふんわりとした綿でほんのりと化粧をほどこした景色は心に暖かさを運んだ。地面には幾つもの足跡が化粧に悪戯をし、黒い地肌を所々覗かさせた。
 コンビニに行き、護身用にとちゃちなカッターナイフを購入した。
 家に付き、ナイフをまじまじと眺めた。なんの気休めにもならないなと自嘲した。やることも無かったのでしばらく眠る事にした。こういう状況になると北枕かどうかも確かめてしまう。問題は無かった。ゆっくりと目を閉じると、暗い瞼の裏では老婆が笑っているようにさえ思えた。
 目を覚ましたのは二十三時だった。高橋に早く来てくれと電話をした。ふと電気ポットのランプの光が目に入った。赤い色。あの老婆にも赤い血が流れているのだろうか。もし、チャンスがあればカッターナイフで軽く傷つけてみようと思った。無論、恐怖で身が竦まなければの話だが……軽くといわずに、確実に切り刻んでやる。私の心に殺意のようなものが芽生えた。
 二時間後ようやく高橋がやってきた。中には仕事で使う一眼レフのカメラが入っているだろう大きな鞄を抱え、私の心境など知ったことかという様な表情で「よう」と挨拶した。右手に握り締めているカッターナイフを見ると、「なにしてんだ?」と不思議そうに言った。ナイフを持ったままドアを開ければ誰でもそう思うだろう。私は「これで切り刻んでやるのさ。あの老婆をな」と言うと高橋は「子供かよ」そう嘲笑した。確かにちゃち過ぎたかもしれない。仕方ないので、後で包丁でも買う事にした。「俺はな、老婆の写真を撮るぜ。飯の種にはならんがな。自己満足さ」「そんなことばっかりしてるから売れないんだよ」「それは言うなよ」高橋は笑っていた。「手紙を見てくれないか? これなんだが」そう言って手渡した。黙って目を通す高橋。床に座りこみ、辺りを見回し、一人呟いていた。「どう思う?」「なにが?」「まあいいか。じゃあ、もう行くことにするよ。後は頼んだぞ」と言うと「ああ、気をつけてな」と愛想の無い返事が返ってきた。高橋の頭の中は、もう、写真のことで一杯なのだろう。
 ひっそりとしたコンビにで包丁を探したが見つからなかった。武器になるようなものが無いか探すと、先の長い千枚通しを見つけた。これで刺すことも出来るな。そう考え、購入した。電話ボックスに出てこい……目にもの見せてやる。二時まであと三十分だ。私は急いで電話ボックスへと向かった。辺りには冷たい風が、これから起こる恐怖から逃げるかのように吹いていた。
 駅の薄明かりと電話ボックスの放つ光が、辺りを照らしている。月はおぼろに見え、流れる雲間からほんの少し光を分けてくれていた。辺りに人影はなく、ただひっそりとしており、自分の足音だけが響く。風の音も、遠くを走る車の音さえもない無音の静寂が恐怖をかき立てる。時刻は一時五十分。電話ボックスから少し離れ、様子を探る。息を飲み、じっと睨み続ける。時間を確認すると、二分前だった。
 電話ボックスへと近づき、ドアを開ける。その音さえ不気味で、弱犬のようにびくつく自分に、少し苛ついた。
 電話自体はどこにでもある普通の物で、怪しさは何ひとつなく、側面にある落書きも相合傘というどこにでも見るものだった。ボックスの中で電話をチェックしていると、不意をつくようにベルが鳴った。だが、不意をつかれたと言っても、これを待っていたのだ。受話器をとればいい。恐る恐る受話器に手をやる。掴み、持ち上げようとしたその瞬間、電話ボックスが、何かがぶつかったような衝撃の鈍い音とともに揺れた。はっと前を窺う。何もない。鳴り続けるベル。左右にも何も変わったことはなかった。ベルは鳴ることをやめない。あとは後方だった……
「駄目だ! 見てはいけない!」そう自分に言い聞かせた。すると、また鈍い音が響く。まるで誰かが呼んでいるかのような単調なリズムで、ガラスを叩いている風に思えた。
ベルと叩く音が入り混じり、脳を掻き乱す。
「駄目だ……駄目だ……駄目だ……老婆が……老婆……そうだ……私は……老婆を刺してやるんだった」
 千枚通しのことを思い出し、受話器から手を離すと、すぐに取り出した。電話のベルが頭の隅で鳴る中、私は振り返った。視界に入ったのはガラス一面に飛び散った血で、その量はおびただしく、外を窺うことが出来ないほどだった。その光景に、思わず小さな悲鳴がでる。慌てて扉を開け、飛び出そうとしたが、何かに遮られ、開けることが出来ない。密室に閉じ込められたと危機を感じ、半狂乱に陥る。その時、鳴り止んでいなかったベルの音に気付き、すぐに受話器をあげる。
「た、助けてくれ! 閉じ込められた! あんたが誰かは知らないが、とにかくすぐ来てくれ!」
 一方的に叫んだ。返事は無かった。なにやら遠くに聞こえる電話の声は、ノイズがひどく、内容まではすぐに理解できなかった。徐々にノイズが消えてゆく、やがて聞こえてきたのは男の悲鳴だった。何かを切っているのだろうか、骨に刃が当たっているかのような鈍い音のようにさえ思えた。
「これは……まさか……高橋か……」
 思わず受話器を手放す。頭を抱え塞ぎ込む。ガラスは、また叩かれだした。どうすることも出来ず、私はパニックのままふと、上を見てしまったのだ。そこには、私の家にいるはずの高橋の首が狂気の表情でへばりつき、私をじっと睨んでいた。
 私は、悲鳴をあげた。ガラスが震え、自分の鼓膜が破れるかと思うほど叫んだ。生ぬるいものが顔を流れる感覚。高橋の血。鮮血に塗れ、口に入り込んだ血の味が、これは現実のことだと思わせる。その時、焦る私の横目に映った者――ガラスに両手をべっとりと貼り付け、顔を覗かせる老婆。瞬間、私はガラスを力一杯殴りつけ、穴を開けた。割れたガラスで手を裂いたが、その痛みはなく、そして、もう一度放った拳が老婆の顔面を捉えた。効果のほども確かめず、老婆を睨み、ガラスを蹴破り怒号をあげながら脱出を図る。赤く染まった私の体は、生ぬるい血の温度を感じとっていた。ボックスから飛び出ると、すぐさま老婆の首に手を当てた。表情もなく死んでいるような老婆の顔。抵抗もせず、私の目を覗いている。力を込め首を絞めた。次第に老婆の表情は緩み、目尻が垂れ、死者の微笑を見せた。暗い世界に溶け込む白い老婆の薄笑い。さらに力を込めると、老婆はゆっくりと目を閉じ、口元を緩ませたまま地面に倒れ込んだ。その時、電話が鳴った。はっと緊張が奔る。倒れている老婆を一瞥し、男からの電話だと確信した。すぐに受話器をとる。
「もしもし! もしもし!」「こんばんは。遅くなりました」
 低い男の声。だが、人間の体温を感じる事が出来た。
「何も話さなくていい。全て承知しています。すぐにそこから逃げた方がいい。恐ろしい事が、今までにない恐ろしい事が起ころうとしている」
「え? なんですって?」「逃げるんだ」男はそれ以上話さなかった。私は何も分からないまま、とにかくこの場から離れようとした。電話ボックスから出ようと振り向くと、眼前に老婆が立っていた。
 一瞬硬直する自分。
老婆はうつむきながら目だけを私に力強く向け、両の手を伸ばし、私の首を絞めた。雪のように白く冷たい手は私の思考を凍らせるように奪っていく。老婆の後ろには高橋が立っているように見えた。やがて意識は消失してゆき、世界は雪景色のように真っ白になっていった。

 

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