●NEXT(No.57)



 俺は不眠症に悩まされていた。
 子供の頃はさすがにそうでもなかったのだが、どうも受験勉強で無理をしたのがたたったらしい。
 しかし努力というのは損にはならないもので、俺は三十を過ぎてそれなりの財産を築き、美しい妻と素直な子供に恵まれている。不況な中でも俺のつくりあげた会社は堅実な利益を上げ、俺は半隠居状態だ。幸せな生活というべきだろう。
 だが、不眠症だけが俺をいまだに悩ませている。症状はかなり深刻だ。仕事でくたくたに疲れた夜でも、ベッドに横になって二時間は眠りにつくことが出来ない。温かいミルクを飲んだり、癒し系CDを二、三枚かけ、頭の中で羊の大農場を毎日築き上げて、やっと眠ることができるのだ。
 数多くの医者に診てもらい、数多くの薬を試し、また民間療法やらまじないの類にまで手を出したが、どれも気休めに過ぎなかった。
 毎日、睡眠時間は三時間にも満たない。人間とはたいしたもので、それでも体を壊すようなことはなかった。確かに、偉人にもろくに睡眠時間がなかった人は多いようだし、命にかかわる問題ではないのだろう。それでも俺は、ぐっすりとした眠り、爽快な目覚めというものにずっとあこがれていた。
 不治の病のようなもので、この不眠症は死ぬまで俺を悩ませることだろう。しかし、一日でもいい。心休まる、自然に深く沈みこんでいくような心地よい眠りを味わいたかった。
 それは憧れを越え、ほとんどの幸せを手に入れた俺の唯一の熱望となっていった。
 そんなある日、俺は地元のTKハンズの寝具コーナー・枕売り場をうろついていた。安眠についての努力は諦め半分ながらも怠ることはない。よい枕と出会うことで、不眠症が解消されないとも限らないからだ。万が一にしてもその可能性は捨て切れなかった。
 枕というもの、馬鹿にしてはいけない。俺の枕選びは真剣であり、きっと枕に対しての知識は枕メーカの下手な営業より豊富なはずだ。
 まず、枕の中に入っている素材。日本古来のそばがら、やわらかな羽根、頭の形にしっくりフィットする低反発ウレタン、水やジェル素材もある。しかしどれも一長一短であり、吸水性・香り・通気性・フィット感とも満点の素材にはまだ出会えていない。
 また形にもいろいろある。普通よくみられる長方形のもの、中心に穴が開いているドーナツ状のもの、首を支えるところが滑らかな曲面になっているウェーブ状のものなど。枕といってもさまざまなのだ。
 そこで俺は新発売らしいパウダービーズを使った枕の感触を確かめるべく、展示品に頭をぐにぐにと押し当てていると、声をかけられた。
「おぬし、枕に対して並々ならぬ執着を持つとみた」
 俺がその声のほうを向くと、頭から黒いローブをかぶった姿があった。ローブは顔を影にして、容貌をうかがえない。しわが深く刻まれた口もとだけが見えた。しわがれた声だけでは、男か女かさえわからない。
「パーティグッズ売り場なら三階ですよ」
 俺はそう老人に言うと、ふたたびパウダービーズ枕に頭をうずめた。確かにこうやっていると気持ちはいいが、果たしてそれが眠りに繋がるかというと別問題だ。おおむね、柔らかい枕というものは通気性や吸水性がいまひとつで、爽やかさに欠ける。
「これはパーティの変装ではない」
 どうもまだ老人はいたらしい。こっちは枕選びに一生懸命なのだ。
「あんた、向かいのファッションビルの一階に座ってる人でしょう。こんなところで油売ってないで、さっさとOLのどろどろした不倫話や有閑マダムの息子の相談でも聞いてきたらどうです」
「わしは占い師でもない。せっかちな男だな。とにかく話を聞くのだ。聞かねばならん。さあ耳をかっぽじって聞け」
「あんたのほうがよっぽどせっかちじゃないか」
「おぬしにとって有益な話なのだ。この世の中に不思議な力をもつ枕があるという話を聞きたくはないかね? ぐっすりとした眠りを味わいたくはないかね?」
 にぃ、と老人の口が横に伸びた。
 俺はこのうさんくさい老人の話を聞くことにした。喫茶店に移動する。立ち話もなんなので、というよりはいつまでも枕売り場で周囲の目にさらされるのに耐えられなかったからだ。
 老人はミックスジュースをじゅびじゅびと嫌な音をたてて飲み干すと話し始めた。
 いわく、この世には二十二の不思議な枕が存在するという。その枕はそれぞれに違った不思議な力を持っていて、悪用されると危険なため、老人がすべてを自分の手元において管理していたという。
「二十二ってのはまた中途半端な数じゃないですかね」
「そんなことはない。あんたタロットを知ってるかね? 主要なカードは大アルカナと呼ばれるが、あれは二十二枚だ。アレフで始まりタウで終わるヘブライのアルファベットは二十二文字であるし」
「あ、わかりました。納得しました。すいません、話を続けてください」
 少しいらぬ突っ込みをいれると、こんな風にものすごい切り返しが来るので、しばらく素直にうなずいて話を促した。
「しかしある日、その枕たちが消失していたのだ」
 すべてが無くなっていたわけではなかったが、二十二個のほとんどが老人のもとから姿を消していたという。
「泥棒、ですかね」
「その可能性もあるが、見た目は普通に枕なのだ。もっとも、それが特別なものだと知っていれば別だが、秘中の秘であるからしてそれもないと思っている。むしろ、枕たちが自分で出て行ったのではないかと思う」
「自分で? 枕が意思をもっているのですか?」
「最近、干してやらなかったのがまずかったのかもしれん」
 そんな問題なのか。初めから怪しいと思って聞いていたが、枕が自分で家出をしたとなっては信憑性もなにもあったものではない。そんな俺の表情を見抜いたのか、老人はひとつの枕を取り出した。
「これは、残っていた中のひとつだ。すぐには信じられぬ話だと思うから、これをお主に貸す。試してみれば、すぐにわしの言ったことを信じてもらえるだろう」
「どこから出したんですか」
「細かいことは気にするな。これは『お先まくら』という。これで眠れば、死にたくなるほど絶望的な夢が見られる」
 駄洒落かよ。
 とにかく俺はそのドラえもん道具的ネーミングの枕を携えて家路に着いた。
 その夜、実際にその「お先まくら」を試したわけである。
 一見は百聞にという言葉もあるが、実際にその枕で眠ってみて(やはり寝入るまでにはいつものように苦労をしたが)、老人の言葉が正しいことがはっきりした。
 ドラム缶いっぱいのゴマをすべて間違いなく数えろと銃を構えた白装束の男たちに脅されたりさんざんの夢だった。思い出すだに不快だ。
 そんなことはどうでもいい。この分なら、俺が心地よく眠ることの出来る枕がその二十二の中にあるかもしれないではないか。俺は「お先まくら」を抱えて、ふたたびTKハンズの枕売り場へ走った。
 俺の期待を裏切らず老人はそこで待っていた。俺の上気した顔に、老人は予想通りといった満足そうな態度だった。
「では、枕を探していただけるかね」
 俺は喜んで、と答えた。
 それから俺は枕探しに情熱を傾けた。多くの情報をさまざまなルートで手に入れ、西へ東へ奔走した。蓄えた財も大きく放出した。いろんな国へ行った。チベットの高山を登り、陽炎もうもうたるサバンナを走り、南極の氷を犬ぞりで駆けた。安らかな眠りを手に入れられるなら、こんなものは屁でもない。
 アメリカでは冒険野郎な夢を見られる「まくらいばー」、モナコGPの会場でマッハの夢を見られる「まくらーれん」、精神的な迷宮に陥る「どぐら・まくら」、この上なくだらけた気分になる「なまくら」、アイドル気分になれる「まくーらあや」などを、俺は次々と発見していった。
 そのたびに俺は役得として、その不思議な効果を実感してみた。確かにどれも特別な眠りを提供してくれたが、俺の望む安らかな眠りにはほど遠かった。
 枕探しを始めて、三年。老人のもとに残っていた枕を含めて、二十二個目の枕、「やまくら」を巨人軍控え室で見つけることができた。
 しかし、この枕も打率の普段低い男が意外なときに満塁ホームランを打つ、という非常に特異性の高い夢を見せてくれるだけで、俺の望むものではなかった。
 俺は失意のうちに、TKハンズの枕売り場へ、発見した枕たちを抱えて向かった。
「おお、おお、よくぞやってくださった」
 俺の沈んだ表情とは裏腹に、老人は上機嫌だった。自分が決めたことだから老人を責めるのも筋違いだとわかっているが、恨みがましい言葉も出ようというものだ。
「でも、どれもろくなものじゃなかったですよ。少なくとも、安眠を望む俺にとっては」
「まだ諦めるのは早いぞ」
 老人はくふくふ、と含み笑いをすると、言葉を続けた。
「枕を集めてきたおぬしになら、二十三個目の不思議な枕を見つけることが出来るだろう。近くにありすぎてわからない最高の枕を」
 それは、存在自体は特別なものではないらしい。俺の家にも必ずあるはずだから、とにかく家に帰ってみろと老人は言った。
 俺はしばらく留守にしていた家に戻った。あまり変わりない嫁と、大きくなった子供たちは俺を迎えてくれたが、俺は老人の言葉が気になって、休む暇も惜しんで家捜しをした。押入れから縁の下、下水槽、タンスの裏に至るまであらゆる場所を探してみたが、見つかったのは息子が隠していたエロ本ぐらいのものだった。
 旅の疲れもあいまって、俺はくたくただった。しかもそこに俺の望む安眠は手に入れることが出来なかったという徒労感が、水にぬれたコートのごとく俺にのしかかかった。
 風呂に入る。それでも疲れは取れない。旅の垢を落としてからベッドに入ってみるが、やはり寝付くことが出来ない。嫁が心配そうに俺を見つめている。
「あ、あなた、すごい耳垢」
 ベッドから起き上がって動物園の熊のようにうろうろする俺を、嫁が捕まえた。
「ずっと耳掃除なんかしかったんでしょう。あなた、昔からひとつのことにのめりこむと身の回りのことがそんなだから。はい、ここに頭を乗せて」
 言われるがままに、俺は耳を嫁に向けて横になった。




「む!」
 俺は飛び起きた。
「あ、やっと起きたんですか。ころっと眠りこんじゃって」
「俺は、寝ていたのか? いつの間に!?」
 見つけたぞ! 二十三個目の枕! ひざまくら!

 

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