●NEXT(No.68)


  私が貴女をサカナと呼びましたその日から、貴女はいっさいの瞬きをなさらなくなりました。ですから譬えば、私が暴雨の吹き降る晩に重たくはためく幟のごとくに尾びれを煽ります貴女を無理やりにおさえつけ、潮水にまみれておられます貴女の御耳の片側に優しく口づけしますときに、そっと耳たぶに歯を立てましても、貴女はまるで水気のとんだ塩の結晶のような細やかな前歯と糸切り歯の隙目から空気のあぶくをあふれさせますだけで、何もおっしゃいませんし、そもそも御耳がどこにあるのかもわかりません。薄暗い部屋にときおり青白く鱗が明滅し、貴女が身じろぎます折々に湿った布を机に叩きつけたときさながらのきびしい音が現れては消えます。そして水と脂の混ざりましたような匂いのかたまりが、ゆるやかに揺れ動くだけなのです。
 貴女の焦点のお合いになりません御目は、私を見ることをしません。小さくつぶらかな黒目と、私の知人のどなたよりも白い色をしたその白目に爪楊枝を刺したときの音を聴いてみたくもあります。貴女の鼻はのっぺりと前方に突き出して原人かゴリラのようです。思わず私は貴女の鈍く光り滑りのよい長い鼻の下を撫でてしまいます。
 私には貴女がどうしてそう従順なのかがよくわかりません。貴女の透き通る背びれに私が鋏をいれましたときも、貴女は苦痛に眉間を歪ませることもなさらず、驚きの表情すらお見せになりませんでした。切符切りの鋏で尾びれに小指大の穴をあけましたときにも、貴女は御口をひらいたままおし黙って、私の手をすり抜けようともなさいませんでした。
 ですからおそらくこれは私と貴女の共犯です。私は貴女が私の申しあげますままにひれ伏すことを求めますし、貴女は私に束縛られることを望んでおられましょう。
 そういう類のサカナを捕まえた私はとても幸運です。そういう類のサカナを私が捕まえたのはとても幸福なことでしたと申すこともできます。そういう類のサカナを捕まえたときの私はとても運がよかったという申しあげ方ももちろんできますし、そういう類のサカナを捕まえることができたときの私はとても運気がよかったとも申せます。
 今日も私は貴女を引越しの荷造りの紐で縛りあげるのです。御口から尾びれの方向へ、横に。なだらかな流線を描きます躯のラインを切り裂くように、縦へ。そうしますと貴女は全身をうち震わせて歓びわななきますので、私は貴女の御口に唇を重ね合わせます。
 私の乾いた上唇が尖鋭な貴女の御歯にひっかかります。そっと唇を離しますと、貴女の下前歯にはがれた私の茶色い唇の皮が残ります。貴女のおとがいに溜まった塩気が、私の唇の皮からさらに水分を奪っていくような気がしてまいります。
 柔順な貴女の素肌はほの白く、処女の透明さで私の愛撫にこたえます。薄青い下腹のところの結び目から一息に縦紐と横紐の交わるあごのあたりまで撫であげますと、たまらず貴女はくすぐりの恍惚に御口とえらの根本からみなぎった気泡をおこぼしになるのです。
 貴女の御両目は視点のお定まりになることがございませんので、私は貴女の視野の外側でいくらかの嘘をつきます。それとも二三の隠し立てと申しましたほうが適当でございましょうか。貴女はご存知でしたか、実を申しますと、私のサカナは貴女だけではございません。薄闇の内ただ今貴女の横たわっておられます寝具の真下、そして部屋の出入口の脇にございます押入れの奥に、私は小ザカナを育んでおります。素通しの円柱の容器に淡水を張りまして、人差し指大のぬらぬらと滑っこい子供のサカナを大勢もっております。私が水面に手を近づけますと、彼女たちは貴女と対照的な無邪気さで、私の指や掌を歯の生えておりません口唇で舐めあげてくれるのです。   
 それは私にとっての慰みです。貴女がお休みになられていますその合間に、もしくは貴女の無抵抗な順流さに私が飽き足らず感じました折に、私は暗所に押しこめられ生臭くなりました円筒の水槽を引き出してまいりましては、小ザカナを弄んで果てるのです。
 貴女にとってこの私の告白は少なからずの衝撃でございましょうか。譬えばもし貴女が夜驚症の乳飲み子のように涙叫し私にすがりついていらっしゃいましたら、どんなにかよいでしょう。ですが夏の終わりの羽虫さながらに感情も痛覚さえも弱まっておられます貴女は、わずかに御口の形を変えますのみで、そもそも私の話をお聴きになっておられましたのかも危うくいらっしゃいます。
 今この瞬間も私は、貴女の能動という言葉を微塵も与えられないほどの生真面目な御忠節さ加減に、苛立っております。貴女のうつろな御目と、阿呆のようにひらいていらっしゃる御口を拝見しますたびごとに、腹の底が煮えてまいります。躯の側面から細かく吹き出ていらっしゃいます泡は、怯えの印でございましょうか。それにしても貴女は静かでいらっしゃいますね。鼻にまとわりつくような脂と潮の匂いにもむかむかいたします。
 私は小用を足しに行ってまいります。貴女は普段なさっていますとおりに、縛られたままここで御用をお足しになるのがよろしいでしょう。
 用足しから戻りました私が目にいたしましたのは、水浸しで床や寝具の濡れました部屋と、灰色の腹を見せそこここで仰向けになって動かずにおります大勢の小ザカナたちでした。まるで死んだ魚市場のようです。淡水と潮水の間を縫いまして脂と奇妙に血の匂いが漂っております。軽く息を吸いこみますと、塩を含んだ飛沫が私の舌先に張りついてまいります。貴女のいらっしゃいましたベッドには、貴女の御姿の代わりに、荷縛りの紐が赤く染まって投げ出されております。結び目が複雑に絡まり合って、細長い類のサカナのようにも見えます。
 私は貴女を捜します。押入れの扉が貴女の躯の太さにひらいてそこから牝サカナの塩辛い香が重く滑り出しております。焦らすようにゆっくりと扉を僅かにだけあけまして、私は右腕を差し入れます。指先が湿った貴女の鱗に触れました。貴女は初めて私の手から逃れようと奥へひれを煽らせます。飛び散った血と潮が私の二の腕や顔にかかってまいります。私の口にまで貴女の塩水が届き、唇に染みいりましてひりつき、私は慌てて上唇を舐めました。辛くて苦い味がいたします。
 ですがそれは全くもって無駄な抗いでした。
 小指大の穴があいておられます貴女の尾をつかませていただいた私は、貴女を押入れの奥から引きずり出し、小ザカナたちの死骸の絨毯が敷き詰められました床へ叩きつけます。貴女はもう無抵抗でいらっしゃいました。
 寝台の枕元から鈍く光りますナイフを取りまして私は、小骨を突つきやすいよう貴女を滑らかな躯のラインに沿ってひらきます。切り口から潮水に混じって汚れた血液が色を失ってにじんでおられます。ひらかれた貴女はまるで脊椎が剥き出しの平たい深海魚です。七厘の網の上に載せられました貴女は、私に食塩を振りかけられました。私は着火器で炭に火をつけます。
 ぱちぱちと祝福の拍手のような音が湧きました。白く濃い煙が立ち昇ってまいりまして、醤油の瓶を手にした私は焼けて行きます貴女のために涙を流します。貴女の躯から水分が消失し貴女の御下前歯にひっかかり残っております私の唇の皮とともに貴女が焼かれた類のサカナになっていらっしゃいますのを、私は片手で大根をすりおろしながら飽きもせずに眺めております。

 

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