●NEXT(No.69)


 手許の携帯電話を覗き込んでみると、午前の0時13分。日にちは変わって、8日はもう昨日。今日はすっかり、金曜日だってさ。
「は〜、ああ……」
 わざとらしく大きな声をあげて口を開けて僕は、モニターを前に座ったまま大袈裟な背伸びをしてみせる。見せたのは、画面一杯に広がって真っ白な『新規テキスト.txt』に対して、だ。
 テキスト上のカーソルは、一番左上の定位置で規則的な明滅を繰り返しているだけで、いつまで経ってもその空白に文章は何一つ生まれてこない生まれない。ままに、時間だけは無駄に過ぎていき、今日も今日とて僕はまた、一時間以上もの間、無駄に、こうしてここに居るわけだ。無駄に。
「は〜……──あ、んッ!」
 と、本日二度目のむなしすぎる存在証明を表現しかけていた僕の、耳というか神経というべきか、結局のところ身体全体は、けたたましく鳴ってすぐに止んだ『アゲハ蝶』に必要以上の反応を示し、我ながら現金にも一瞬で、僕の頭は冴えてしまった。あくびももはや、びゅーんッとばかりに山二つ向こう。この、姉ちゃん指定の着信音は、姉ちゃんと僕共通のお気に入りで、僕と姉ちゃんとを結び付けてくれたきっかけになった歌だった。
『何? これ。なぞなぞ?』
 メールを開いて出てきたメッセージはたったの一言。簡潔なのは、向こうに暇のある証拠だった。もうすぐ三年目突入のお付き合い歴は、伊達じゃない。時間のないときは、今回みたいに十時間以上もの間ずっと返信が来なかったり、疲れているときは文章を長くして完結させたメールを、文末にオヤスミを付け加えて送ってきたりするのが、自称「働きまくりで、もう偉すぎッ」の姉ちゃんのメールだった。つまり、今しばらくは、メールのやり取りなんて出来る余裕があるってわけだ、体力的にも時間的にも。
 僕はすぐさまパソコンのメーラーを立ち上げて、キーを打つ。理由はもちろん、携帯なんかよりかも数倍、こっちの方が素早く文章を作り出せるからだ。それに──ちょっとした下心も少々。
『キイワードだよ。その三つを入れてお話を作らないといけないんだ。で。姉ちゃんは何、連想した?』
 メールを送信してから。僕はごくごく自然に姉ちゃんを思い浮かべる。僕より6つも年上の姉ちゃん。……て、初めに頭に浮かんだ事が、年の差だなんて。僕はまったく、相変わらずだ。
 群馬──東京という微妙な遠距離で、どう頑張ってみても会えるのは月に三度が限界。従姉弟といった間柄からか、妙に慎重な姉ちゃんは、口では偉く過激な台詞を言うくせに、僕はハタチをすぐ目の前にしてキスよりも先をいまだ知らないでいた。ばかりか、僕の知っているキスは、唇と唇とを押し付け合うだけの単純なものだけだ。普通に大学に通っている元クラスメートたちと違って、「ヤリたい、ヤリたい」騒ぐつもりもないけれど──、
「は〜あ〜……」
 ──ため息。
 僕は、いつになったら姉ちゃんに一人前の男として、認めてもらえるんだろうか。と、そこで。『アゲハ蝶』が鳴った。あまりにもなタイミングに、僕は、姉ちゃんのてのひらの上にでも居るような気分で携帯を開いた。もしくは、お尻の下。
『お、パソからのメール。頑張ってる最中ってわけね。っとね〜。「祐二」かな。最初に連想したのは。祐二は? 何も思い浮かばなかったの?』
 電話で話すときよりかも、実際に顔を向かい合わせて居るときよりかも、なんでかいつも優しい口調の姉ちゃんのメール。僕は、ゆっくりと一度まぶたを閉じて、開いた。それからもう一度、携帯の液晶を見た。当たり前だけれど、そこに映っている文章は、数秒前と何一つ変わってなんていなかった。
『なんで僕なの?』
 僕は、少しだけ、時間を使ってメールを返した。手許のキーボードを見ていなくとも、モニターを見ていなくとも、僕の指先は正確に僕の思いをつづってくれていた。ただ、送信ボタンをクリックするのに、少しだけ、時間が要った。
「田所祐二」──僕の名前。それは、三つのキイワードを目にして、僕が一番最初に思い浮かべた単語だった。
『23』──年齢。23歳。僕のクラスメートたちが大学を卒業して、社会に出る年齢。全て順調に、ストレートで通れば22歳がその年齢なのだけれど、一浪、もしくは留年一度が、僕の中の常識で許される範囲内の足踏みの限度なのだ。つまり、最低でも23歳までに。僕でいうならあと3年。それが、大学へも行かず就職もせず、バイトなんかをしながら職業作家を夢見ている僕のタイムリミットなのだった。
 姉ちゃんは、僕が自分で決めているこのリミットを、知らない。はずだ。なんで、その姉ちゃんが僕を、思い浮かべたんだろう。何度、『問い合わせ』してみても、蝶はまだ姉ちゃんの住む白いマンションを飛び立ってはいないようだった。
『僕も、「田所祐二」って思い浮かべたんだ。だから、姉ちゃんはなんでなのかなあって』
 こんなところが、いつまでもコドモなんだろうな。僕は、思いながらも、クリックしてしまう。送信ボタン。姉ちゃんからの返信が待ち切れなかったというよりかも、一つ前に送った僕の短いメールが、今はなんだかひどく暗いメールに思えてしまって。姉ちゃんに、どうにか余裕を見せたくて。きっと、逆効果。わかっているのに、僕は送信ボタンをクリックしたんだ。
『まくら』──まっくら。お先、真っ暗。本当は、『枕』なんだろうけれど。その掌編小説の募集要項の欄には平仮名で『まくら』とあった。それを見た僕は、冗談じゃなく本当に、「お先、まっくら」と、くだらない事を口にした。そして笑った。楽しくなんて、もちろんなかった。僕は、小説家になれない。
 二年前、ギネス級の大見得を切ってしまった手前、家族や友人連中を前にしては決して口にはしないけれど。僕は、小説家にはなれない。才能なんて、無かったんだ。
「けっこう、面白いじゃない」
 忘れもしない。忘れるわけがない。あのときの、姉ちゃんの言葉が僕の頭に強く響いていた。響かせているのは、他でもない僕自身。だけど、姉ちゃんは、プロの編集者でもなければアマチュアの作家でもない。ただの、姉ちゃん。
「僕は、小説家になれない」
 唯一だった光源のモニターを切って、真っ暗な部屋の中。僕は、自分の耳にだけ聞こえる程度のボリュームで、呟いた。
 あの日。もう、何年も前の事だ。その時世、パソコンをいじくれる人間なんてどうせ居ないだろうと高をくくって無防備に置いておいたノートブック。高校の入学時に半ば強引に入手した、僕のお宝だったそれを、叔父さん叔母さん、従妹に従弟を引き連れての初詣から僕が帰ってくると、当時もうすぐ社会人二年生という頃の姉ちゃんが、シルバーブルーのそいつを開いて一人、クスクスと笑っていた。
「な、ちょ、なにしてんだよッ」
 親戚とはいえ他所サマの家。なのに僕は脱いだ靴もそのままに、どたばたと床を鳴らして茶の間へと駆け上がった。純和風だった当時の姉ちゃん家は、障子が閉まってさえいなければ玄関に立ったままで茶の間の半分が覗けたんだ。
「おかえり。てか、おはよう」
「じゃなくってさ、なにしてんだよッ」
 寝起きらしいボサボサの髪。寒くないのだろうか、襟首のよれたTシャツに一枚羽織っただけの格好。下は、コタツに隠れてわからない。
「ショーセツ、読んでた」
 にやにやと、姉ちゃんの嫌な顔。僕は自分の顔がぽかぽかと熱くなっていくのを実感していた。小説。姉ちゃんは、僕の書いたお話を読んで、僕の書いたお話をそう呼んだ。深い意味なんてなにも、なかったんだろうけれど。僕は、自分の書いたお話はあくまでも、『お話』であって、『小説』とは呼ばない。そんな、高尚なもんじゃないんだ、僕の『お話』は。
「か〜わいい、赤くなっちゃってさ。小説、って言っただけなのに」
 お付き合い、を始めたばかりの頃、姉ちゃんは言ってくれた。
「んでもそういう理屈っぽいのってさ、まさしくショーセツカ、なんじゃない?」
 言って、冗談っぽく笑ってくれた。
 その頃からだろうか。僕が、職業作家になるなんて夢を、真剣に考えるようになったのは。そして、お付き合いの中、仕事仕事で忙しい姉ちゃんを、遠くに感じるたびに僕は、職業作家に対するその想いを強く硬くしていった。ような気がする。
 僕が、彼女に認められるためには、小説家になるしかない。
 これといった理由があったわけでもなく、僕は、いつのまにかそう思い込んでいた。ずっと。そして今、僕はもう引き返せない。そんなところにまで、来てしまっていた。引き返せない。本当は、今もまた、ただそう思い込んでいるだけなのかもしれないのだけれど。
「僕は、小説家に、なれない」
 それは、
『消失』──僕の、消失。あくびもくしゃみもため息も、もう今は、出てきそうになかった。
『消失』『まくら』『23』。姉ちゃんは、どうして僕を、思い浮かべたんだろう。『まくら』わからない。『23』わからない。『消失』──僕の、胸だけが強く速く、うごめいていた。
 トゥールールールー……。『アゲハ蝶』。
 消えてしまったはずの僕は透明な腕を伸ばし、携帯をその手に掴んだ。胸元に、緩慢な動作で引き寄せる。
『23は、23区で東京。あたしの住んでるところね。まくらは、ひざまくら。そんで消失は──』
 僕は、いつのまに倒れこんでいたのだろう身を起こし、ピポパと携帯のメモリーを1つ、呼び出した。
 ワンコール。ツーコール。スリーコール目が鳴り出す前に、向こうの受話器は取られた。
「もしもしッ、姉ちゃん? ドーテーは、ショーシツじゃなくってソーシツ! あ? 細かくなんてないって。それが普通なのッ。同じじゃないって。そもそも、なんでそれが『僕の夢』になる……いや、したくないってわけじゃないけど……て、姉ちゃんッ! え……、別に、暗くなんて、なってないよ……うん……うん…………」
 僕は、受話器越しの姉ちゃんに言われるがまま、モニターの電源を入れた。そこに、ぼんやりから徐々に浮かび上がってきたのはメーラー。さっき、姉ちゃんに送信をしたときのまんま、閉じていなかったんだ。
「あ、うん……あった……」
 携帯にじゃなくわざわざパソコンに送るあたりが、なんだか姉ちゃんらしかった。新着メールは、カーソルの合わさったまま放置されてあったせいで、まだ読んでもいないのにもう既読とされていた。僕は、黒目を少しだけ下に動かし、表示されっぱなしのメールの内容に目を通す。
『真面目なの、嫌いじゃないけど。進みたいんなら、前、向きな。てか、さ、祐二の思った事、書いてよ。あたしは、祐二が思ったお話が、読みたいんだからさ』
 あのときは、『小説』と言ってくれた事。今は、『お話』と言ってくれる事。僕は、嬉しかった。
「……ありがとう、姉ちゃん」
 言った僕から一拍。息遣いだけを置いて、電話は切れてしまった。
 ──姉ちゃん。
 僕は、自然とにやける自分の頬を軽く軽く引っ張ってみて、それから、キーボードに手を伸ばす。
「っと。その前に、メーラー閉じなきゃ」
 気分も良いと、口数は多くなる。
「ポチっとな」
 閉じた瞬間、『アゲハ蝶』。手に取り、開くと、
『はよう、小説家になってお姉さんを楽にさせ。ショーシツは、それまでオアズケだぞ。いつまでも少年』
 光るモニターの中。画面一杯に広がって真っ白なテキスト上のカーソルは、いつまでも左上の定位置で規則的な明滅を繰り返していた。

 

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